根津美術館 2016-08-04
*天正2年(1574)
8月
・富山城、3月再び落城。
8月には越中の一向一揆は謙信に降伏。神保家もまた上杉方に復したようである。
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・秀吉、近江国友村の鉄砲鍛冶の藤二郎へ、国友村内に100石を扶助するので鉄炮生産は従来の如き旨を通達(「国友共有文書」)。
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・この月以降、越前一揆勢、織田軍の再侵攻に備え、南条郡・敦賀郡の境目で防禦を固める。
木ノ芽峠の観音丸砦に総指揮官の下間頼照勢(「信長公記」巻8では今城・火燧ケ城)、鉢伏砦に一家衆の大町専修寺・丹生郡西光寺・南条郡正闡坊(府中陽願寺)・今少路(丹生郡常願寺)・足羽郡照護寺勢、鷹打嶽に和田本覚寺勢(鑓講衆・北庄衆)、虎杖砦に下間和泉勢、柚尾(湯尾)砦に七里頼周勢が篭もる。
海岸沿いの敦賀郡杉津口は若林・府中坊主衆・堀江衆らが守る(「朝倉始末記」)。
「信長公記」によると、これ以外にも阿波賀三郎兄弟が鉢伏砦で、石田西光寺が鷹打岳で、大塩円宮寺勢・加賀衆が杉津口で守備につく。
但し、内部対立や大軍侵攻の恐怖から一揆勢は多数が結集せず、逃亡も相次ぎ、守備全面には本願寺坊官や宗主一族の一家衆が出る。
鉢伏砦の守備勢:
専修寺賢会の下に、直属門徒勢と大野衆(教願・萩野)や南条郡の円宮寺勢・専光寺(三門徒系か)勢・莇生田勢ら僅か100余人。
11月5日付の賢会最後の書状に、「惣別鉄炮之者共、(砦の)門徒衆いやがり候間、無用にて候」と記され、次々と逃亡・脱落した者の名が記され、賢会は「我々ハ捨物候哉」と絶望的状況下できたるべき信長軍に対峙し続ける(「専修寺賢会書状」)。
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8月1日
・家康(33)、小笠原氏秀の旧城・遠江馬伏塚城を修築、大須賀康高を守将とし高天神城の武田勢に備える。
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8月1日
・秀吉、伊勢大神宮御師上部大夫に、国友の地を寄進。
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8月2日
・織田軍(柴田勝家ら)、夜陰と風雨に紛れて大鳥居城脱出の一揆勢1千を殺害(「信長公記」巻7)。
「八月二日の夜、以(もつて)の外(ほか)風雨候。其紛(まぎ)れに、大鳥居篭城の奴原(やつばら)夜中にわき出て退散候を、男女千ばかり切捨てられ候」(「信長公記」)。
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8月3日
・信長軍、脱出する大鳥居籠城の一揆勢を攻撃。撫斬り1千。一揆勢、願証寺に逃亡。
12日、篠橋(しにはせ)城の一揆勢1千余、申し出通り願証寺に追込まれる。
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8月3日
・信長、摂津に出陣している細川藤孝に宛てて、
「端(はし)の一揆の楯籠る所は崩れ出し候間、追討ちに首数多見来(けんらい)候。長島一所の相究り候。いよいよ詰(つめ)の陣申付け候条、近目落居(らつきよ)たるべく候」と、
大鳥居の門徒衆を数多く斬首したことを書き送る。
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8月5日
・信長、細川藤孝へ、
「南方(摂津・河内)之一揆等、所々の味方中へ相働くべきの由、その沙汰不実に候。然りとこざと雖も(一揆方が)罷り出ずるに於いては、何時によらず係け合い(対戦して)、大坂を根切之覚悟専用に、様子は明智に相談ぜらるべき事、肝要の候。尾・勢の中に一揆の由に候。尋ね出し、悉く楯切りに申し付け候。長島一城の北入り候間、弥(いよい)よ取り巻き、詰め寄り候」。城内兵粮は欠乏し「落居」は間近い、長島陥落後は直ちに上洛し石山本願寺との戦線を「平均」(平定)する予定であると通知(「細川家文書」)。
武家に反抗する民衆(とりわけ門徒に対しては)、大坂でも長島同様根絶やしを指示。
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8月7日
・信長、河尻秀隆へ、
「河うち敵城ども・・・男女悉撫切りに申し付け候。・・・身をなけて死候者も多く候由、申候。・・・(願証寺から)色々わひに音参し候。なかなか取上げまじ」。
根切方針を通達。
伊勢長島方面鎮定後、摂津方面の河尻秀隆陣所を視察する予定、上杉謙信が越後より信濃へ「出張」することは無いという見通し、陸奥より「鷹共」が献上されたので一覧するために5日に岐阜城へ帰還し8日に長島陣所へ帰陣すると通達。(「富田仙助氏所蔵文書」)。
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8月12日
・信長、「八月十二日、しのはせ(篠橋砦)籠城の者、長嶋本坊主にて御忠節仕るべきの旨堅く御請申すの間、一命たすけ長嶋へ追入れらる」(「信長公記」7)。篠橋を助命し長島に入城させが、籠城者を増やし兵糧を早く消耗させるため。
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8月17日
・信長、長島に出陣。細川藤孝へ書状を送る。
一向一揆・三好氏らの摂津進撃報告に対して、些細な事でも各自相談の上で「手当」するべき、進撃が事実であれば期日以前でも出陣すべきである。伊勢長島方面の戦況については、「この表(長島)の事、篠橋落居以来弥(いよい)よ押詰め、長嶋構は江河(ごうか)一重の為躰(ていたらく)の候。色を易(か)へ、様を易へ、詫言仕(つかまつ)り候。然りと雖も火急ニ相果(あいはたす)べき事候の条、承引(しよういん)無く候。これに依り、(本願寺の決起が)方々成り立たず、(織田方の)調略等は相計らうべく候」。
篠橋を落としてから、ますます信長方の追い込みが激しくなって、長島の構えは川と海の一重になった。長島からいろいろと講和を求めてくるが、完全に絶滅させるために承諾しない。本願寺顕如は伊勢長島一向一揆との関係を「迷惑」していると通知してきている、この状況であれば各個撃破の「調略」は可能なので、摂津方面の作戦も明智光秀と相談して油断無く遂行することを命令。(「細川家文書」)。
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8月26日
・上杉謙信、厩橋城に援軍を送る。
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月末
・武田勝頼、再度遠江侵入。
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9月
・長嶋の飢餓が深刻化。
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・下間頼照、朝倉氏旧臣三輪藤兵衛の知行分を「義景御時の如く」安堵。
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9月1日
・ボアソ提督指揮ゼーラントのシー・ベガーズ800、ライデン救援に出発。更に、兵士2500と大砲10門を載せた船200隻が用意される。
ライデンは海岸から15マイル、はじめの5マイルは海水が十分侵入。先は、スペイン軍守備の堤防を奪取・破壊、海水を入れ船を前進。10月3日ライデン到着。
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9月6日
・アンリ3世、リヨンに入城。
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9月7日
・武田勝頼、天竜川に達する。家康と対峙するが洪水のため信濃伊那に戻る。
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9月10日
・最上義光と伊達輝宗が和睦。
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9月11日
・秀吉、近江竹生島宝厳寺衆中へ浅井郡早崎郷のうち300石を寄進。
浅野長吉(長政)に伊香総持寺郷の内120石を宛行う。(「竹生島文書」)
この頃、石田三成と観音寺で出合う。「三成三碗の才」。
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9月18日
・明知光秀・佐久間信盛・細川藤孝ら、河内飯盛山下堀溝に本願寺宗徒を破る。
19日、佐久間信盛、三好党の拠点河内高屋城下に迫り、城下を焼き払う。
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9月25日
・長島一揆、和を乞い屈伏。信長は篭城者全員退城を条件に、降伏を容れる。
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9月29日
・長島一向一揆平定
3万の一揆勢・長島願証寺、降伏。
石山より客将三位法橋頼旦・佐尭上人(14)助け抗戦。佐尭・三位法橋討死。
信長庶兄信広・弟秀成・叔父津田信次・従兄弟織田信成・同仙千代討死。
信長は龍城者全員の退城を条件に「詫言」を許す。長島から多くの門徒衆が舟に乗って投降してきた。
ところが、舟が岸に着く直前、堤に伏せていた織田軍の鉄砲隊が一斉射撃(「鉄炮を揃へうたせ」)。その数は弓隊を合わせて3千挺であった(『信長記』巻7)。
門徒衆は、なすすべもなく射殺され、岸に着いた者は次々に斬り殺された(「際限なく川へ切りすて」)。
まったくの編し討ちであり、情け容赦のない虐殺である。
「九月廿九日、御侘言申し、長嶋明退(あけの)き候。余多(あまた)の舟に取乗り候を、鉄砲を揃へうたせられ、際限なく川へ切りすてられ候。」
この仕打ちに激怒した門徒衆700~800人は素っ裸になって、抜刀したまま織田軍の陣地に斬り込んだ。この死に物狂いの反攻にあって、信長の兄の信広と弟の秀成が討死し、叔父の津田信次とその配下が討たれた。
血路をひらいた300余人は、織田方の小屋に乱入して、そこで身支度をととのえて、多芸山や北伊勢口方面へとちりぢりに逃げ、さらに大坂の石山本願寺に逃れていったという。
「其中に心ある者ども、はだかになり、抜刀(ぬきがたな)ばかりにて七、八百ばかり切り懸り、伐り崩し、御一門を初め奉り歴々数多討死。小口(こぐち=戦場の要所)へ相働き留守のこやこや(小屋々々)へ乱れ入り、思程(おもうほど)支度仕候て、それより川を越し多芸山・北伊勢ロへちりちりに罷退(まかりの)き、大坂へ迯(にげ)入るなり。」
降伏を拒否した屋長島と中江へは、幾重もの柵がめぐり、1人の脱出も封じたうえで四方から火が放たれた。この「焼きころし」の犠牲者は2万人という。
「中江城・屋長嶋の城両城にこれある男女二万ばかり幾重も尺(さく=柵)を付け、取籠め置かせられ候。四方より火を付け焼ころしに仰付けられ、御存分に属(しよく)し(積年の恨みを晴らし)、九月廿九日岐阜御帰陣なり。」(「信長公記」巻7)。
この戦いは、信長にとって後味の悪いものであった。
9月29日、身内・腹心を多く死なせてしまった。
しかも、だまし討ちに失敗したあげくの失態であった。
2万人の敵を焼き殺したといって、快哉を叫ぶ気にはなれなかったようだ。これまで、姉川の戦い、長篠の戦い、越前一揆殲滅戦などの戦いの後には、周囲の大名たちにさかんに戦捷を誇示していたが、この長島の殲滅戦に関しては、そうした文書が一通も見られない。
その後1ヶ月余、長島に駐屯した前野長康(木下秀吉配下)、「島内は数千のおびただしき体骸骨、甍(いらか)を敷きたるが如く、栄地の凶徒輩、念仏修行の道場にこと寄せ、悪態の始末なり」(「武功夜話」巻5)。
翌年天正3(1575)年初、信長、柴田勝家に長島城修築を命じる。
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9月29日
・信長、岐阜城へ凱旋。
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