治承4(1180)年8月23日
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・石橋山の合戦
源頼朝300騎、平家大庭景親3千余に石橋山の合戦で敗れる。三浦一族は遅参。
<平氏勢力>。
相模地方は平氏の勢力が強い。大庭景親軍(長尾爲景・海老名季貞・曽我祐信・熊谷直実・渋谷重国・俣野景久・河村義秀・糟谷盛久・山内経俊・毛利景行・梶原景時・稲毛重成ら3千余)。伊東祐親、背後から300余。
<頼朝勢力>
北条時政・安達盛長・工藤茂光・土肥実平・土屋宗遠・岡崎義実・佐奈田義忠(討死)・懐島景義・豊田景俊・中村景平ら300余。駿河水軍(国衙の水軍担当船所)、東湘三浦一族・西湘中村党(土肥・土屋・二宮)。
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「今日寅の刻、武衛、北條殿父子・盛長・茂光・實平以下三百騎を相率い、相模の国石橋山に陣し給う。この間件の令旨を以て、御旗の横上に付けらる。
・・・爰に同国住人大庭の三郎景親・俣野の五郎景久・河村の三郎義秀・渋谷庄司重国・糟屋権の守盛久・海老名の源三季員・曽我の太郎助信・瀧口の三郎経俊・毛利の太郎景行・長尾の新五為宗・同新六定景・原宗三郎景房・同四郎義行、並びに熊谷の次郎直實以下、平家被官の輩、三千余騎の精兵を率い、同じく石橋山の辺に在り。両陣の際一つの谷を隔つなり。
景親が士卒の中、飯田の五郎家義志を武衛に通じ奉るに依って、馳参せんと擬すと雖も、景親が従軍道路に列なるの間、意ならず彼の陣に在り。また伊東の二郎祐親法師三百余騎を率い、武衛の陣の後山に宿し、これを襲い奉らんと欲す。
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三浦の輩は、晩天に及ぶに依って、丸子河の辺に宿す。郎従等を遣わし景親が党類の家屋を焼失す。
その烟半天に聳え、景親等遙かにこれを見て、三浦の輩の所為の由を知りをはんぬ。相議して云く、今日すでに黄昏に臨むと雖も、合戦を遂ぐべし。明日を期せば、三浦の衆馳せ加わり、定めて衰敗し難きかの由群議す。
事訖わり、数千の強兵武衛の陣に襲攻す。而るに源家の従兵を計るに、彼の大軍に比べ難しと雖も、皆旧好を重んずるに依って、ただ致死を乞う。
然る間真田の余一義忠並びに武藤の三郎、及び郎従豊三家康等命を殞す。景親いよいよ勝ちに乗る。
暁天に至り、武衛椙山の中に逃れしめ給う。時に疾風心を悩まし、暴雨身を労る。
景親これを追い奉り、矢石を発つの処、家義景親が陣中に相交わりながら、武衛を遁し奉らんが為、我が衆六騎を引き分け景親に戦う。
この隙を以て椙山に入らしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「癸卯。曇。夜になって降り注ぐように激しく雨が降った。
今日の寅の刻に武衛が北条殿(時政)父子、(安達)盛長、(工藤)茂光、(土肥)実平以下の三百騎を率いて相模国石橋山に陣を構えられた。
この間、かの令旨を(頼朝の)御旗の横上にお付けになられ、中四郎(中原)惟茂がそれを持っていた。(永江)頼隆が白い幣を上矢に付け、頼朝の後に控えていた。
この頃、相模国の住人である大庭三郎景親、俣野五郎景久、河村三郎義秀、渋谷庄司垂国、糟屋権守盛久、海老名源三季貞、曽我太郎助信、滝口三郎(山内首藤)経俊、毛利太郎景行、長尾新五為宗、同新六定景、原宗三郎厨房、同四郎義行、熊谷次郎直実をはじめ平家被官の者三千余騎が同じく石橋山の辺りに陣を構えていた。
両陣の問は一つの谷で隔てられていた。
景親の兵の中で飯田五郎家義は、志を頼朝に寄せていたので、馳せ参じようとしたが、景親の軍勢が道に列っていたため、心ならずも景親の陣にいた。
また伊東祐親法師は三百余騎を率いて頼朝の陣の背後の山を宿とし、頼朝を襲おうとしていた。
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三浦の者たちは、夜になったので丸子川の辺りを宿とし、郎従らを遣わして、景親の一党の家屋を焼失させた。
その煙は空半分を覆うほど立ち上り、これを仰ぎ見た景親は三浦の者たちの仕業だと知るにいたった。
そこで景親らは話し合い、「今日はすでに黄昏時になろうとしているが、合戦を行うべきである。明日になれば三浦の者共が(頼朝方に)加わり、おそらく破ることは難しいだろう。」と軍議した。
そこで数千の強兵が頼朝の陣に襲いかかった。
源家に従う兵の数は景親らの大軍とは比べものにならないほど少なかったが、みな、昔からのよしみを重んじて死を恐れなかった。
そのため、佐那田余一義忠、武藤三郎、またその郎従である豊三家康らが命を落とした。
景親はいよいよ勝ちに乗じた。
明け方になって(頼朝は)杉山の中にお逃げになった。その時は疾風に心を悩ませ、暴雨に身を震わせた。
景親が頼朝を追って矢を放ったところ、飯田家義は景親の軍に加わっていたのだが、頼朝を逃れさせるために自分の家来のうちの六人を景親の軍と戦わせ、その際に(頼朝は)杉山にお入りになったという。」
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○熊谷直実(1141永治元~1208承元2):
熊谷直貞の次男。通称次郎。父の時より武蔵国大里郡熊谷郷を名字の地とし、熊谷氏を称す。
久下(クゲ)直光は姨母夫とされ、直実が直光の代官として京都大番役に勤仕中、傍輩等が直美に対し無礼をはたらいたことを理由に、平知盛に属し、石橋山合戦でも平家方につく。
その後、源氏に仕え、たびたび勲功をあげ、とくに佐竹秀義討伐では活躍。
寿永元年(1182)勲功により、久下直光の押領が停止され、武蔵国旧領熊谷郷が直美に安堵される。
寿永3年2月一ノ谷合戦の際、義経鵯越に従い、平山季重と先陣を争い、合戦で若年の平敦盛を討ったことが、後の出家の一因という(「平家物語」巻9)。
文治3年(1187)、鶴岡放生会の流鏑馬の的立役を辞退したことで所領を減封される(「吾妻鏡」文治3年8月4日条)。
建久3年(1192)熊谷郷と久下郷の境相論で、熊谷直実と久下直光が頼朝御前で対決。直美は、「武勇においては一人当千の名を馳すといえども、対決に至りては再往知十の才に足ら」ないことによって訴訟に敗北すると、証拠の調度文書等を御壷のうちへ投げ、自ら髻(モトドリ)を切り逐電(「吾妻鏡」建久3年11月25日条)。
その後、上洛、法然に帰依。法名蓮生。
法然と共に九条兼実を訪ねるが、自分は邸内に入れないことに怒り「極楽にはかかる差別はあるまじきものを」(「法然上人絵伝」巻27)と不満を述べたといわれる。
建久6年(1195)頼朝に参上、「身今法体すといえども、心なお真俗を兼ぬ」と積年の思いを語り合い、頼朝が引き留めると、後日参上を約して退出したという(「吾妻鏡」建久6年8月10日条)。
承元2年(1208)9月14日、東山の麓でかねての予告どおり、「端坐合掌し、高声念仏を唱え」ながら没(68)(「吾妻鏡」承元2年10月21日条)。なお、「法然上人絵伝」では武蔵国で果てたとある。
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○伊東祐親(?~1182寿永元):
伊東祐家の男。曽我兄弟の祖父。
伊豆伊東周辺に勢力を持つ豪族、頼朝方の中村・三浦・北条氏と親戚関係を持つ。
祐親は頼朝を自分の館に招き7年間面倒を見るが、大番役で不在の2年間に娘八重姫が頼朝の子を産み育てていたことに怒る。
反頼朝方につき、後、捕虜となり娘婿三浦氏に預けられるが、赦免され自害。
八重姫と頼朝を結びつけた祐親息子の祐清も、平家に味方し木曽義仲軍と戦い北陸で戦死。
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2010年5月22日土曜日
本能寺の変(12) 天正10年(1582)6月2日 見捨てられる安土城 筒井順慶は光秀に与する 細川父子は備中から引き返す 光秀軍は近江に向う
天正10年(1582)6月2日
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・午前10時頃、京都での変報が安土城下(京都より約50km)に伝わり、徐々に京都から下男たちが逃げ戻り、光秀の謀反が確認されて大変な騒ぎとなる。
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「身の介錯(「世話」の意)に取紛れ、泣き悲しむ者もなし。日比(ヒゴロ)の蓄へ、重宝の道具にも相構わず、家々を打捨て、妻子ばかりを引列れゝゝ、美濃・尾張の人々は本国を心ざし、思ひゝゝにのかれたり」(「信長公記」)。
*
「信長公記」は、安土城留守役として、本丸番衆7人、二の丸番衆14人、計21人を挙げているが、うち13人は留守役以外の事績が残っておらず、二線級又はそれ以下の人物。残り8人中4人は行政官僚で、武将は4人のみ。
その内、城持ちの大身は日野城主蒲生賢秀(カタヒデ)と膳所城主山岡景佐の2人だが、山岡景佐は変報を聞くや瀬田城に駆け付け、兄景隆に合流しており、この時点での安土城の最高責任者は蒲生賢秀である。
「老人雑話」で「頑愚にして天性臆病の人なり」と評される賢秀は、変報に接しその無能ぶりをさらけ出す。
賢秀がすぐに手勢を招集し断固たる姿勢を見せていれば、城下の混乱をある程度まで封じ込められたかもしれないが、何も行動を起こさず、将兵は続々と城を捨てて逃亡。
夜になると、明智方に内通した山崎秀家が自分の屋敷に火を放ち、城下は、「騒立つ事正躰(ショウタイ)なし」(「信長公記」)という状態に陥る。
その後、賢秀は、信長の妻子を日野城に移送するため、日野城から部隊を派遣させる。安土城は見捨てられた。
*
・朝、信長への挨拶のため奈良街道を北上する筒井順慶の許に光秀の使者が到着。
順慶は光秀に与することを即決し、配下の井戸良弘(順慶の義兄、槇島城2万石の城主)を上洛させる。
順慶自身は、大坂の四国方面軍を牽制し、近江に進撃した明智勢の背後の安全を確保するため、郡山城に引き返す。
*
・午前10時頃、多聞院英俊(興福寺多聞院の僧侶)、「変」報を知る。
「信長於京都生害云々、同城介殿も生害云々、惟任并七兵衛申合令生害云々、今暁之事今日四之過(午前10時過ぎ)ニ聞へ了」(「多聞院日記」)。
事変が、光秀とその女婿七兵衛(織田信澄)との共同謀議との不確実情報が伝わる。続いて、信長死去を盛者必衰と記し、今後世情が動揺するであろうと予測。
*
翌3日、
「京都の儀、たしかには聞こえず」と確実な情報不足を記すが、この日のうちに新情報が伝わり、「京ヨリ注進の面、信長ハ本能寺ニテ、城介ハ二条殿ニテ生害」と記す。
*
・昼頃、備中に向かっている細川藤孝・忠興父子、但馬竹田で変報に接し引返す。
細川家家臣米田求政の家来早田道鬼斎(早足で1時間に11km歩く)が、相国寺門前の米田の屋敷で察知した光秀謀反の知らせをもたらす。(「細川家記」)
*
◆細川藤孝(信長の家臣となった経緯及び光秀との関係):
室町幕府の奉公衆三淵晴員の次男(12代将軍足利義晴の落胤との説が有力)。
6歳の時、家格が上の細川家へ養子に入る。
永禄8年、松永久秀と三好三人衆が室町御所を襲撃し、将軍義輝を殺害。久秀らは、義輝の弟の鹿苑院周暠と一乗院覚慶も狙うが、藤孝の働きによって覚慶だけは脱出。
藤孝は、覚慶(足利義昭と改める)の御供をして、将軍家再興に助力してくれる大名を求めて諸国を渡り歩き、越前朝倉家に寄寓した際に光秀と知り合う。
その後、光秀は朝倉家を辞し義昭の家臣となり、藤孝と苦楽を共にするようになる。
永禄11年7月、義昭主従は信長の岐阜に迎えら、9月に上洛、10月には征夷大将軍に就任。
しかし、元亀3年頃、将軍職を傀儡に留め置こうとする信長と義昭との間の亀裂が表面化する。この時、藤孝は、義昭との距離を開けながら、信長との連絡を密にし、天正元年2月には、形勢が明らかになるまで中立的立場で静観するため、口実を設け居城勝龍寺城に逼塞。
そして3月末、藤孝は織田方に寝返る。
信玄没の報せが伝わった後、藤孝は、義昭攻撃のために上洛した信長を出迎えて臣従を誓う。信長は、幕府の重職である藤孝が味方した事は、将軍家と対立する信長を正当化する材料と喜び、藤孝に秘蔵の脇差を与え、京都西南の西岡の地を加増する。
幕府滅亡後、藤孝は光秀と共に摂津・河内を転戦。
両家の交際は親密で、藤孝は嫡子忠興の妻に光秀の娘玉(後のガラシャ)を迎える。
文化人としての名声はあるが、藤孝の軍事能力は高くなく、光秀が頭角を現すと、藤孝はその与力武将として扱われるようになる。
天正6年、藤孝は光秀の支援を受けて丹後に侵攻し、翌年ようやく平定、丹後支配を任されるが、指揮系統では光秀の与力という形にとどまる。
*
・午後1時頃、明智勢は近江へ出発。
近江に向う理由。
①織田家の権威の象徴である安土城を落とすため。
②城主不在の城が多い。長浜城の秀吉は中国方面に出征、佐和山城の丹羽長秀や大溝城の津田信澄は摂津に出向いている。
③柴田勝家に対する備え(迎撃態勢構築)。光秀が想定する最大の敵は北陸方面軍を率いる筆頭家老柴田勝家。
④近江の経済力(80万石、兵力2万人)の掌握。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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・午前10時頃、京都での変報が安土城下(京都より約50km)に伝わり、徐々に京都から下男たちが逃げ戻り、光秀の謀反が確認されて大変な騒ぎとなる。
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「身の介錯(「世話」の意)に取紛れ、泣き悲しむ者もなし。日比(ヒゴロ)の蓄へ、重宝の道具にも相構わず、家々を打捨て、妻子ばかりを引列れゝゝ、美濃・尾張の人々は本国を心ざし、思ひゝゝにのかれたり」(「信長公記」)。
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「信長公記」は、安土城留守役として、本丸番衆7人、二の丸番衆14人、計21人を挙げているが、うち13人は留守役以外の事績が残っておらず、二線級又はそれ以下の人物。残り8人中4人は行政官僚で、武将は4人のみ。
その内、城持ちの大身は日野城主蒲生賢秀(カタヒデ)と膳所城主山岡景佐の2人だが、山岡景佐は変報を聞くや瀬田城に駆け付け、兄景隆に合流しており、この時点での安土城の最高責任者は蒲生賢秀である。
「老人雑話」で「頑愚にして天性臆病の人なり」と評される賢秀は、変報に接しその無能ぶりをさらけ出す。
賢秀がすぐに手勢を招集し断固たる姿勢を見せていれば、城下の混乱をある程度まで封じ込められたかもしれないが、何も行動を起こさず、将兵は続々と城を捨てて逃亡。
夜になると、明智方に内通した山崎秀家が自分の屋敷に火を放ち、城下は、「騒立つ事正躰(ショウタイ)なし」(「信長公記」)という状態に陥る。
その後、賢秀は、信長の妻子を日野城に移送するため、日野城から部隊を派遣させる。安土城は見捨てられた。
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・朝、信長への挨拶のため奈良街道を北上する筒井順慶の許に光秀の使者が到着。
順慶は光秀に与することを即決し、配下の井戸良弘(順慶の義兄、槇島城2万石の城主)を上洛させる。
順慶自身は、大坂の四国方面軍を牽制し、近江に進撃した明智勢の背後の安全を確保するため、郡山城に引き返す。
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・午前10時頃、多聞院英俊(興福寺多聞院の僧侶)、「変」報を知る。
「信長於京都生害云々、同城介殿も生害云々、惟任并七兵衛申合令生害云々、今暁之事今日四之過(午前10時過ぎ)ニ聞へ了」(「多聞院日記」)。
事変が、光秀とその女婿七兵衛(織田信澄)との共同謀議との不確実情報が伝わる。続いて、信長死去を盛者必衰と記し、今後世情が動揺するであろうと予測。
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翌3日、
「京都の儀、たしかには聞こえず」と確実な情報不足を記すが、この日のうちに新情報が伝わり、「京ヨリ注進の面、信長ハ本能寺ニテ、城介ハ二条殿ニテ生害」と記す。
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・昼頃、備中に向かっている細川藤孝・忠興父子、但馬竹田で変報に接し引返す。
細川家家臣米田求政の家来早田道鬼斎(早足で1時間に11km歩く)が、相国寺門前の米田の屋敷で察知した光秀謀反の知らせをもたらす。(「細川家記」)
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◆細川藤孝(信長の家臣となった経緯及び光秀との関係):
室町幕府の奉公衆三淵晴員の次男(12代将軍足利義晴の落胤との説が有力)。
6歳の時、家格が上の細川家へ養子に入る。
永禄8年、松永久秀と三好三人衆が室町御所を襲撃し、将軍義輝を殺害。久秀らは、義輝の弟の鹿苑院周暠と一乗院覚慶も狙うが、藤孝の働きによって覚慶だけは脱出。
藤孝は、覚慶(足利義昭と改める)の御供をして、将軍家再興に助力してくれる大名を求めて諸国を渡り歩き、越前朝倉家に寄寓した際に光秀と知り合う。
その後、光秀は朝倉家を辞し義昭の家臣となり、藤孝と苦楽を共にするようになる。
永禄11年7月、義昭主従は信長の岐阜に迎えら、9月に上洛、10月には征夷大将軍に就任。
しかし、元亀3年頃、将軍職を傀儡に留め置こうとする信長と義昭との間の亀裂が表面化する。この時、藤孝は、義昭との距離を開けながら、信長との連絡を密にし、天正元年2月には、形勢が明らかになるまで中立的立場で静観するため、口実を設け居城勝龍寺城に逼塞。
そして3月末、藤孝は織田方に寝返る。
信玄没の報せが伝わった後、藤孝は、義昭攻撃のために上洛した信長を出迎えて臣従を誓う。信長は、幕府の重職である藤孝が味方した事は、将軍家と対立する信長を正当化する材料と喜び、藤孝に秘蔵の脇差を与え、京都西南の西岡の地を加増する。
幕府滅亡後、藤孝は光秀と共に摂津・河内を転戦。
両家の交際は親密で、藤孝は嫡子忠興の妻に光秀の娘玉(後のガラシャ)を迎える。
文化人としての名声はあるが、藤孝の軍事能力は高くなく、光秀が頭角を現すと、藤孝はその与力武将として扱われるようになる。
天正6年、藤孝は光秀の支援を受けて丹後に侵攻し、翌年ようやく平定、丹後支配を任されるが、指揮系統では光秀の与力という形にとどまる。
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・午後1時頃、明智勢は近江へ出発。
近江に向う理由。
①織田家の権威の象徴である安土城を落とすため。
②城主不在の城が多い。長浜城の秀吉は中国方面に出征、佐和山城の丹羽長秀や大溝城の津田信澄は摂津に出向いている。
③柴田勝家に対する備え(迎撃態勢構築)。光秀が想定する最大の敵は北陸方面軍を率いる筆頭家老柴田勝家。
④近江の経済力(80万石、兵力2万人)の掌握。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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明治5年(1872)4月~5月 江藤新平が初代司法卿に就任 施し厳罰の布告 天皇の西日本巡幸 琉球併合が建議される [一葉0歳]
明治5年(1872)4月 (この年11月まで日本は太陰暦)
*
この月
・神奈川県令陸奥宗光「田租改正建議」。*
・左院少議官宮島誠一郎「民選議院設立時期尚早論」。板垣賛成、江藤反対。
*
左院少議官宮島誠一郎は、国憲制定の必要性を大議官伊地知正治に相談し賛意を得て、参議西郷・板垣も好意的であり、「立国憲議」を起草し左院議長後藤に提出。
宮島の提案に江藤副議長は反対。
宮島は「皇国古来固有」の国体を立論の前提とする。無知蒙昧な人民の「自主自由」を規制するために君権の確定が必要であり、そのための憲法制定を説く。
*
・守田勘弥・河竹新七・桜田治助、第1大区役所で芝居について説諭される。
*
・東京~大阪間、電信開通。
*
・ビッツオフ駐日代理公使着任、副島種臣に樺太を200万円で買収することを提案(妥結せず)。
*
・マルクス、インター総務委員会で、リープクネヒト、ベーベルらへのライプツィッヒ裁判の結果を報告、アイルランド労働者に対するヘールズの消極的態度を非難。アイルランド警察のテロルへの抗議宣言作成委任。9日、宣言が読上げられる。
*
4月4日
・信濃川分水工事に従事の農民、蜂起。
*
4月5日
・女子の断髪、禁止。
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4月7日
・児島惟謙、司法権少判事(7等)に任命。11月18日、司法少判事に任命、大阪出向。
*
4月9日・庄屋・年寄廃止、戸長・副戸長置く。
*
4月9日
・「資本論」ロシア語訳3千部、発行。
*
4月14日
・新英学校、女子に対する手芸の教授施設の女紅場(じょこうば)が開設。
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4月15日
・開拓使仮学校、開校。
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・永井尚志(58)、正六位に叙任。
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4月15日
・ワーグナー「マンフレッド瞑想曲」作曲。
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4月25日
・(新5/31)江藤新平(38)、初代司法卿に就任。司法権確立に挺身。5月、裁判所を司法省管轄・裁判権独立等司法省伺提出允可。
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司法権の状況:
明治4年7月9日、司法省が設置(刑部省・弾正台合併)されるが、権限は刑事裁判のみ。民事は大蔵省所管。
明治4年9月、民事訴訟裁判が司法省に移管されるが、実施されたのは東京府のみで、他は従来通り大蔵省監督下の地方官が裁判を行う(行政庁である府県が、同時に司法権も行使)。
また、司法省大輔佐々木高行が岩倉使節団に理事官として加わり、事務も停滞。
保守派の佐々木は、司法少輔宍戸璣を司法大輔に、司法中判事伊丹重賢を司法少輔に昇格させるが、両人共に穏健派。
急進派の司法省権中判事島本仲道(39)・同河野敏鎌らが強力なリーダとして江藤の司法卿就任を参議大隈重信・大蔵大輔井上馨に働きかける。
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4月25日
・教部省、教導職を置き、大教正以下権訓導まで14級に分け、まず神職・僧侶を任命。
敦賀県下の教導職は、神官が33人(越前18・若狭15)、僧侶が760人(96%、越前519・若狭241)計793人。全国平均では、神官が全体の約60%。
敦賀県では、寺院(とりわけその過半を占める真宗寺院勢力)の協力を得なければ、教導職体制が推進できないことを示す。
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・僧侶の妻帯、肉食、髪を伸ばし、平服着用、許可。
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4月30日
・イギリス人メイヤ兄弟、上海で中国最初の商業新聞「申報」を創刊。
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5月
・国会開設建白の最も早いもの。
犬上県の福島昇の「立憲為政之略議」。上院は従来の3院(正院・左院・右院)で構成し、下院は「入札」制をとり、府県の大区には公選制の「議事社」を設ける。
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5月2日
・太政官左院、司法卿江藤新平の欧米派遣発令。太政大臣三条実美が出発延期を要請。17日、随員のみが大久保・伊藤と同船で出発。
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5月10日
・施し厳罰の布告。
「香川県布告に、仏法に耽溺するの情より遍路乞食等へ一銭半椀の小恵(ショウケイ)を施し、乞食等も亦甘じて小恵に安んじ、更に改心の期なし、却て害を招く基と相成、甚以(ハナハダモッテ)宜しからざる儀に付、今後右等小恵を施し候儀堅く不相成(アイナラズ)。万一右の令にそむく者これあるにおいては爾後其者厄介に申付義も有之べく候条、何(イズレ)も心得違いこれなき様致すべき事。但し其身体不具にして自存する事能わざる者は親族は申すに及ばず、其村町に於て厚く世話いたし、他村他町等に袖乞(ソデゴイ)等致さざる様、戸長、村町役人共取計(トリハカライ)申可事。」(明治5年5月10日付け「新聞要録」)
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これは、全国に発令されたものと見え、この1ヶ月後、埼玉県佐知川村で、乞食に物を与え軒先に止宿させた農民が、罰として「厄介」(面倒を見ること)を命じられたということがある。
貧しい者に援助の手を差しのべることがかえってその独立心をそぐことになる、という発想。
*
5月11日
・日清修好条規改定交渉で天津滞在の外務大丞兼少弁務使柳原前光(22)、この日付け「京報」に琉球遭難民の記事掲載を知る。外務卿副島種臣に報告。
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5月14日
・(新6/19)大久保・伊藤に新全権委任状交付(特定国との調印不許可の留保付、事実上使用不可能)。外務卿副島種臣は岩倉使節団の軽率・無定見を厳しく批判。17日(新6/22)、再度アメリカへ。
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5月14日
・ビスマルク宰相、カトリック勢力と対決演説。文化闘争展開しカトリック弾圧決意を固める。
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5月14日
・(旧4/8)吉田清成ら、ワシントン入り。
少弁務使森有礼は、外債募集は自分の職権と考え、吉田の派遣を不愉快に感じ、秩禄処分・外債募集に反対の意見を新聞に流し、吉田の職務の妨害をする。
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吉田と森は慶応元年に鹿児島からイギリスに送られた留学生仲間。森は先に帰国、制度取調掛として帯刀廃止などの急進的意見で守旧派から憎まれ、明治3年閏10月アメリカに派遣。
吉田は、明治3年12月アメリカ出発、明治4年2月帰国、大蔵官僚となる。
明治6年1月13日ロンドンでオリエンタル・バンクとの契約調印に成功。
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5月15日
・大蔵大輔井上馨、各府県からの送納租税を御為替方3組(小野・三井・島田組)に委託。
いちはやく食い込んだ小野組は、1府28県を任され全国40数ヶ所に出張所を設置、取扱高でも三井・島田組を凌ぐ。
*
5月15日
・この頃~73年1月頃。エンゲルス、「フォルクスシュタート」に「住宅問題」を書き始める。
*
5月17日
・大久保・伊藤、条約改正交渉権の委任状を持って横浜発、アメリカに向う。
江藤の代りに随員司法少丞河野敏鎌・権中判事岸良兼養・警保助川路利良・司法中録井上毅・司法省七等出仕沼間守一・同名村泰蔵ら8人派遣(フランス司法制度調査、法律顧問招聘)。
副島種臣により駐イギリス大弁使任命の前外務大輔寺島宗則同船(岩倉使節団の監視)。
*
5月19日
・横浜駅(現在の桜木町駅)が開業。
*
5月20日
・(新6/25)司法卿江藤新平、「司法省仮規程」制定。司法省は裁判所・裁判官の総括をする。
*
同日、正院に対して、各府県の裁判所を司法省の管轄におきたいので至急の評決を求める(全国裁判事務の司法省への統一)。
*
22日、「司法事務」全5条、制定。
司法省による全国裁判所統轄の方針及び裁判内容への不干渉。「司法省誓約五箇条」、制定。司法省は「民ノ司直」であり、責務は「人民ノ権利ヲ保護」することとする。
*
27日、司法省裁判所(1等裁判所)開設。
*
29日から、新聞記者を招いて、司法省裁判所と東京裁判所(明治4年12月27日司法省内に開設、2等裁判所)を傍聴させる。
*
5月22日
・ワーグナー(59)、バイロイト祝祭劇場定礎式(起工式)。リストは招待を受けるが欠席。
*
5月23日
・(新6/28)天皇、西日本巡幸。
新制の正服(燕尾形ホック掛けの洋服)を初めて着用する。軍艦「龍驤」で出航。島津久光慰撫。
西郷隆盛・陸軍少輔西郷従道・海軍少輔川村純義・宮内卿徳大寺実則ら70余、随行。近衛兵1小隊・軍艦9隻動員。
6月17日、長崎着。22日(7/27)、鹿児島着。7月4日、西郷兄弟、丸亀より帰京。12日(8/15)、天皇帰京。
*
5月29日
・東京師範学校創設、決定。 教員養成目的。
*
5月30日
・大蔵大輔井上馨、正院に対し琉球完全併合を建議。福島外務卿は琉球藩とし外交権封じる建議。
*
6月2日、正院、琉球措置を左院(立法審議機関)に諮問。左院は、
性急な日清両属解消は「清と争端を開く」恐れありとして、現状維持説。結局、急進(大蔵省)・漸進(外務省)・現状維持(左院)のうちの中間の外務省案(琉球藩設置)を採用。鹿児島県経由で在琉の伊地知を通じて、琉球王府に日本新政慶賀の使節を東京に派遣するよう達する。
21日、鹿児島県伊地知貞馨、琉球王府に琉球藩設置方針踏まえ日本新政権慶賀使節の派遣要請を伝える。
*
*
「★一葉インデックス」をご参照下さい。
*
*
*
この月
・神奈川県令陸奥宗光「田租改正建議」。*
・左院少議官宮島誠一郎「民選議院設立時期尚早論」。板垣賛成、江藤反対。
*
左院少議官宮島誠一郎は、国憲制定の必要性を大議官伊地知正治に相談し賛意を得て、参議西郷・板垣も好意的であり、「立国憲議」を起草し左院議長後藤に提出。
宮島の提案に江藤副議長は反対。
宮島は「皇国古来固有」の国体を立論の前提とする。無知蒙昧な人民の「自主自由」を規制するために君権の確定が必要であり、そのための憲法制定を説く。
*
・守田勘弥・河竹新七・桜田治助、第1大区役所で芝居について説諭される。
*
・東京~大阪間、電信開通。
*
・ビッツオフ駐日代理公使着任、副島種臣に樺太を200万円で買収することを提案(妥結せず)。
*
・マルクス、インター総務委員会で、リープクネヒト、ベーベルらへのライプツィッヒ裁判の結果を報告、アイルランド労働者に対するヘールズの消極的態度を非難。アイルランド警察のテロルへの抗議宣言作成委任。9日、宣言が読上げられる。
*
4月4日
・信濃川分水工事に従事の農民、蜂起。
*
4月5日
・女子の断髪、禁止。
*
4月7日
・児島惟謙、司法権少判事(7等)に任命。11月18日、司法少判事に任命、大阪出向。
*
4月9日・庄屋・年寄廃止、戸長・副戸長置く。
*
4月9日
・「資本論」ロシア語訳3千部、発行。
*
4月14日
・新英学校、女子に対する手芸の教授施設の女紅場(じょこうば)が開設。
*
4月15日
・開拓使仮学校、開校。
*
・永井尚志(58)、正六位に叙任。
*
4月15日
・ワーグナー「マンフレッド瞑想曲」作曲。
*
4月25日
・(新5/31)江藤新平(38)、初代司法卿に就任。司法権確立に挺身。5月、裁判所を司法省管轄・裁判権独立等司法省伺提出允可。
*
司法権の状況:
明治4年7月9日、司法省が設置(刑部省・弾正台合併)されるが、権限は刑事裁判のみ。民事は大蔵省所管。
明治4年9月、民事訴訟裁判が司法省に移管されるが、実施されたのは東京府のみで、他は従来通り大蔵省監督下の地方官が裁判を行う(行政庁である府県が、同時に司法権も行使)。
また、司法省大輔佐々木高行が岩倉使節団に理事官として加わり、事務も停滞。
保守派の佐々木は、司法少輔宍戸璣を司法大輔に、司法中判事伊丹重賢を司法少輔に昇格させるが、両人共に穏健派。
急進派の司法省権中判事島本仲道(39)・同河野敏鎌らが強力なリーダとして江藤の司法卿就任を参議大隈重信・大蔵大輔井上馨に働きかける。
*
4月25日
・教部省、教導職を置き、大教正以下権訓導まで14級に分け、まず神職・僧侶を任命。
敦賀県下の教導職は、神官が33人(越前18・若狭15)、僧侶が760人(96%、越前519・若狭241)計793人。全国平均では、神官が全体の約60%。
敦賀県では、寺院(とりわけその過半を占める真宗寺院勢力)の協力を得なければ、教導職体制が推進できないことを示す。
*
・僧侶の妻帯、肉食、髪を伸ばし、平服着用、許可。
*
4月30日
・イギリス人メイヤ兄弟、上海で中国最初の商業新聞「申報」を創刊。
*
*
5月
・国会開設建白の最も早いもの。
犬上県の福島昇の「立憲為政之略議」。上院は従来の3院(正院・左院・右院)で構成し、下院は「入札」制をとり、府県の大区には公選制の「議事社」を設ける。
*
5月2日
・太政官左院、司法卿江藤新平の欧米派遣発令。太政大臣三条実美が出発延期を要請。17日、随員のみが大久保・伊藤と同船で出発。
*
5月10日
・施し厳罰の布告。
「香川県布告に、仏法に耽溺するの情より遍路乞食等へ一銭半椀の小恵(ショウケイ)を施し、乞食等も亦甘じて小恵に安んじ、更に改心の期なし、却て害を招く基と相成、甚以(ハナハダモッテ)宜しからざる儀に付、今後右等小恵を施し候儀堅く不相成(アイナラズ)。万一右の令にそむく者これあるにおいては爾後其者厄介に申付義も有之べく候条、何(イズレ)も心得違いこれなき様致すべき事。但し其身体不具にして自存する事能わざる者は親族は申すに及ばず、其村町に於て厚く世話いたし、他村他町等に袖乞(ソデゴイ)等致さざる様、戸長、村町役人共取計(トリハカライ)申可事。」(明治5年5月10日付け「新聞要録」)
*
これは、全国に発令されたものと見え、この1ヶ月後、埼玉県佐知川村で、乞食に物を与え軒先に止宿させた農民が、罰として「厄介」(面倒を見ること)を命じられたということがある。
貧しい者に援助の手を差しのべることがかえってその独立心をそぐことになる、という発想。
*
5月11日
・日清修好条規改定交渉で天津滞在の外務大丞兼少弁務使柳原前光(22)、この日付け「京報」に琉球遭難民の記事掲載を知る。外務卿副島種臣に報告。
*
5月14日
・(新6/19)大久保・伊藤に新全権委任状交付(特定国との調印不許可の留保付、事実上使用不可能)。外務卿副島種臣は岩倉使節団の軽率・無定見を厳しく批判。17日(新6/22)、再度アメリカへ。
*
5月14日
・ビスマルク宰相、カトリック勢力と対決演説。文化闘争展開しカトリック弾圧決意を固める。
*
5月14日
・(旧4/8)吉田清成ら、ワシントン入り。
少弁務使森有礼は、外債募集は自分の職権と考え、吉田の派遣を不愉快に感じ、秩禄処分・外債募集に反対の意見を新聞に流し、吉田の職務の妨害をする。
*
吉田と森は慶応元年に鹿児島からイギリスに送られた留学生仲間。森は先に帰国、制度取調掛として帯刀廃止などの急進的意見で守旧派から憎まれ、明治3年閏10月アメリカに派遣。
吉田は、明治3年12月アメリカ出発、明治4年2月帰国、大蔵官僚となる。
明治6年1月13日ロンドンでオリエンタル・バンクとの契約調印に成功。
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5月15日
・大蔵大輔井上馨、各府県からの送納租税を御為替方3組(小野・三井・島田組)に委託。
いちはやく食い込んだ小野組は、1府28県を任され全国40数ヶ所に出張所を設置、取扱高でも三井・島田組を凌ぐ。
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5月15日
・この頃~73年1月頃。エンゲルス、「フォルクスシュタート」に「住宅問題」を書き始める。
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5月17日
・大久保・伊藤、条約改正交渉権の委任状を持って横浜発、アメリカに向う。
江藤の代りに随員司法少丞河野敏鎌・権中判事岸良兼養・警保助川路利良・司法中録井上毅・司法省七等出仕沼間守一・同名村泰蔵ら8人派遣(フランス司法制度調査、法律顧問招聘)。
副島種臣により駐イギリス大弁使任命の前外務大輔寺島宗則同船(岩倉使節団の監視)。
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5月19日
・横浜駅(現在の桜木町駅)が開業。
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5月20日
・(新6/25)司法卿江藤新平、「司法省仮規程」制定。司法省は裁判所・裁判官の総括をする。
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同日、正院に対して、各府県の裁判所を司法省の管轄におきたいので至急の評決を求める(全国裁判事務の司法省への統一)。
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22日、「司法事務」全5条、制定。
司法省による全国裁判所統轄の方針及び裁判内容への不干渉。「司法省誓約五箇条」、制定。司法省は「民ノ司直」であり、責務は「人民ノ権利ヲ保護」することとする。
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27日、司法省裁判所(1等裁判所)開設。
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29日から、新聞記者を招いて、司法省裁判所と東京裁判所(明治4年12月27日司法省内に開設、2等裁判所)を傍聴させる。
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5月22日
・ワーグナー(59)、バイロイト祝祭劇場定礎式(起工式)。リストは招待を受けるが欠席。
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5月23日
・(新6/28)天皇、西日本巡幸。
新制の正服(燕尾形ホック掛けの洋服)を初めて着用する。軍艦「龍驤」で出航。島津久光慰撫。
西郷隆盛・陸軍少輔西郷従道・海軍少輔川村純義・宮内卿徳大寺実則ら70余、随行。近衛兵1小隊・軍艦9隻動員。
6月17日、長崎着。22日(7/27)、鹿児島着。7月4日、西郷兄弟、丸亀より帰京。12日(8/15)、天皇帰京。
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5月29日
・東京師範学校創設、決定。 教員養成目的。
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5月30日
・大蔵大輔井上馨、正院に対し琉球完全併合を建議。福島外務卿は琉球藩とし外交権封じる建議。
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6月2日、正院、琉球措置を左院(立法審議機関)に諮問。左院は、
性急な日清両属解消は「清と争端を開く」恐れありとして、現状維持説。結局、急進(大蔵省)・漸進(外務省)・現状維持(左院)のうちの中間の外務省案(琉球藩設置)を採用。鹿児島県経由で在琉の伊地知を通じて、琉球王府に日本新政慶賀の使節を東京に派遣するよう達する。
21日、鹿児島県伊地知貞馨、琉球王府に琉球藩設置方針踏まえ日本新政権慶賀使節の派遣要請を伝える。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい。
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2010年5月20日木曜日
江戸城本丸跡 ハマナス シロバナハマナス フローレンス・ナイチンゲール カノコ コウシンバラ マイカイ ヤマボウシ バイカウツギ
2010年5月18日火曜日
北の丸公園 五月の陽を浴びてモミジもえる
2010年5月17日月曜日
明治5年(1872)1月~3月 「学問のすすめ」出版 島崎藤村誕生 樋口一葉誕生 [一葉0歳]
明治5年(1872)1月 (この年11月まで日本は太陰暦)
*
この月
・鹿児島県庁、伊地知貞馨・奈良原繁を琉球に派遣。
廃藩置県に対応した琉球王府の措置を要求(琉球の管理権が鹿児島県から日本政府に移る)。
交渉は不調に終る。
この時、伊地知は、遭難した宮古島民の那覇帰還に際会。
*
・正岡子規(6)、家督相続。
*
・マルクス、第2版のため「資本論」に手を加え、第1版の付録を第1章に入れる。
*
1月2日
・国際労働者協会(第一次インターナショナル)総務委員会でイギリス連合委員会と総務委員会の関係について議論。
16日、規約改正を条件にイギリス連合委員会を承認するマルクス提案が採択。
*
1月2日
・ニーチェ、「音楽の精神からの悲劇の誕生」をフリッチュ書店(ヴァーグナーの著作を出版)から刊行(1000部)。中旬から数回、バーゼル市学術協会依頼の公開講演「我々の教育施設の将来について」、好評。
*
1月6日
・榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介、松平容保・喜徳ら、無罪放免。
*
1月10日
・東海道各駅の伝馬所・貫目改所が廃止。助郷解散令も出される。
*
1月12日
・永井尚志(58)、開拓使御用掛に任命。19日、少議官に任命。
*
1月16日
・台湾牡丹社で清国人民官に保護された琉球宮古島民、福建省福州の琉球館に引取られる。6月7日、那覇に帰還。
*
1月17日
・スイス第1インターナショナル支部に解散命令。*
1月23日
・天皇の操練始まる。前年(明治4年)12月10日、天皇のための御練兵御用掛が新設。
*
1月24日
・天皇の肉食の最初の日、といわれる。
*
1月27日
・左院(後藤・江藤)のヨーロッパ視察団、横浜出航。
岩倉視察団とは別にイギリス・フランスの議会制度の調査研究のため。
中議官西岡逾明・同小室信夫・中議生鈴木貫一・少議生安川繁成。
*
1月29日
・複雑な身分制度を華族・士族・平民に単純化。卒身分の廃止。卒を士族(世襲の卒)と平民(1代限りの卒)に分け、新身分制度が確立。
*
1月29日
・初の全国戸籍調査実施。総人口は33,110,825人。
*
2月
・柳原前光を北京に派遣。批准書交換を前に修正交渉。
*
・秩禄処分案(大蔵省案、家禄廃止計画)、太政官正院で内決。
急進的内容。3千万円外債募集・家禄削減案(1/3減額、残額を6ヶ年継続後打切り)。
これは、約定違反。
大隈作成・井上協力・西郷賛成。
但し、後に大修正となる。西郷は3千万円のアメリカでの外債募集のため、大蔵少輔吉田清成・大蔵少丞大鳥圭介らをアメリカに送る(2月16日、横浜発)。
*
・中村敬宇「自由之理」刊行。ミル「自由論」を翻訳。
*
・福沢諭吉「学問のすすめ」(~明治9年11月迄)。慶応義塾の「活字版」により出版。
*
・京都府大参事槇村正直、工部省鉄道寮御用兼任命ぜられる。
この頃、敦賀~京都~大阪の鉄道建設費を改めて見積もるが、70万円とされていたものが140万かかるとされる。工部省は国有化案、大蔵省は民営化案を主張。
*
・マルクス、ソンヴィーエ大会(71年11月)の諸決定とジュラ連合の総務委員会への攻撃に対する回答として、秘密回状「インタナショナルのいわゆる分裂」作成。
スイスのバクーニン主義者の破壊活動、国際労働者協会の原則と政策の歴史的発展を述べる。
3月、総務委員会に提出、採択。
*
2月8日
・「日新真事誌」発行。
*
2月9日
・(露暦1/28)チャイコフスキー、「交響曲第1番」出版。ニコライ・ルビンシテインに献呈。
*
2月15日
・土地永代売買禁止を解除。
地券公布。封建的領有制廃棄・土地私有法認。更に、土地売買に際して地券を交付する地券渡方規則を改め、用益・処分の自由を伴った近代的所有権(私有権)を法認する。
*
2月15日
・筆頭参議西郷隆盛(大久保大蔵卿に代る大蔵省事務総督兼任)、大久保宛に手紙。
廃藩後の新県人事は順調、旧藩の外債償却完了・内国債償却開始、秩禄処分(家禄廃止)の原資に充てるアメリカでの外債3千万円募集のため大蔵少輔吉田清成の派遣、を報告。
「此の機会失うべからず、両全の良法」と意欲を示す(秩禄処分に積極的)。
*
2月16日
・フランス人弁護士ジョルジュ・プスケ(26)、横浜着。
江藤新平は、明治2年副島種臣が箕作麟祥に翻訳させたフランス刑法典の一部を見てその優秀さに感心する。
直ちに、太政官制度取調局において箕作麟祥にフランス5法典全部の翻訳に着手させるが(「仏蘭西法律書」)、翻訳に窮した箕作は自らのフランス留学を提案するに至り、法律家を招聘することになる。
*
2月17日
・島崎藤村、誕生。
*
2月21日
・「東京日日新聞」(のちの毎日新聞)創刊。
*
2月22日
・東京府庁、猿若町三座の太夫元と作者に「演出の矯正と勧善懲悪」口達。
*
2月26日
・銀座・築地一帯大火。明治初の洋風建築「築地ホテル館」が焼失。
*
2月27日
・陸軍省・海軍省創設。兵部省を陸軍省と海軍省に分離。
山県有朋陸軍大輔兼近衛都督(陸軍卿は欠員)、西郷従道海軍少輔兼近衛副都督。海軍少輔川村純義。
*
2月29日(旧1月21日)
・使節団、ワシントン着。
少弁務使森有礼出迎え、条約改正交渉を献策(アメリカの好意を過大評価)、これに伊藤博文が同調。
女子留学生は、ジョージタウンのチャールズ・ランメン宅へ。
*
3月7日
・子規(6)の父(40)、没。子規は、父の兄佐伯政房(半弥)のもとへ手習いに通う。
*
3月9日
・御親兵を近衛兵と改め都督が指揮。初代近衛都督山県有朋兵部大輔兼任。
*
3月10日
・第1回京都博覧会開催。西本願寺・建仁寺・知恩院。~5月30日。日本人31103人、外国人770人入場。
京都府企画、三井八郎右衛門・小野善助・熊谷久右衛門(鳩居堂)らが京都博覧会社を作り呼びかけ。明治6年3月、第2回を開催。
*
3月11日
・日本人による初のキリスト教会、横浜に設立。
前年5月、現在の横浜海岸教会の地にアメリカ人宣教師が石造の小会堂を建設。
この月、日本人信者により最初のプロテスタント教会である日本基督公会(通称横浜公会)が設立。
明治8年、大会堂が建設され横浜海岸教会と改称される。
両会堂は関東大震災で焼失し、昭和8年に現会堂が再建される。
横浜海岸教会はコチラ
*
3月11日(旧2月3日)
・岩倉使節団、条約改正交渉に入る。20日(旧2月12日)、大久保・伊藤、全権委任状再交付求め一時帰国へ。3月24日(新5月1日)、日本着。
*
3月14日
・神祇省を廃止。教部省に改編。
神道・仏教など宗教界を動員して、統一的組織的な国民教化の新路線を目指す。
*
基本的教条として、
「一、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事
一、天理人道ヲ明ラカニスベキ事
一、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事」
の「三条の教則」を定め、この教則の内容を具体化した「一七兼題」には、「神道主義」の復古的なものの他に、開明政策的な標題も含まれる。
*
左院副議長江藤新平、教部省御用掛を兼務。
3月27日、女性の社寺立入・宗教活動参加制限を撤廃。
4月25日、僧侶の「肉食、妻帯、蓄髪」を自由とし、宗教活動以外では「人民一般の服」着用可能とする。
5月25日、解任(左院より司法卿に転じたため)。
*
3月24日
・大久保利通・伊藤博文、条約改正交渉権委任状を得るため一時帰国。
*
3月24日
・沼間守一(28)、大蔵大輔井上馨のすすめで横浜に行き、租税寮出仕として横浜運上所勤務始める。
*
3月25日
・樋口一葉、誕生。
東京府第2大区1小区内山下町1丁目1番屋敷(幸橋御門内の東京府庁の抱地、現千代田区内幸町2丁目、日比谷シティの富国生命ビル付近)の東京府庁構内(旧郡山藩柳沢甲斐守邸跡)の官舎替りの長屋で誕生。
父は、府庁に勤める為之助(この年則義と改名、41)、母は、多喜(37)の次女。
戸籍名「奈津」。後になつ、夏子、藤原夏子とも署名する。
この時、姉ふじは14歳、長兄泉太郎7歳、次兄虎太郎5歳。夏子の2歳下に妹くにが誕生する。
*
両親は、甲斐国山梨郡(塩山市)の農家に生まれる。
20代で駆け落ちをして江戸にのぼり、夫婦夫々に働き、10年後の慶応3年7月、南町奉行配下八丁堀同心の株を買って幕臣となる。しかし、3ヶ月後に大政奉還。
それでも父則義は、東京府の末端の役人(権少属、社寺取調掛)として勤めを続け、官舎住まいをしている。
*
東京府の役人としては出世を望むことの出来ない元御家人の則義は、金貸しや不動産売買・斡旋で収入を得ている。転居が多いのも、転売によって利殖をはかっていたためである。
*
(一葉の父祖の概要は後に触れる)
*
3月27日
・神社仏閣の女人禁制が廃止。
*
3月30日
・尾去沢銅山払下げ。
大蔵大輔井上馨(長州)、工部少輔山尾庸三(長州)に、岡田平蔵(長州、井上家出入り政商)に尾去沢銅山経営を下命するよう要請。間もなく、無利息15年賦3万6,800円で岡田に払い下げ。
新政府は旧盛岡藩の外債を肩代わりし、その代償として盛岡藩資産を調査中に、豪商村岡茂兵衛から5万5千円の証文に「内借し奉る」の文字を見つけ、村井の債務と決めつけ尾去沢銅山を没収(村井は銅山経営権取得に12万4,800円を費やす)。
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この月
・鹿児島県庁、伊地知貞馨・奈良原繁を琉球に派遣。
廃藩置県に対応した琉球王府の措置を要求(琉球の管理権が鹿児島県から日本政府に移る)。
交渉は不調に終る。
この時、伊地知は、遭難した宮古島民の那覇帰還に際会。
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・正岡子規(6)、家督相続。
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・マルクス、第2版のため「資本論」に手を加え、第1版の付録を第1章に入れる。
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1月2日
・国際労働者協会(第一次インターナショナル)総務委員会でイギリス連合委員会と総務委員会の関係について議論。
16日、規約改正を条件にイギリス連合委員会を承認するマルクス提案が採択。
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1月2日
・ニーチェ、「音楽の精神からの悲劇の誕生」をフリッチュ書店(ヴァーグナーの著作を出版)から刊行(1000部)。中旬から数回、バーゼル市学術協会依頼の公開講演「我々の教育施設の将来について」、好評。
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1月6日
・榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介、松平容保・喜徳ら、無罪放免。
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1月10日
・東海道各駅の伝馬所・貫目改所が廃止。助郷解散令も出される。
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1月12日
・永井尚志(58)、開拓使御用掛に任命。19日、少議官に任命。
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1月16日
・台湾牡丹社で清国人民官に保護された琉球宮古島民、福建省福州の琉球館に引取られる。6月7日、那覇に帰還。
*
1月17日
・スイス第1インターナショナル支部に解散命令。*
1月23日
・天皇の操練始まる。前年(明治4年)12月10日、天皇のための御練兵御用掛が新設。
*
1月24日
・天皇の肉食の最初の日、といわれる。
*
1月27日
・左院(後藤・江藤)のヨーロッパ視察団、横浜出航。
岩倉視察団とは別にイギリス・フランスの議会制度の調査研究のため。
中議官西岡逾明・同小室信夫・中議生鈴木貫一・少議生安川繁成。
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1月29日
・複雑な身分制度を華族・士族・平民に単純化。卒身分の廃止。卒を士族(世襲の卒)と平民(1代限りの卒)に分け、新身分制度が確立。
*
1月29日
・初の全国戸籍調査実施。総人口は33,110,825人。
*
2月
・柳原前光を北京に派遣。批准書交換を前に修正交渉。
*
・秩禄処分案(大蔵省案、家禄廃止計画)、太政官正院で内決。
急進的内容。3千万円外債募集・家禄削減案(1/3減額、残額を6ヶ年継続後打切り)。
これは、約定違反。
大隈作成・井上協力・西郷賛成。
但し、後に大修正となる。西郷は3千万円のアメリカでの外債募集のため、大蔵少輔吉田清成・大蔵少丞大鳥圭介らをアメリカに送る(2月16日、横浜発)。
*
・中村敬宇「自由之理」刊行。ミル「自由論」を翻訳。
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・福沢諭吉「学問のすすめ」(~明治9年11月迄)。慶応義塾の「活字版」により出版。
*
・京都府大参事槇村正直、工部省鉄道寮御用兼任命ぜられる。
この頃、敦賀~京都~大阪の鉄道建設費を改めて見積もるが、70万円とされていたものが140万かかるとされる。工部省は国有化案、大蔵省は民営化案を主張。
*
・マルクス、ソンヴィーエ大会(71年11月)の諸決定とジュラ連合の総務委員会への攻撃に対する回答として、秘密回状「インタナショナルのいわゆる分裂」作成。
スイスのバクーニン主義者の破壊活動、国際労働者協会の原則と政策の歴史的発展を述べる。
3月、総務委員会に提出、採択。
*
2月8日
・「日新真事誌」発行。
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2月9日
・(露暦1/28)チャイコフスキー、「交響曲第1番」出版。ニコライ・ルビンシテインに献呈。
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2月15日
・土地永代売買禁止を解除。
地券公布。封建的領有制廃棄・土地私有法認。更に、土地売買に際して地券を交付する地券渡方規則を改め、用益・処分の自由を伴った近代的所有権(私有権)を法認する。
*
2月15日
・筆頭参議西郷隆盛(大久保大蔵卿に代る大蔵省事務総督兼任)、大久保宛に手紙。
廃藩後の新県人事は順調、旧藩の外債償却完了・内国債償却開始、秩禄処分(家禄廃止)の原資に充てるアメリカでの外債3千万円募集のため大蔵少輔吉田清成の派遣、を報告。
「此の機会失うべからず、両全の良法」と意欲を示す(秩禄処分に積極的)。
*
2月16日
・フランス人弁護士ジョルジュ・プスケ(26)、横浜着。
江藤新平は、明治2年副島種臣が箕作麟祥に翻訳させたフランス刑法典の一部を見てその優秀さに感心する。
直ちに、太政官制度取調局において箕作麟祥にフランス5法典全部の翻訳に着手させるが(「仏蘭西法律書」)、翻訳に窮した箕作は自らのフランス留学を提案するに至り、法律家を招聘することになる。
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2月17日
・島崎藤村、誕生。
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2月21日
・「東京日日新聞」(のちの毎日新聞)創刊。
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2月22日
・東京府庁、猿若町三座の太夫元と作者に「演出の矯正と勧善懲悪」口達。
*
2月26日
・銀座・築地一帯大火。明治初の洋風建築「築地ホテル館」が焼失。
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2月27日
・陸軍省・海軍省創設。兵部省を陸軍省と海軍省に分離。
山県有朋陸軍大輔兼近衛都督(陸軍卿は欠員)、西郷従道海軍少輔兼近衛副都督。海軍少輔川村純義。
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2月29日(旧1月21日)
・使節団、ワシントン着。
少弁務使森有礼出迎え、条約改正交渉を献策(アメリカの好意を過大評価)、これに伊藤博文が同調。
女子留学生は、ジョージタウンのチャールズ・ランメン宅へ。
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3月7日
・子規(6)の父(40)、没。子規は、父の兄佐伯政房(半弥)のもとへ手習いに通う。
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3月9日
・御親兵を近衛兵と改め都督が指揮。初代近衛都督山県有朋兵部大輔兼任。
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3月10日
・第1回京都博覧会開催。西本願寺・建仁寺・知恩院。~5月30日。日本人31103人、外国人770人入場。
京都府企画、三井八郎右衛門・小野善助・熊谷久右衛門(鳩居堂)らが京都博覧会社を作り呼びかけ。明治6年3月、第2回を開催。
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3月11日
・日本人による初のキリスト教会、横浜に設立。
前年5月、現在の横浜海岸教会の地にアメリカ人宣教師が石造の小会堂を建設。
この月、日本人信者により最初のプロテスタント教会である日本基督公会(通称横浜公会)が設立。
明治8年、大会堂が建設され横浜海岸教会と改称される。
両会堂は関東大震災で焼失し、昭和8年に現会堂が再建される。
横浜海岸教会はコチラ
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3月11日(旧2月3日)
・岩倉使節団、条約改正交渉に入る。20日(旧2月12日)、大久保・伊藤、全権委任状再交付求め一時帰国へ。3月24日(新5月1日)、日本着。
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3月14日
・神祇省を廃止。教部省に改編。
神道・仏教など宗教界を動員して、統一的組織的な国民教化の新路線を目指す。
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基本的教条として、
「一、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事
一、天理人道ヲ明ラカニスベキ事
一、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事」
の「三条の教則」を定め、この教則の内容を具体化した「一七兼題」には、「神道主義」の復古的なものの他に、開明政策的な標題も含まれる。
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左院副議長江藤新平、教部省御用掛を兼務。
3月27日、女性の社寺立入・宗教活動参加制限を撤廃。
4月25日、僧侶の「肉食、妻帯、蓄髪」を自由とし、宗教活動以外では「人民一般の服」着用可能とする。
5月25日、解任(左院より司法卿に転じたため)。
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3月24日
・大久保利通・伊藤博文、条約改正交渉権委任状を得るため一時帰国。
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3月24日
・沼間守一(28)、大蔵大輔井上馨のすすめで横浜に行き、租税寮出仕として横浜運上所勤務始める。
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3月25日
・樋口一葉、誕生。
東京府第2大区1小区内山下町1丁目1番屋敷(幸橋御門内の東京府庁の抱地、現千代田区内幸町2丁目、日比谷シティの富国生命ビル付近)の東京府庁構内(旧郡山藩柳沢甲斐守邸跡)の官舎替りの長屋で誕生。
父は、府庁に勤める為之助(この年則義と改名、41)、母は、多喜(37)の次女。
戸籍名「奈津」。後になつ、夏子、藤原夏子とも署名する。
この時、姉ふじは14歳、長兄泉太郎7歳、次兄虎太郎5歳。夏子の2歳下に妹くにが誕生する。
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両親は、甲斐国山梨郡(塩山市)の農家に生まれる。
20代で駆け落ちをして江戸にのぼり、夫婦夫々に働き、10年後の慶応3年7月、南町奉行配下八丁堀同心の株を買って幕臣となる。しかし、3ヶ月後に大政奉還。
それでも父則義は、東京府の末端の役人(権少属、社寺取調掛)として勤めを続け、官舎住まいをしている。
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東京府の役人としては出世を望むことの出来ない元御家人の則義は、金貸しや不動産売買・斡旋で収入を得ている。転居が多いのも、転売によって利殖をはかっていたためである。
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(一葉の父祖の概要は後に触れる)
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3月27日
・神社仏閣の女人禁制が廃止。
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3月30日
・尾去沢銅山払下げ。
大蔵大輔井上馨(長州)、工部少輔山尾庸三(長州)に、岡田平蔵(長州、井上家出入り政商)に尾去沢銅山経営を下命するよう要請。間もなく、無利息15年賦3万6,800円で岡田に払い下げ。
新政府は旧盛岡藩の外債を肩代わりし、その代償として盛岡藩資産を調査中に、豪商村岡茂兵衛から5万5千円の証文に「内借し奉る」の文字を見つけ、村井の債務と決めつけ尾去沢銅山を没収(村井は銅山経営権取得に12万4,800円を費やす)。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい
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2010年5月15日土曜日
北の丸公園 ハコネウツギ コアジサイ アヤメ アメリカシャクナゲ カラタネオガタマ
北の丸公園
5月13日、14日の状況です。
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ハコネウツギ
なるべく白い花と薄紅色の花が一緒に居るところを狙ったのですが、うまくいったのかどうか?
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コアジサイ
コアジサイ
徐々に花が開いてきています。
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工芸館前の池のアヤメ
工芸館前の池のアヤメ
まだまだこれからです。
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乾門脇の小公園にアメリカシャクナゲ
乾門脇の小公園にアメリカシャクナゲ
名前の通りアメリカ生まれだそうです。
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まだ殆ど蕾のカラタネオガタマ (モクレン科)
まだ殆ど蕾のカラタネオガタマ (モクレン科)
バナナに似た匂いがすると説明書には書いてありましたが、もう今の時点で既に匂ってます。
多分、バナナよりはいい匂いだと思います。
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カティンの森虐殺事件資料を巡る最近のニュース 「カチンの森」資料にアクセス200万件 ロシア、ポーランドにカチンの森事件資料を引き渡し
カティンの森虐殺事件に関して、最近、ニュースが相次いだ。
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4月10日の追悼集会に向うポーランドの大統領ほか130人が墜落死したのは、よく知られる悲惨極まりないニュースであるが、ここでは「虐殺事件資料」を巡るニュースを取り上げたい。
*
まず、一つ目は・・・。
「「カチンの森」資料にアクセス200万件
ロシアが実物公開
銃殺にスターリン署名
【モスクワ=副島英樹】スターリン体制下でポーランド人将校ら2万人以上が集団銃殺された70年前の「カチンの森事件」をめぐり、ロシア公文書館は28日、ソ連共産党中央委貞会政治局の秘密資料の実物を専用サイトで初公開した。初日だけでアクセスは200万件を超えた。
スターリンら指導部が銃殺に同意した直筆署名入りの資料もあり、スターリン批判の姿勢を国内外に明確に示すメドページェフ政権の狙いがうかがえる。
資料は「ファイルNo.1」と呼ばれ、「カチン事件はナチス・ドイツの犯行」と虚偽の主張をしてきたソ連時代は極秘にされた。1940年3月の資料には、秘密警察の内務人民委員部(NKVD)のベリヤ長官が銃殺を提案する文書があり、スターリンやモロトフら政治局員の署名が記されている。
これらの秘密資料はソ連崩壊後の1992年、エリツィン大統領(当時)がポーランドのワレサ大統領(同)に写しを引き渡したが、ロシア国内では公開されず、現在も共産党などが「ナチス犯行説」を主張している。一方、90年代から2004年まで続いた軍検察の捜査資料は多くが非公開のままで、人権団体は全面公開を求めている。(「2010/4/30「朝日新聞」夕刊)」
*
*
二つ目は、・・・。
「カチンの森事件資料を引き渡し
ロシア、ポーランドに
【モスクワ=副島英樹】ソ連スターリン体制下でポーランド人将校ら2万人以上が集団銃殺された70年前の「カチンの森事件」をめぐり、ロシアのメドページェフ大統領は8日、ポーランドのコモロフスキ大統領代行に対し、ロシア軍検察の捜査資料67巻を引き渡した上で、引き続き資料の秘密解除を進めていくと言明した。
ソ連政権は「カチン事件はナチスの犯行」と偽り、同事件は長く両国関係の摩擦の象徴だった。メドページェフ氏は、9日の対独戦勝65周年式典のため訪ロしたコモロフスキ氏と個別に会談、自らの命令で秘密解除を続けると表明。コモロフスキ氏は「カチンの真相解明は両国関係発廉の基盤になる」と歓迎した。
ゴルバチョフ政権がソ連秘密警察の犯行と認めた1990年以降、軍検察が捜査を始めたが、被疑者死亡を理由に2004年に終結。捜査資料も国家機密保護を理由に183巻中67巻のみがポーランド側に開示可能とされていた。
今後、捜査資料の公開が進めば、スターリンら指導部の犯罪者特定や被害者の名誉回復につながる。(2010/5/10「朝日新聞」朝刊)」
*
*
そして、新聞記事は見落としていたのだが、Webのニュースでは、こういうものも。
「カチンの森事件、真相解明へ審理差し戻し ロシア最高裁
2010年4月22日23時20分
【モスクワ=副島英樹】ソ連スターリン体制下でポーランド人将校ら2万人以上が集団銃殺された70年前の「カチンの森事件」をめぐり、ロシア最高裁は21日、2004年に打ち切られた軍検察の捜査の結果を秘密にしているのは違法だとの人権団体の訴えを聞き入れ、モスクワ地裁に審理を差し戻す判決を出した。犠牲者遺族らは真相解明を求めており、捜査資料の全面公開や再捜査につながる一歩だとして期待が高まっている。
カチン事件はロシアとポーランドの歴史的わだかまりの象徴だった。だが、7日にプーチン首相がポーランド首相を招いた追悼式典でスターリン体制を明確に批判したことや、10日のポーランド大統領機墜落事故でのロシア側の手厚い配慮などで和解への機運が高まっている。上告していたモスクワの人権団体「メモリアル」は「秘密解除への一歩。吹き始めた風に司法が耳を傾けた」と評価した。
これまで国家機密保護を理由に、犯罪者特定など捜査内容の多くは非公開のままだ。」
*
*
一つめのロシア国内での資料公開に関しては、CNNのWebではもう少し詳しく報じられている。
「・・・
ロシア公文書館のサイトに掲載された資料には、スターリン体制下の秘密警察トップ、ベリヤ長官が、1940年3月5日付でスターリンに宛ててポーランド軍 将校や同国の元警官、反(共産主義)革命勢力メンバーらを「ソビエト体制への憎悪に満ちた敵」として処刑することを提案した書簡などが含まれている。この 書簡の1ページ目には、スターリンら指導部の署名とともに、青の鉛筆で「賛同」の文字が書かれている。
資料は1992年に機密解除され、歴史家の間ではすでに知られていた。メドベージェフ大統領はウェブ公開直後の記者会見で、「カチンで何が起きたのかをロ シア国民自身に知ってもらうため」公開を指示したと述べた。
サイトには公開後24時間のうちに250万回以上のアクセスが殺到し、サーバーが何度もダウンする事態となった。
・・・」
*
少しづつではあるが改善方向に進んでいる、と思いたい。
*
*
「アンジェイ・ワイダ監督 ポーランド映画「カティンの森」の記事はコチラ
*
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4月10日の追悼集会に向うポーランドの大統領ほか130人が墜落死したのは、よく知られる悲惨極まりないニュースであるが、ここでは「虐殺事件資料」を巡るニュースを取り上げたい。
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まず、一つ目は・・・。
「「カチンの森」資料にアクセス200万件
ロシアが実物公開
銃殺にスターリン署名
【モスクワ=副島英樹】スターリン体制下でポーランド人将校ら2万人以上が集団銃殺された70年前の「カチンの森事件」をめぐり、ロシア公文書館は28日、ソ連共産党中央委貞会政治局の秘密資料の実物を専用サイトで初公開した。初日だけでアクセスは200万件を超えた。
スターリンら指導部が銃殺に同意した直筆署名入りの資料もあり、スターリン批判の姿勢を国内外に明確に示すメドページェフ政権の狙いがうかがえる。
資料は「ファイルNo.1」と呼ばれ、「カチン事件はナチス・ドイツの犯行」と虚偽の主張をしてきたソ連時代は極秘にされた。1940年3月の資料には、秘密警察の内務人民委員部(NKVD)のベリヤ長官が銃殺を提案する文書があり、スターリンやモロトフら政治局員の署名が記されている。
これらの秘密資料はソ連崩壊後の1992年、エリツィン大統領(当時)がポーランドのワレサ大統領(同)に写しを引き渡したが、ロシア国内では公開されず、現在も共産党などが「ナチス犯行説」を主張している。一方、90年代から2004年まで続いた軍検察の捜査資料は多くが非公開のままで、人権団体は全面公開を求めている。(「2010/4/30「朝日新聞」夕刊)」
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二つ目は、・・・。
「カチンの森事件資料を引き渡し
ロシア、ポーランドに
【モスクワ=副島英樹】ソ連スターリン体制下でポーランド人将校ら2万人以上が集団銃殺された70年前の「カチンの森事件」をめぐり、ロシアのメドページェフ大統領は8日、ポーランドのコモロフスキ大統領代行に対し、ロシア軍検察の捜査資料67巻を引き渡した上で、引き続き資料の秘密解除を進めていくと言明した。
ソ連政権は「カチン事件はナチスの犯行」と偽り、同事件は長く両国関係の摩擦の象徴だった。メドページェフ氏は、9日の対独戦勝65周年式典のため訪ロしたコモロフスキ氏と個別に会談、自らの命令で秘密解除を続けると表明。コモロフスキ氏は「カチンの真相解明は両国関係発廉の基盤になる」と歓迎した。
ゴルバチョフ政権がソ連秘密警察の犯行と認めた1990年以降、軍検察が捜査を始めたが、被疑者死亡を理由に2004年に終結。捜査資料も国家機密保護を理由に183巻中67巻のみがポーランド側に開示可能とされていた。
今後、捜査資料の公開が進めば、スターリンら指導部の犯罪者特定や被害者の名誉回復につながる。(2010/5/10「朝日新聞」朝刊)」
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そして、新聞記事は見落としていたのだが、Webのニュースでは、こういうものも。
「カチンの森事件、真相解明へ審理差し戻し ロシア最高裁
2010年4月22日23時20分
【モスクワ=副島英樹】ソ連スターリン体制下でポーランド人将校ら2万人以上が集団銃殺された70年前の「カチンの森事件」をめぐり、ロシア最高裁は21日、2004年に打ち切られた軍検察の捜査の結果を秘密にしているのは違法だとの人権団体の訴えを聞き入れ、モスクワ地裁に審理を差し戻す判決を出した。犠牲者遺族らは真相解明を求めており、捜査資料の全面公開や再捜査につながる一歩だとして期待が高まっている。
カチン事件はロシアとポーランドの歴史的わだかまりの象徴だった。だが、7日にプーチン首相がポーランド首相を招いた追悼式典でスターリン体制を明確に批判したことや、10日のポーランド大統領機墜落事故でのロシア側の手厚い配慮などで和解への機運が高まっている。上告していたモスクワの人権団体「メモリアル」は「秘密解除への一歩。吹き始めた風に司法が耳を傾けた」と評価した。
これまで国家機密保護を理由に、犯罪者特定など捜査内容の多くは非公開のままだ。」
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一つめのロシア国内での資料公開に関しては、CNNのWebではもう少し詳しく報じられている。
「・・・
ロシア公文書館のサイトに掲載された資料には、スターリン体制下の秘密警察トップ、ベリヤ長官が、1940年3月5日付でスターリンに宛ててポーランド軍 将校や同国の元警官、反(共産主義)革命勢力メンバーらを「ソビエト体制への憎悪に満ちた敵」として処刑することを提案した書簡などが含まれている。この 書簡の1ページ目には、スターリンら指導部の署名とともに、青の鉛筆で「賛同」の文字が書かれている。
資料は1992年に機密解除され、歴史家の間ではすでに知られていた。メドベージェフ大統領はウェブ公開直後の記者会見で、「カチンで何が起きたのかをロ シア国民自身に知ってもらうため」公開を指示したと述べた。
サイトには公開後24時間のうちに250万回以上のアクセスが殺到し、サーバーが何度もダウンする事態となった。
・・・」
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少しづつではあるが改善方向に進んでいる、と思いたい。
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「アンジェイ・ワイダ監督 ポーランド映画「カティンの森」の記事はコチラ
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本能寺の変(11) 天正10年(1582)6月2日 家康は帰国すべく宇治田原に向う 大坂の信孝は石山に籠城 信澄を謀殺(5日)
天正10年(1582)6月2日
*
・朝、家康一行、信長に合うため堺を出る。
昼頃、河内の飯盛山付近で変報を知らせるため堺に向かう京の豪商茶屋四郎次郎と遭い、伊賀経由で帰国すべく、宇治田原に向かう。
*
家康にとって状況は悲観的。
近江ルートは明智勢に封鎖され、間道各所には落ち武者狩りが出没。
大坂に引き返して信孝に庇護を求めれば、一旦の安全を確保できるが、明智勢が攻撃してくれば、持ち堪えられない。
家康には徳川家の主な幹部(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政・高力清長・石川数正・石川康通・大久保忠隣・大久保忠佐など)が随行し、本国には嫡男長丸(後の秀忠、4歳)を残している。帰国が遅れれば、徳川家内は大混乱に陥ること必至。
*
案内役の長谷川秀一は、日頃の人脈を活かし、地元の土豪に保護を要請。
*
「二日朝、徳川殿上洛、火急ニ上洛之儀は、上様安土より、廿九日ニ御京上之由アリテ、それにつき、ふたと上洛由候也」(「宇野主水日記」)。
*
・大坂の信孝は・・・。
この日は四国方面軍(最高指揮官神戸(織田)信孝)の大坂出陣日。
「一、三七様(信孝)、五郎左衛門(丹羽長秀)殿、四国へ六月二日に渡海あるべしとて、住吉浦にて馬印も舟に立申候ところに」(「細川忠興軍功記」)。
副将津田信澄と丹羽長秀は、石山に籠城。5日、信澄は謀殺される。
*
四国方面軍には丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄が副将として配属される。
長秀は近江佐和山10万石、頼隆は和泉岸和田5万石、信澄は近江大溝5万石で、信孝と合わせても約25万石、兵力6千程度。
信孝は、領内では15歳~60歳の男子を根こそぎ徴募し、各地から浪人衆を雇い、寄せ集め雑軍ではあるが兵力1万5千を確保。
*
織田信孝:
信長の三男(次男信雄よりも20日ほど早く生まれるが、信雄の生母生駒氏が信長の事実上の正妻であることから、信孝の序列は繰り下げられる)。
その後、信雄は伊勢の名門北畠氏を継いで伊勢南部約20万石を領するが、信孝は関氏の支族にすぎない神戸氏を継ぎ、領地も河曲・鈴鹿の2郡約5万石にとどまる。
天正9年の京都での馬揃えに際しても、嫡男信忠が80騎を引き連れて織田一門の先頭を進み、二番手に信雄が30騎を率いて行進、三番手は叔父の織田信包(ノブカネ、伊勢安濃津城主)の10騎、信孝は四番手で10騎であった。
信孝は、天正6年の播磨神吉城攻めでは先頭に立って突撃を敢行し、木曾義昌調略にも関与するなど努力を重ね、天正10年新編成の四国方面軍司令官に登用される。
信孝には讃岐13万石が与えられる予定で、さらに阿波の名族三好康長の養子とされ、いずれ三好領の阿波18万石も継承し、名実ともに信孝が四国の旗頭に就くことが約束されていた。
*
津田信澄:
永禄元年(1558)、信長との家督争いの末にに謀殺された弟信勝(「信行」ともいう)の子。信長は嬰児の信澄を柴田勝家に養育させる。
信澄は、琵琶湖を挟んで安土城の対面に位置する大溝城5万石の城主に登用され、天正9年の馬揃えでは信孝に次ぐ5番手とされ、同じく10騎を引き連れた。
信長が信澄を自分の息子並みに厚遇し信澄もその期待に応え、信長側近として活躍する。
「多聞院日記」は、信澄を「一段逸物なり」と評価している。
妻は光秀の娘。
信澄の本来業務は、本願寺移転後に残された石山の城郭施設を丹羽長秀と共同で管理すること。信長はここに巨城を建設して本拠を移す計画を持ち、この2人をその普請奉行に任命する腹積もあったと思われる
(丹羽長秀はかつての安土城の普請奉行を務め、信澄は巨石「蛇石」を運び込んだことで知られる)。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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・朝、家康一行、信長に合うため堺を出る。
昼頃、河内の飯盛山付近で変報を知らせるため堺に向かう京の豪商茶屋四郎次郎と遭い、伊賀経由で帰国すべく、宇治田原に向かう。
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家康にとって状況は悲観的。
近江ルートは明智勢に封鎖され、間道各所には落ち武者狩りが出没。
大坂に引き返して信孝に庇護を求めれば、一旦の安全を確保できるが、明智勢が攻撃してくれば、持ち堪えられない。
家康には徳川家の主な幹部(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政・高力清長・石川数正・石川康通・大久保忠隣・大久保忠佐など)が随行し、本国には嫡男長丸(後の秀忠、4歳)を残している。帰国が遅れれば、徳川家内は大混乱に陥ること必至。
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案内役の長谷川秀一は、日頃の人脈を活かし、地元の土豪に保護を要請。
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「二日朝、徳川殿上洛、火急ニ上洛之儀は、上様安土より、廿九日ニ御京上之由アリテ、それにつき、ふたと上洛由候也」(「宇野主水日記」)。
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・大坂の信孝は・・・。
この日は四国方面軍(最高指揮官神戸(織田)信孝)の大坂出陣日。
「一、三七様(信孝)、五郎左衛門(丹羽長秀)殿、四国へ六月二日に渡海あるべしとて、住吉浦にて馬印も舟に立申候ところに」(「細川忠興軍功記」)。
副将津田信澄と丹羽長秀は、石山に籠城。5日、信澄は謀殺される。
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四国方面軍には丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄が副将として配属される。
長秀は近江佐和山10万石、頼隆は和泉岸和田5万石、信澄は近江大溝5万石で、信孝と合わせても約25万石、兵力6千程度。
信孝は、領内では15歳~60歳の男子を根こそぎ徴募し、各地から浪人衆を雇い、寄せ集め雑軍ではあるが兵力1万5千を確保。
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織田信孝:
信長の三男(次男信雄よりも20日ほど早く生まれるが、信雄の生母生駒氏が信長の事実上の正妻であることから、信孝の序列は繰り下げられる)。
その後、信雄は伊勢の名門北畠氏を継いで伊勢南部約20万石を領するが、信孝は関氏の支族にすぎない神戸氏を継ぎ、領地も河曲・鈴鹿の2郡約5万石にとどまる。
天正9年の京都での馬揃えに際しても、嫡男信忠が80騎を引き連れて織田一門の先頭を進み、二番手に信雄が30騎を率いて行進、三番手は叔父の織田信包(ノブカネ、伊勢安濃津城主)の10騎、信孝は四番手で10騎であった。
信孝は、天正6年の播磨神吉城攻めでは先頭に立って突撃を敢行し、木曾義昌調略にも関与するなど努力を重ね、天正10年新編成の四国方面軍司令官に登用される。
信孝には讃岐13万石が与えられる予定で、さらに阿波の名族三好康長の養子とされ、いずれ三好領の阿波18万石も継承し、名実ともに信孝が四国の旗頭に就くことが約束されていた。
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津田信澄:
永禄元年(1558)、信長との家督争いの末にに謀殺された弟信勝(「信行」ともいう)の子。信長は嬰児の信澄を柴田勝家に養育させる。
信澄は、琵琶湖を挟んで安土城の対面に位置する大溝城5万石の城主に登用され、天正9年の馬揃えでは信孝に次ぐ5番手とされ、同じく10騎を引き連れた。
信長が信澄を自分の息子並みに厚遇し信澄もその期待に応え、信長側近として活躍する。
「多聞院日記」は、信澄を「一段逸物なり」と評価している。
妻は光秀の娘。
信澄の本来業務は、本願寺移転後に残された石山の城郭施設を丹羽長秀と共同で管理すること。信長はここに巨城を建設して本拠を移す計画を持ち、この2人をその普請奉行に任命する腹積もあったと思われる
(丹羽長秀はかつての安土城の普請奉行を務め、信澄は巨石「蛇石」を運び込んだことで知られる)。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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治承4(1180)年8月19日~22日 頼朝の「関東事施行の始め」(吾妻鏡) 関東の46武将、頼朝に従い土肥郷に入る
治承4(1180)年8月19日
・頼朝の「関東事施行の始め」。
親王宣旨状(令旨)により東国沙汰権(支配権)を認められたと主張。この令旨の存在が頼朝を単なる謀反人と区別する。
蒲屋御厨安堵の下文発給。
北条政子を伊豆山文陽坊覚渕に託し、所領寄進を約束。三島大社に所領寄進。
安房在庁武士安西景益に在庁官人の帰属要請。
江戸重長に武蔵在庁官人・郡司の支配権を与える。
史大夫中原知親の伊豆目代を解官。
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「兼隆が親戚史大夫知親、当国蒲屋の御廚に在り。日者非法を張行し、土民を悩乱せしむの間、その儀を停止すべきの趣、武衛下知を加えしめ給う。邦道奉行たり。これ関東の事施行の始めなり。その状に云く、
下す 蒲屋の御厨住民等の所
早く史大夫知親が奉行を停止すべき事
右東国に至りては、諸国一同、庄公皆御沙汰を為すべきの旨、親王宣旨の状明鏡なり。てえれば、住民等その旨を存じ、安堵すべきものなり。仍って仰せの所、故に以て下す。
治承四年八月十九日
またこの間、土肥の辺より北條に参るの勇士等、走湯山を以て往還の路と為す。仍って多く狼藉を見るの由、彼の山の衆徒等参訴するの間、武衛今日御自筆の御書を遣わされ、これを宥め仰せらる。世上無為に属くの後、伊豆の一所、相模の一所、庄園を当山に奉寄せらるべし。凡そ関東に於いて、権現の御威光を耀かし奉るべきの趣、これを載せらる。茲に因って、衆徒等忽ち以て憤りを慰むものなり。晩に及び、御台所走湯山の文陽房覚淵の坊に渡御す。邦道・昌長等御共に候す。世上落居の程、潛かにこの所に寄宿せしめ給うべしと。 」(「吾妻鏡」同日条)。
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□現代語訳。
「己亥。兼隆の親戚にあたる史大夫(中原)知親は、現在伊豆国の蒲屋御厨におり、日頃から非法ばかり働いて土地の人々を悩ませていたので、それを止めるようにと武衛が御命令を出された。(藤原)邦通が奉行した。これが関東における施政の始めである。その文書は次の通りである。
下命する 蒲屋御厨住民等の所に。 早く史大夫知親の奉行を停止すべきこと。 右、東国では、全ての国々の庄園・公領はみな(頼朝の)支配下に置くと、親王(以仁王)の宣旨に明らかであるので、住民等はそのことを弁(ワキマ)え、安堵しなさい。そこで、御命令になったところを特に命ずる。
治承四年八月十九日
またこの時期、土肥の辺りから北条にやってくる勇士たちが、走湯山を往還の道としていた。そのため狼籍が多く見られたと走湯山の衆徒が訴えてきたので、武衛は今日、自筆の御書を送られ、お宥めになった。世情が安定したならば、伊豆国で一カ所、相模国で一カ所の庄園を走湯山に寄進すること、関東において権現の御威光を輝かせるようにするとの趣旨をお書きになった。これによって衆徒はみなたちまちに怒りをおさめた。晩になって御台所(政子)が(走湯山の)文陽房覚淵の坊にお渡りになった。邦通と昌長らが御供をした。世情が落ち着くまで密かにここに寄宿されるという。」
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8月20日
・北条・奈古谷・宇佐美・土肥・土屋・佐々木・中村ら46武将、蛭島郷に参集。
頼朝、伊豆を出て相模の土肥郷(神奈川県湯河原町)に入る。21~22日、軍議。
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「三浦の介義明が一族已下、兼日進奉の輩有りと雖も、今に遅参す。これ或いは海路を隔てて風波を凌ぎ、或いは遠路を避けて艱難に泥むが故なり。
仍って武衛先ず伊豆・相模両国の御家人ばかりを相率い、伊豆の国を出て、相模の国土肥郷に赴かしめ給うなり。
扈従の輩 北條四郎 子息三郎 同四郎 平六時定 籐九郎盛長 工藤介茂光 子息五郎親光 宇佐美三郎助茂 土肥次郎實平 同彌太郎遠平 土屋三郎宗遠 次郎義清 同彌次郎忠光 岡崎四郎義實 同余一義忠 佐々木太郎定綱 同次郎経高 同三郎盛綱 同四郎高綱 天野籐内遠景 同六郎政景 宇佐美平太政光 同平次實政 大庭平太景義 豊田五郎景俊 新田四郎忠常 加藤五郎景員 同籐太光員 同籐次郎景廉 堀籐次親宗 同平四郎助政 天野平内光家 中村太郎景平 同次郎盛平 鮫島四郎宗家 七郎武者宣親 大見平二家秀 近藤七国平 平佐古太郎為重 那古谷橘次頼時 澤六郎宗家 義勝房成尋 中四郎惟重 中八惟平 新藤次俊長 小中太光家」(「吾妻鏡」同日条 改行を施す)。
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伊豆工藤介茂光・下総千葉介常胤・下野小山介朝政は、源氏に味方する。
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平家方は、
①伊豆伊東祐親:本領の久須美荘の領家は平重盛
②上野新田義重:新田荘の領家は平清盛娘婿父の藤原忠雅
③上総千田親正:妻が平清盛の姉
④下野足利俊綱・忠綱父子:秩父氏と合戦を繰返し、女性凶害で足利荘を没収されそうなとこを重盛の口添えで安堵されている。
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8月21日
・清盛、源通親らを伴い厳島と宇佐八幡参詣に赴く(宇佐八幡参詣は延期。10月初に参詣)。
この頃、高倉上皇の病気は回復していない。
福原の造都は軌道に乗り始める。
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8月22日
・三浦義澄・和田義盛軍、三浦衣笠を出発。
「三浦の次郎義澄・同十郎義連・大多和の三郎義久・子息義成・和田の太郎義盛・同次郎義茂・同三郎宗實・多々良の三郎重春・同四郎明宗・津久井の次郎義行以下、数輩の精兵を相率い、三浦を出て参向すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
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「★治承4年記インデックス」をご参照下さい。
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・頼朝の「関東事施行の始め」。
親王宣旨状(令旨)により東国沙汰権(支配権)を認められたと主張。この令旨の存在が頼朝を単なる謀反人と区別する。
蒲屋御厨安堵の下文発給。
北条政子を伊豆山文陽坊覚渕に託し、所領寄進を約束。三島大社に所領寄進。
安房在庁武士安西景益に在庁官人の帰属要請。
江戸重長に武蔵在庁官人・郡司の支配権を与える。
史大夫中原知親の伊豆目代を解官。
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「兼隆が親戚史大夫知親、当国蒲屋の御廚に在り。日者非法を張行し、土民を悩乱せしむの間、その儀を停止すべきの趣、武衛下知を加えしめ給う。邦道奉行たり。これ関東の事施行の始めなり。その状に云く、
下す 蒲屋の御厨住民等の所
早く史大夫知親が奉行を停止すべき事
右東国に至りては、諸国一同、庄公皆御沙汰を為すべきの旨、親王宣旨の状明鏡なり。てえれば、住民等その旨を存じ、安堵すべきものなり。仍って仰せの所、故に以て下す。
治承四年八月十九日
またこの間、土肥の辺より北條に参るの勇士等、走湯山を以て往還の路と為す。仍って多く狼藉を見るの由、彼の山の衆徒等参訴するの間、武衛今日御自筆の御書を遣わされ、これを宥め仰せらる。世上無為に属くの後、伊豆の一所、相模の一所、庄園を当山に奉寄せらるべし。凡そ関東に於いて、権現の御威光を耀かし奉るべきの趣、これを載せらる。茲に因って、衆徒等忽ち以て憤りを慰むものなり。晩に及び、御台所走湯山の文陽房覚淵の坊に渡御す。邦道・昌長等御共に候す。世上落居の程、潛かにこの所に寄宿せしめ給うべしと。 」(「吾妻鏡」同日条)。
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□現代語訳。
「己亥。兼隆の親戚にあたる史大夫(中原)知親は、現在伊豆国の蒲屋御厨におり、日頃から非法ばかり働いて土地の人々を悩ませていたので、それを止めるようにと武衛が御命令を出された。(藤原)邦通が奉行した。これが関東における施政の始めである。その文書は次の通りである。
下命する 蒲屋御厨住民等の所に。 早く史大夫知親の奉行を停止すべきこと。 右、東国では、全ての国々の庄園・公領はみな(頼朝の)支配下に置くと、親王(以仁王)の宣旨に明らかであるので、住民等はそのことを弁(ワキマ)え、安堵しなさい。そこで、御命令になったところを特に命ずる。
治承四年八月十九日
またこの時期、土肥の辺りから北条にやってくる勇士たちが、走湯山を往還の道としていた。そのため狼籍が多く見られたと走湯山の衆徒が訴えてきたので、武衛は今日、自筆の御書を送られ、お宥めになった。世情が安定したならば、伊豆国で一カ所、相模国で一カ所の庄園を走湯山に寄進すること、関東において権現の御威光を輝かせるようにするとの趣旨をお書きになった。これによって衆徒はみなたちまちに怒りをおさめた。晩になって御台所(政子)が(走湯山の)文陽房覚淵の坊にお渡りになった。邦通と昌長らが御供をした。世情が落ち着くまで密かにここに寄宿されるという。」
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8月20日
・北条・奈古谷・宇佐美・土肥・土屋・佐々木・中村ら46武将、蛭島郷に参集。
頼朝、伊豆を出て相模の土肥郷(神奈川県湯河原町)に入る。21~22日、軍議。
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「三浦の介義明が一族已下、兼日進奉の輩有りと雖も、今に遅参す。これ或いは海路を隔てて風波を凌ぎ、或いは遠路を避けて艱難に泥むが故なり。
仍って武衛先ず伊豆・相模両国の御家人ばかりを相率い、伊豆の国を出て、相模の国土肥郷に赴かしめ給うなり。
扈従の輩 北條四郎 子息三郎 同四郎 平六時定 籐九郎盛長 工藤介茂光 子息五郎親光 宇佐美三郎助茂 土肥次郎實平 同彌太郎遠平 土屋三郎宗遠 次郎義清 同彌次郎忠光 岡崎四郎義實 同余一義忠 佐々木太郎定綱 同次郎経高 同三郎盛綱 同四郎高綱 天野籐内遠景 同六郎政景 宇佐美平太政光 同平次實政 大庭平太景義 豊田五郎景俊 新田四郎忠常 加藤五郎景員 同籐太光員 同籐次郎景廉 堀籐次親宗 同平四郎助政 天野平内光家 中村太郎景平 同次郎盛平 鮫島四郎宗家 七郎武者宣親 大見平二家秀 近藤七国平 平佐古太郎為重 那古谷橘次頼時 澤六郎宗家 義勝房成尋 中四郎惟重 中八惟平 新藤次俊長 小中太光家」(「吾妻鏡」同日条 改行を施す)。
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伊豆工藤介茂光・下総千葉介常胤・下野小山介朝政は、源氏に味方する。
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平家方は、
①伊豆伊東祐親:本領の久須美荘の領家は平重盛
②上野新田義重:新田荘の領家は平清盛娘婿父の藤原忠雅
③上総千田親正:妻が平清盛の姉
④下野足利俊綱・忠綱父子:秩父氏と合戦を繰返し、女性凶害で足利荘を没収されそうなとこを重盛の口添えで安堵されている。
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8月21日
・清盛、源通親らを伴い厳島と宇佐八幡参詣に赴く(宇佐八幡参詣は延期。10月初に参詣)。
この頃、高倉上皇の病気は回復していない。
福原の造都は軌道に乗り始める。
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8月22日
・三浦義澄・和田義盛軍、三浦衣笠を出発。
「三浦の次郎義澄・同十郎義連・大多和の三郎義久・子息義成・和田の太郎義盛・同次郎義茂・同三郎宗實・多々良の三郎重春・同四郎明宗・津久井の次郎義行以下、数輩の精兵を相率い、三浦を出て参向すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
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「★治承4年記インデックス」をご参照下さい。
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