2010年12月23日木曜日

東京 北の丸公園 武道館 カンノヨーコって知ってますか?

YAZAWAの超人気に驚いたんですが(コチラ)
昨日(12月22日)の「カンノヨーコ」の人気にも驚きました。
*
カンノヨーコの説明はこのサイトで



*
グッズ売り場への列は統制されていて、下のテントの写真の左側からずっと後方まで続いています。
田安門と高麗門の間には10列くらいの折り返しの列がありました。
昼頃の状況です。
*
*
「★東京インデックス」をご参照下さい。
*

今日の富士山 朝と夕方 2010-12-23 

今日(12月23日)朝10時頃の富士山
横浜市戸塚区からです。

*
夕方4時半頃の富士山
*

2010年12月21日火曜日

12月20日 北の丸公園はYAZAWA車で充満 年の瀬来たる

昨日(12月20日)、北の丸公園は朝の出勤時から駐車場待ちの車の列が。
年末恒例YAZAWAの5日間連続武道館コンサートの最終日だという。
*
昼休み、様子を見に武道館周辺に行く。
朝から並んだ車は駐車場に入れたようだが、科学技術館に来た予約のバスが出るまで待っている車の長い列がまだ続いていた。
駐車場をのぞいて見ると華やかなYAZAWA車で充満していた。
*
「ヤザワ」ということで「830」ナンバー車が多い。
ワタクシ同様のヒマジンがおりまして、駐車場内と待ち行列中の車を調べたところ、「830」車は56台だったとのこと。
*
人々のコスチュームといえば、最低限YAZAWAジャンパー、他には白のスーツもちらほら。YAZAWA羽織袴雪駄という人もいた。
*
5日間、皆出席という人もいるそうである。





*
立ち見席もあるみたいだ
*
*
開演前のグッズ売り場
*
*
屋台も出て
*
*
そして、今日(21日)の武道館
年の瀬である
*
*
「★東京インデックス」をご参照下さい。
*

治承4年(1180)9月5日~7日 源義仲(27)の信濃挙兵

治承4年(1180)9月5日
・頼朝追討の宣旨。
朝廷は、平維盛・忠度・知度を大将に源頼朝追討軍を派遣するので、東海・東山両道の武士たちはこれに加わる様にと命じる。
*
9月7日
・源義仲の挙兵
源義仲(27)、信濃で挙兵。義仲を育てた中原兼遠の子の樋口次郎兼光・今井四郎兼平兄弟・根井行親・海野幸広ら、従う。
先ず、信濃の市原で笠原頼直を破り、父義賢遺領の上野多胡荘に進出。
関東で頼朝と衝突することを避け、北陸道に進出。
*
伊那谷攻め(市原合戦)
平家側豪族・笠原頼直(信濃守平維盛の曽孫)800余騎、義仲追討に向う。
迎え撃つのは義仲方武将・村山七郎義直と栗田寺別当大法師範覚の500余騎。
市原で合戦。
義仲側に片桐子八郎為安が援軍に駆けつけ、8日、為安が頼直の背後に回り挟撃、義仲側勝利。
義仲軍は権兵衛峠を超え、伊那郡大田切郷に進み、笠原城を焼き討ち。
頼直は越後の城助長の許へ落ちる。
*
□吾妻鏡
「源氏木曽の冠者義仲主は、帯刀先生義賢が二男なり。
義賢去る久壽二年八月、武蔵の国大倉館に於いて、鎌倉の悪源太義平主の為討ち亡ぼさる。
時に義仲三歳の嬰児たるなり。
乳母夫中三権の守兼遠これを懐き、信濃の国木曽に遁れ下り、これを養育せしむ。
成人の今、武略稟性、平氏を征し家を興すべきの由存念有り。
而るに前の武衛石橋に於いてすでに合戦を始めらるの由遠聞に達し、忽ち相加わり素意を顕わさんと欲す。
爰に平家の方人小笠原の平五頼直と云う者有り。今日軍士を相具し木曽を襲わんと擬す。
木曽の方人村山の七郎義直並びに栗田寺別当大法師範覺等この事を聞き、当国市原に相逢い、勝負を決す。
両方合戦半ばにして日すでに暮れぬ。
然るに義直箭窮まり頗る雌伏す。飛脚を木曽の陣に遣わし事の由を告ぐ。
仍って木曽大軍を率い競い到るの処、頼直その威勢に怖れ逃亡す。
城の四郎長茂に加わらんが為、越後の国に赴くと。」(「吾妻鏡」同日条)。
*
□「現代語訳吾妻鏡」。
「七日、丙辰。源氏の木曽冠者義仲主は、帯刀先生義賢の二男である。
義賢は、去る久寿二年八月、武蔵国の大倉の館(現、埼玉県比企郡嵐山町大蔵)で、鎌倉の悪源太義平主に打ち滅ぼされた。その時、義仲は三歳の幼児であった。
乳母の夫である中三権守兼遠は、義仲を抱いて信濃国の木曽に逃れ、義仲を育てた。
成人した今では、武勇の素質を受け継ぎ、平氏を討って家を興そうと考えていた。
そこで、前武衛(頼朝)が石橋で既に合戦を始めたと耳にし、すぐに挙兵に加わり念願の意志を表そうとした。
この時、平家に味方する笠原平五頼直という者がおり、今日、武士を引き連れ、木曽を襲おうとした。
木曽に味方する村山七郎義直と栗田寺の別当大法師範覚らはこのことを聞きつけ、信濃国の市原で笠原方と遭遇し、勝負を決めようとした。
双方の合戦の途中で既に日が暮れた。
ところが義直は弓矢が尽きて、敗退を覚悟し、木曽の陣に飛脚を送って事態を急報した。
そこで、木曽が大軍を率いて急ぎ到着すると、頼直は義仲の威勢を恐れて逃亡し、城四郎長茂の陣に加わるため、越後国に行ったという。」。
*
○源(木曽)義仲(1154~1184):
源義賢の次男。母は遊女という。
久寿2年(1155)8月、父義賢は、武蔵国大蔵の館において、源義平によって討たれ、二歳の義仲は、乳母の夫中原兼遠とともに信濃国木曽に遁れる。
「武略性に稟け、平氏を征して家を興すべきの由、存念あり」として再起の時を待つ(『吾妻鏡』治承4年9月7日条)。
この年(治承4年)、以仁王の令旨をうけた義仲は、同年9月4日平家方の笠原頼直が木曽谷を襲撃したことに応戦した村山義直と栗田範覚を応援して市原(長野市)に出陣。
同年10月、上野国に進軍するが、12月には、頼朝の権威を憚って信濃国に帰還。
治承5年6月、横田河原(長野市)で、城長茂(助職)と戦い勝利。
9月には、平通盛軍を水津(敦賀市)で破る。
木曽義仲を追討するために北陸道に発向していた平氏の軍兵等は、寒気を理由に京都に帰還する。この撤退は「真実の体は、義仲が武略を怖るるが故なり」と評せられた(「吾妻鏡」寿永元年9月15日条)。
寿永2年(1183)4月平維盛を総帥とする義仲追討軍が京都を出立。火打合戦(福井県今庄町)では劣勢となるも、5月9日の般若野合戦(高岡市)では勝利をおさめ、5月11日倶利伽羅峠(富山県小矢部市)で大勝利をおさめる。
その後、篠原合戦(加賀市)で勝利を決定づけ、同年7月28日、5万の兵を率いて入京。
入京後、義仲は、後白河法皇より伊予守に任じられ、京中の狼籍停止を命じられるが、義仲が以仁王の子北陸宮を皇位に推挙したことから、法皇と義仲との関係が悪化する。
法皇が、西国の平氏追討を義仲に命じ、義仲の出陣中に、頼朝に「寿永二年の宣旨」を下し東国の支配権を認めた。
同年閏10月帰京した義仲は、法住寺合戦で実権を掌握すると、法皇に頼朝追討の院宣を強要、征夷大将軍にも就任する。
しかし、すでに法皇は、頼朝に義仲追討を命じ、源範頼・源義経等が、数万騎を率いて翌年1月入洛。
義仲軍は敗北し、近江国粟津の辺において相模国住人石田次郎に殺害される(「吾妻鏡」元暦元年1月20日条)。31歳。
七条河原において義仲ならびに高梨忠直・今井兼平・根井行親等の首が獄門の前の樹に懸けられたという(「吾妻鏡」寿永3年1月26日条)。
*
○義賢(?~1155久寿2)。
源為義の次男。義仲の父。東宮付の武官である帯刀長(タヒハキノオサ)であった為、帯刀先生と呼ばれる。
上野国多胡郡に住み、武蔵方面進出を狙う義朝と対立。
義賢の妻の父は桓武平氏秩父氏流の重隆で、義賢はこれと結び勢力を拡大しようとする。
一方の義朝は両総・相模を基盤として、北関東を射程にしており、両者の衝突は不可避。
久寿2年(1155)8月、義朝の子義平と義賢は合戦に及び、義賢・義隆は武蔵国の大倉館で敗死する。
*
○義平(?~1160永暦元)。
源義朝の1男。相模国の三浦氏のもとで成長。久寿2年、叔父義賢を討つ。悪源太と称される。
*
○兼遠。
中原兼経の男。信濃国木曽の豪族で、義仲の乳母の夫。久寿2年、義賢が源義平に討たれた際、義仲と共に木曽へ逃れる。
子に樋口兼光・今井兼平・落合兼行がおり義仲に従う。また娘の巴は、義仲の愛妾。
*
義仲挙兵の衝撃
「木曾という所は信濃にとっても南の端、美濃境なれば、都も無下に程近し。平家の人々、「東国の背くだにあるに、北国さえこはいかに」」(「平家物語」)
*
□廻文(めぐらしぶみ、「平家物語」巻6);
その頃、信濃に木曾冠者義仲という源氏がいるとの噂が伝わる。
父の帯刀先生義賢(よしかた)が鎌倉の悪源太義平に討たれたとき2歳で木曾中三兼遠(かねとお)に預けられる。
或る日、義仲は守役の兼遠に「兵衛佐頼朝は謀反を起し関東八ヶ国を従え東海道を上っている。私も東山・北陸両道を従え平家を攻め落とし、日本国で二人の将軍と言われたいものだ」と語る。
中三兼遠は喜び、直ちに謀反を企て、廻状を回し、信濃根井の小弥太、海野の幸親(ゆきちか)ら信濃国中の武士を味方にし、上野では故帯刀先生義賢の縁故で多胡郡の武士が従属した
*
*
源氏勢力の三つの磁場
東国に土着した源氏の庶流には、
・義家の弟義光に系譜をひくもの(甲斐の武田氏、信濃の小笠原氏、常陸の佐竹氏など)、
・義家の第三子義国に系譜をひくもの(上野の新田氏、下野の足利氏)
がある。
これらは、在地豪族との婚姻関係でその地盤を形成し、かつては頼朝の父義朝とも対抗関係をはらんでいた。
この年10月、頼朝軍が平氏軍を破る富士川合戦以後でも、常陸における新羅三郎義光を祖とする佐竹秀義や頼朝の叔父志田三郎義広、上野の新田義重らはその去就は定かではない。
安田義定・武田信義ら甲斐源氏へは、9月20日、頼朝は共同作戦のための使者を派し、富士川合戦後は、武田・安田氏を駿河・遠江両国守護の派遣している。
この時の力関係においては頼朝と甲斐源氏との関係は同盟に近い形。
*
反平氏の立場で早い段階で旗色を鮮明にしたのは、
①相模・伊豆方面の頼朝傘下の勢力
②信濃の義仲を中心とした勢力
③これらに呼応する形で応じた甲斐の源氏
の三つの勢力。
*
*
「★治承4年記インデックス」をご参照下さい。
*
*

2010年12月20日月曜日

東京 永井荷風の満11歳の頃の通学路 半蔵門~一ツ橋

永井荷風略年譜(「断腸亭日乗」起筆まで)で記したように、
*
明治23年(1890)5月
荷風一家は父久一郎が文部大臣芳川顕正の秘書官となり、麹町区永田町1丁目21番地の官舎に移る。
また、
11月からは、荷風は神田錦町の東京英語学校に学ぶことになります。
荷風、満11歳の頃のことです。
*
のち、大正4年36歳の時の「日和下駄」にこの頃の通学の順路が記されています。
*
「市中の散歩は子供の時から好きであった。
十三、四の頃私の家は一時小石川から麹町永田町の官舎へ引移った事があった。
勿論電車のない時分である。私は神田錦町の私立英語学校へ通っていたので、
半蔵御門を這入って吹上御苑の裏手なる老松(ロウショウ)鬱々たる代官町の通(トオリ)をばやがて片側に二の丸三の丸の高い石垣と深い堀とを望みながら竹橋を渡って平川口の御城(ゴジヨウ)門を向うに昔の御搗屋(オツキヤ)今の文部省に沿うて一ツ橋へ出る
この道程もさほど遠いとも思わず初めの中(ウチ)は物珍しいのでかえって楽しかった。
宮内省裏門の筋向なる兵営に沿うた土手の中腹に大きな榎があった。
その頃その木蔭なる土手下の路傍(ミチバタ)に井戸があって夏冬ともに甘酒大福餅稲荷鮓飴湯なんぞ売るものがめいめい荷を卸して往来の人の休むのを待っていた。(「日和下駄」大正4年36歳)
*
幸い、「goo地図」には検索した地図の明治時代のころのものが参照できるので、それを見ながら「日和下駄」に記されているルートを、取り敢えず半蔵門~一ツ橋まで辿ってみた。
*
まず、「半蔵御門を這入って」とあるが、現在は半蔵門からは入れない。確か、認証される大臣くらいしか出入りできないハズ。
それが、「goo地図」の明治時代版を見ると、なるほど半蔵門~北桔橋門まで御所内を抜けられるようになっていたようだ。
*
半蔵門前から永田町方面を見る(桜田濠)
*
半蔵門
ずっと遠くからしか見られない
*
*
半蔵濠越しに横から見た半蔵門
半蔵門は入れないので、濠(半蔵濠)のこちら側を歩くことにする。
この濠縁は「千鳥が淵公園」という
(千鳥が淵はもっと北側にあり、半蔵濠の縁なのに、この命名は不可解。
千鳥が淵の縁の方は、「千鳥が淵縁道」と呼ぶらしい)
*
*
半蔵濠越しに吹上御所方向を見る。
荷風(壮吉)少年の通学路はこの濠の向こう側にあったようです。
*
*
麹町高等小学校校舎址の碑
*
*
第一東京市立中学校発祥之地の碑
*
*
近くの人達の憩いの場になっている
*
*
しばらくすると、千鳥が淵交差点前にイギリス大使館
*
*
千鳥が淵交差点を右折して代官町通りに入る
右側が吹上御所
*
*
乾門周辺
*
*
北桔橋門前から竹橋方面を見る
ここで荷風(壮吉)少年は、平川濠縁(下の写真の右側)に出て竹橋方面に歩いて行ったハズ
*
*
平川濠の優美な石垣
しかし、石垣は単に「高い」と表現されるだけで、荷風の美意識の対象にはなっていない。
代官町の通(トオリ)をばやがて片側に二の丸三の丸の高い石垣と深い堀とを望みながら・・・
*

*
この辺り、紀伊国坂というらしい。
明暦の大火までは、紀州藩の屋敷があったという。
この次の移転先は、大久保利通が暗殺された紀尾井坂
(紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の頭文字から名付けた町名。命名は明治5年)
*
*
竹橋
「竹橋を渡って平川口の御城(ゴジヨウ)門を向うに昔の御搗屋(オツキヤ)今の文部省に沿うて一ツ橋へ出る」
*

*
竹橋から平川橋を見る
*
*
平川橋から毎日新聞のあるパレスサイドビルを見る
このパレスサイドビルが、明治の頃の文部省があったところ。
ビルの右脇を抜けると一ツ橋。
「文部省に沿うて一ツ橋へ出る。」とある。
ただ、
宮内省裏門の筋向なる兵営に沿うた土手の中腹に大きな榎があった。
とある「兵営」が何処かよく判らなかった。
パレスサイドビルの右側向いに「近衛騎兵連隊兵営」というのがあり、これかも知れない。
*
*
「★東京インデックス」 「★永井荷風インデックス」をご参照下さい。
*

明治6年(1873)10月17日~20日 大久保らが辞表提出 太政大臣三条実美の精神錯乱 大久保の「一の秘策」(岩倉の太政大臣代理就任を画策) [一葉1歳]

明治6年(1873)10月17日
・朝8時、大久保利通、三条邸を訪問し辞表提出
続いて木戸孝允・大隈重信・大木喬任が、今後の責任をとれないとして辞表提出。
西郷は三条に上奏を迫る。
三条は岩倉に相談するが、岩倉はこれは留守政府が決めたこととして辞意表明
三条は、上奏予定見送る。
三条は高熱を発し倒れる
*
16日は休日のため、17日朝8時、大久保は三条邸を訪問し、「奉職の目的、相立ち難く侯に付き、当務免ぜられ、位階返上仰付られ侯様」と、参議辞任・位階返上を申し出る。
ただし、「若し禍端相開き候はば、兵卒とも相成り、一死をもつて万分の一死報じ度微意」と別紙にしたためる。
*
大久保日記に、「今朝八字、条公へ参上、辞表差し出し、趣意書差し上げ候、今朝の御様子よほど御周章の御様子に侯」とある。
大久保は相当の権幕で三条を攻めた模様だが、日記には冷やかに三条の狼狽ぶりを記す。
*
大久保は、岩倉にも、「過日来心決の次第これあり」と、辞表の写しを添えてきびしい書簡を送る。
岩倉は、大久保の怒りを知って態度を急変、「御旨趣の通りにては天下の事は去り申すべし」と、三条の方針に追いていけない旨の辞意を表明。
三条と岩倉とは実際は陰微なライバル関係にあったが、岩倉と大久保とは幕末以来の同志、ここにその差が表面化した。
*
この日、木戸も辞表を提出。
岩倉は「此の上は進退を致すのほかこれなく」と辞意漏らしつつ、ともかく今日は「持病困苦」として、不参を報告(10月17日付け三条宛て書簡)。
*
この日(17日)、太政官に登庁した西郷らは、三条に、所定の手続きに従って使節派遣の閣議決定を天皇に上奏するように求めた。
しかし、岩倉の背反に自失した三条は、上奏に一日だけの猶予を請い、その夜、岩倉を訪ね協力を哀願。
岩倉はこれに応じず。
全く孤立した三条は、高熱を発して卒倒、人事不省に陥り、職務遂行不能となる。
*
10月17日
・臨時裁判所第2回公判。
槇村正直、司法省地下の仮監獄に拘留される。
京都裁判所が裁可を得て申し渡したものでも、心服できないものは奉じることができないといったため。
参座多数もこれに賛成。
*
18日、第3回公判。
京都府知事長谷信篤は「聞いていない」「記憶にない」と答えるのみ。
外出禁止となる(公卿・長州閥への工作封じ込めのため)。
木戸は文部大輔宍戸璣に書簡(元司法大輔、江藤に外される、兄事する佐々木高行(司法大判事)がこの裁判の筆頭判事)。
三条が人事不省となり裁判もストップ。
*
この頃の木戸日記。
10月14日~16日は、来客者の名前や、「小林来て織物の事を語る」、「〔医師〕長与専斎来診」などが記されているだけ。
17日に、「槇村正直を臨時裁判所に拘留せしよし、依て参坐(陪審人)土方〔久元〕と参議江藤へ一書を投ず。司法の所致法外の事少なからず、実に歎くべし」と記され、木戸の関心は小野組転籍事件(槇村正直事件)の善後策で占められていたことを示す。
「西郷」「朝鮮」などの文字は一語も出てこない。
*
10月18日
・太政大臣三条実美、大病・精神錯乱。
伊藤博文、太政大臣代理に岩倉説得するしかないと、木戸に訴える。
夜、岩倉を訪問し、三条に代って太政大臣を摂行(代行)すべしと「自説を詳陳」。
木戸=伊藤、大久保にも働きかける。
大久保は岩倉に奮起を促し、岩倉は「断然振起すべし」と約束、大久保に「是非噴発いたし候様」と申し送る。
*
西郷は、三条の有様をみて、三条の胆の小ささを嘆く。
「副島の咄に、条公は前晩迄は岩倉卿へ向かい、海陸軍を率い、自ら討征致すべき旨、御返答相成り候位に御座候由。憐れむべき御小胆故か、終に病を発せられ、残念の仕合いに御座候。」(桐野利秋・別府晋介宛書簡、日付なし)
*
伊藤の次の策略:
三条の急病を機会に、岩倉を太政大臣代理にして、閣議決定の上奏時に、岩倉が独自の発言して朝鮮使節派遣を阻止するという非常手段を案出。
*
18日、伊藤は、木戸と相談し、岩倉を説得し、大久保にも協力を打診。
木戸も大久保に書簡を送り、伊藤に同調するよう働きかける。しかし、大久保は、伊藤の強引な策に消極的であるかに見えた。
同日、大久保は木戸に返書を送り、「今朝来一層の大変を生じますます困却つかまつる折から、伊藤君も入来、種々示論も蒙り供えども、決答も申し上げかね候事に御座候につき、なおまた御忠告を蒙り侯ては此の上深重熟慮つかまつり申すべく」と、気乗り薄の意向を示す。
*
10月19日
・木戸は伊藤に手紙を送り、
「大久保よりも返辞これあり、深憂の趣に相察せられ侯えども、今一歩の処、如何やと相考え申し侯」、「今晩御面会も御座候わば、御熟談これあり度く、万禱このことに御座候」と、今夜にでも大久保を再度説得するよう勧める。
*
伊藤は、木戸に返書を送り、
「岩公へも昨夜八時より十一時ごろまで充分論じ置き申し候、さりながら何分小胆、あるいは着手を誤り侯かとも恐れ申し侯えども」(策略が失敗するかもしれないと危ぶみ)、
「実に明暗期し難く、大久保も唯(タダ)その恃むべからざるを恐れ侯かと推察仕り侯」(大久保が消極的なのは、岩倉の変心しやすい性格を信頼できないからであろうと推察)、
と報告。
*
・この日(19日)大久保利通は、三条を見舞った後、開拓次官黒田清隆に「一の秘策あり」と策をさずけ、更に夜、黒田に手紙。
宮内少輔吉井友実に黒田の意見として、岩倉の太政大臣代理就任を「示談」する。
木戸=伊藤ラインと同じ策略のための宮廷工作
*
10月19日
・正院、京都府へ「新次郎魚代金渋事件」に関する下問への回答を「不条理な答弁である」として差戻す旨布達。
20日、参議木戸、前日の布達に対抗する「上書」を正院に提出。
参議江藤を攻撃。代言人児玉淳一郎が起草、福沢諭吉が添削。
*
10月20日
 ・早朝、大久保利通、宮内少輔吉井友実と協力して宮内卿徳大寺実則を説得、直接岩倉に太政大臣代理の大命下る取り計らう。
*
10月20日
 ・天皇、三条見舞い。岩倉に大政大臣代行すべしとの勅語与える。
*
10月20日
・木戸、「京都府に於ける紛争に対する条陳書」十四箇条を太政官に提出し、槇村を弁護。
「槇村参事拘留一条につき今日上書一冊を出し諸参議に副啓を投ず」(木戸日記)。
*
10月20日
・この日付け、木戸の岩倉宛書簡。
 「伊藤博文儀は孝允十有余年の知己にて、兼て御承知もあらせられ候通り剛凌強直の性質に御座候処、近年専ら意を沈実に用い細案精思、その力また孝允同朋には稀有の者」と、伊藤の参議就任を要請。
10月25日、伊藤は参議兼工部卿に親任される。
*
*
「★樋口一葉インデックス」をご参照下さい。
*
*

2010年12月18日土曜日

東京 北の丸公園 初冬の風景 フユザクラ コブシの蕾 ハナモクレンの蕾 カンツバキ アオキの実 

昨日(12月17日)のお昼頃の北の丸公園
晴天でした。
公園は、秋が行き、初冬の景色に変わりつつあります。
*
公園でお昼を済ませて、科学技術館に向う小学生

*
小さな滝ともみじ
*
*
フユザクラ
*

*
春を待つコブシの蕾
*

*
こちらはハナモクレンの蕾
*
*
少し残っているもみじ
*
*
千鳥が淵とカンツバキ
*



*
アオキの実が大きくなっていました
*
*
「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
*

弘治3年(1557)2月 大内氏滅亡 島津氏の薩摩統一 第3回川中島の合戦   [信長24歳]

弘治3年(1557)
2月1日
・館林城主赤井照忠、没。嫡男の但馬守照康が相続。
*
2月13日
・フランス、ユグノー弾圧のためアンリ2世(38)、異端審問所設置。
*
2月15日
・武田晴信(信玄)、大軍で長尾景虎方の水内郡葛山城(善光寺西方1里)攻撃。城方全滅。
善光寺を手中におさめ仏像等を奪う。
第3次川中島の戦いの契機となる。
*
2月18日
・能登守護畠山義綱、七尾城に篭城。長尾景虎(上杉謙信)に救援求める。
景虎、食糧を送る。
*
*
3月
・飯山城主高梨政頼、景虎に救援を頼む。
*
・武田晴信(信玄)軍、嫡子太郎義信と左馬介信繁を先陣に総勢1万3千を率い余地峠から上州に侵入を開始。
上州側は長野業政(68)を主将に小幡・白倉・藤田・安中・和田・尻高・後閑等の兵2万で瓶尻原(みかじりはら、碓氷郡松井田町人見付近)に布陣。
武田側の攻撃に、上州側は箕輪城に引き上げ。
信玄は法峯寺口に布陣、箕輪城を攻撃。
上杉謙信が上州支援のために川中島に出兵。
4月24日、信玄は信州に戻る。
*
3月2日
・毛利軍、須々万沼城を再攻撃、陥落。山崎伊豆守父子自刃。
続いて、富田若山城(都濃郡)攻略。陶長房自刃。諸城を落とす。
*
3月12日
・毛利防長遠征軍、防府松崎天満宮に本陣を移す。
*
3月中旬
・武田晴信、信濃深志城着陣。
*
3月23日
・益田藤兼(29)、吉川家(毛利)傘下になる事を申し入れ。
西石見は完全に毛利家の支配下となる
*
3月25日
・伊勢、北畠具教(30)、田丸城で山科言継にあう 。
*
*
4月
・真田幸隆(45)、小山田昌辰と共に雨飾城の在番を勤める。
*
4月2日
・大内氏滅亡
毛利軍、長門勝山城(下関市)陥落。大内氏重臣内藤隆世、自刃。翌日、大内義長、長福院に自刃。
毛利家が周防・長門平定
大内旧領地の北九州は一部を除き大友家が乗っ取る。
23日、毛利軍、吉田に凱旋。 
*
4月9日
・信長(24)、飯田弥兵衛尉宅重に同族彦太郎の跡式などを与える。
*
4月15日
島津氏の薩摩統一
島津貴久、北村城を攻略。
20日、蒲生範清、龍ケ城を捨て祁答院へと逃亡。北薩摩の名門蒲生氏滅亡。
*
4月18日
・長尾景虎(28)、北信濃出兵、武田方占領の山田の要害と福島城攻撃。
21日、善光寺に着陣。
25日、旭山城一帯の武田方砦放火。旭山城に本営。
*
*
5月12日
・長尾景虎、埴科郡香坂の武田勢攻撃。
13日、坂木・岩鼻進出の武田勢2千と交戦。武田軍逃亡。
15日付けの高梨政頼宛ての謙信書状。
「懸け動き候えば、五里より三里先に背北(敗北)候間、打ち捕えざる事、無念この事に候」と、信玄の直接対決回避の様子を述べる。
*
5月14日
・大友義鎮(28、よししげ、宗麟)、書状にて毛利元就(61)に秋月文種征伐を宣言。
毛利氏の山陽地方支配を認めるかわりに、秋月氏への肩入れをひかえるよう求める。
*
5月21日
・大友義鎮の避難所である臼杵丹生島館、出火・焼失。
*
5月26日
第3回川中島の合戦
長尾景虎(上杉謙信)と武田信玄、善光寺の東北4キロほどの上野原で戦闘
*
*
6月
・大友義鎮、豊前攻め第1陣の田原親賢(紹忍)・木付鎮秀を宇佐郡妙見岳城に入れる。
豊前諸将討伐に田原親宏を総大将にして攻め込み、この月山田城(豊前市)、7月馬岳城(行橋市)を陥落。
豊前を平定
この間に、志賀親守・戸次鑑連・田北鑑生等を使い、筑前を平定
中国で大内氏が滅び、毛利元就が勢力伸張。
豊前諸将は、毛利氏に通じたり、独立の動きも見せる。
大友義鎮(宗麟)は、豊前攻め敢行。中心になったのは国東半島の田原一族・木付氏・吉弘氏等。
*
・将軍義輝から甲越和睦(晴信・景虎)の御内書。
晴信は受諾の見返りに信濃守護職を要求。
*
6月1日
・ポルトガル、ジョアン3世、没。6日、孫のドン・セバスティアン(セバスティアン1世)、即位。王妃カタリーナ(スペイン王カルロス5世の妹)が摂政。スペインの影響強まる。
*
6月7日
・イギリス、メアリ1世、スペイン(メアリ夫フェリペ2世)と同盟しフランス(アンリ2世)に宣戦布告。スペイン海軍に15万ダカットの援助を約束。
*
6月23日
・武田晴信から北信の地侍市河藤若に宛てた書簡に、口上の使者として「山本菅助」の名が見える。
晴信の側近に仕え、使番を勤める立場であったことが確認できる。
*
6月下旬
・筑前、秋月文種、毛利氏の勧誘による反大友の反乱。
大友義鎮、総大将戸次鑑連2万を派兵。武将は高橋・臼杵・吉弘・佐伯・志賀・田北・一万田・吉岡・朽網。甘木に集結。
*
*
「★信長インデックス」をご参照下さい。
*
*

一葉日記抄 明治26年(1893)12月2日~31日(21歳) 「かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやは。 なすべき道を尋ねてなすべき道を行はんのみ。」(「塵中日記」)

樋口一葉の日記に関して、前回からの続き
*
竜泉寺町で雑貨・駄菓子を商う一葉一家。この時、一葉21歳。
*
明治26年(1893)12月2日

「二日、晴れ。議会紛々擾(ジョウ)々。私行のあばき合ひ、隠事の摘発。さも大人げなきことよ。
半夜眼をとぢて静かに当世の有さまをおもへば、あはれいかさまに成りていかさまに成らんとすらん。
かひなき女子の何事をおもひたりとも猶蟻みゝずの天を論ずるにもにて、我れをしらざるの甚しと人しらばいはんなれど、さてもおなじ天をいたヾけば風雨雷電いづれか身の上にかゝらざらんや。
国の一隅にうまれ一端に育ちて、我大君のみ恵に浴するは彼の将相にも露おとらざるを、日々せまり来る我国の有さま、川を隔てゝ火をみる様にあるべきかは。
安きになれてはおごりくる人心の、あはれ外つ国の花やかなるをしたひ、我が国振のふるきを厭ひて、うかれうかるる仇ごころは、なりふり、住居の末なるより、詩歌政体のまことしきにまで移りて、流れゆく水の塵芥をのせてはしるが如く、何処をはてととどまる処をしらず。
かくてあらはれ来ぬるものは何ぞ。
外は対韓事件の処理むづかしく、千島艦の沈没も、我れに理ありて彼れに勝ちがたきなど、あなどらるゝ処あればぞかし。
猶、条約の改正せざるべからざるなど、かく外にはさまざまに憂ひ多かるを、内は兄弟かきにせめぎて、党派のあらそひに議場の神聖をそこなひ、自利をはかりて公益をわするゝのともがら、かぞふれば猶指もたるまじくなん。
にごれる水は一朝にして清め難し。
かくて流れゆく我が国の末、いかなるべきぞ
外にはするどきわしの爪あり、獅子の牙あり。印度、埃及(エジプト)の前例をきゝても、身うちふるひ、たましひわなゝかるゝを。
いでよしや物好きの名にたちてのちの人のあざけりをうくるとも、かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやは
なすべき道を尋ねてなすべき道を行はんのみ
さても恥かしきは女子の身なれど。
  吹かへす秋のゝ風にをみなへし
      ひとりはもれぬのべにぞ有ける」(「塵中日記」)
*
対韓事件」:
防穀事件のこと。大鳥公使の赴任後、朝鮮側は仁川・釜山・元山での輪川米の持出しを禁止。
「千島艦の沈没」:
軍艦「千島」の英国ラヴェンナ号との衝突沈没事件。上海裁判所で英国側の勝訴。
印度、埃及」:
両国ともイギリスの植民地。

*
一葉の政治・社会への強い関心を示す。

改進党・自由党の対立を背景に、衆議院議長星亨への不信任動議に紛糾する国会を嘆き、日朝・日英間の外交にも憂慮している。
新聞の影響か、民族主義的、国家主義的な傾向も見える。
*
「・・・、かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやはなすべき道を尋ねてなすべき道を行はんのみ。」とは、志士のようでもある。
*
以降、横山源之助や馬場孤蝶などと交際して行く中で、一葉のこの社会への関心の在り方も、変容してゆく。
*
*

12月7日
「七日 晴れ。多丁にかひ出しながら、喜多川君に菓子箱かへす。

帰路、奥田に利金入るゝ。
此日、伊三郎より金五円かりる。高利の金にて、俗に「日なし」といふもの也。かゝる事、物覚えてはじめての事也。
此夜、山梨県に手紙出す。金子のこと後屋敷に申つかはし、雨宮のもとへも頼み文出す」
*
金策、である。
*

やみ金融をしている従弟の広瀬伊三郎から「日なし」という高利の金5円を借りる。
「日なし」:
貸付けた当日から利子をかけ、日済で少しずつ返済させながら、高利の利子を取る貸し方。

山梨県は、
父母の出身地。後尾敷村の芦沢卯助という者には養父五左衛門の時代に則義から借りた古い負債が残っている。
「雨宮」:
母たきの甥の雨宮源吉。

*
他に、姉の久保木のところへも借金に出かけるが果たさず。
*
16日には、20年ほど前(明治6,7年頃)に、父が母の弟の養子先に貸したという28円の回収の為に、母たきが山梨に出かける。結果的には交渉は失敗。
その間、一葉姉妹は、母一人を送り出したことで、
「母君のことをおもふに、くに子も我も終日むねいたくて、ともすれば涙のみなり。」(17日付け日記)、
「此日頃大方なみだ也」(21日付け「日記」)となる。
母は26日に戻る。
*
結局この年末は、山梨の従弟や、父の知人からの調達、28日には『文学界』から「琴の音」の稿料1円50銭も届き、どうにか年越しができる。

*
12月30日
「三十日 もちをつく。金壱円。上野君父子歳暮に来る。議会解散。」
*
12月31日
「三十一日 あきなひ多し。二時まで起居る。」
*
*
*

「黙翁年表」は以下の通りです。
*

明治26年(1893)11月

・改進党、大日本協会を中心とする対外硬派に合流。
改進党目的である政党内閣樹立の為、政局の主導権掌握の一段階として硬派に連合。
右翼国権主義の潮流に乗ることが反政府運動の主導権掌握の近道と考えられる。
*
・子規(27)、「芭蕉雑談」(25回,「日本」11月13日~翌1月22日)
*
・宮崎湖処子「湖処子詩集」(石文社) 
*
11月1日
 明治座の開場式
*
11月3日
早川徳次、誕生。シャープ創業者。
*
11月6
・(露暦10/25)チャイコフスキー(53)、ペテルブルク、弟モデスト宅で没 
11月14
 14 ・森鴎外(31)、陸軍一等軍医正、軍医学校長兼衛生会議議員となる。
12月16日、正六位に叙任。中央衛生会委員となる。 
*
11月28
・第5議会、開会。
翌日、大日本協会安部井磐根から、星議長不信任決議案が緊急動議として提出され、賛成多数により可決。
星は憲法上議長不信任はあり得ないとして、翌日も平然と議長席に着く。
これに対し、衆議院は、議長不信任上奏案を可決するが効果なく、更に星の7日間登院停止を決議するが、その期限後、星は平然と議長席に着く。
この倣慢不遜な態度は自由党内にも敵を作り、12月13日、衆議院除名決議が可決され、遂に議席を失う。
*
議長在任は1年7ヶ月。短期間で議長の座を失うが、その剛腹さを見せつけたことはその後の活躍の為にはむしろ役立った面がある。 
不信任の直接の理由は、①相馬事件と②取引所事件。
①相馬事件:
旧相馬藩の旧家臣が、相馬家当主を、その兄謀殺を理由に告訴、星は、告訴された相馬家当主を弁護し、無罪を勝ち取り、告発者が逆に誣告罪で有罪となる。
しかし当初は、告発が正当と思われ、その弁護人となった星は社会的非難を浴びる。
*
②第4議会、星議長の下で、取引所に関する諸法令(米商会所条例、株式取引所条例、取引所条例)が統合され、会員組織取引所と株式会社組織取引所の2種類の取引所設立を認める取引所法が成立。
新法令では、商品取引所と証券取引所の設立を免許制として政府監督下に置くが、免許制の為、政府には100社近い出願が殺到。
しかし実際に免許を受けたのは18社のみ。商品取引所設置に関する監督官庁は農商務省で、大臣は星と関係が深い自由党系後藤象二郎。
後藤は清廉潔白からは程遠い人物で、出願を却下された業者は、後藤-星ラインとこれに癒着する競願業者にしてやられたとの思いが強い。
改進党機関紙「改進新聞」は、星が一部業者から賄賂を受け取ったと書き立て、他の改進党系新聞もこれに追随。
星は新聞社を告訴し、第5議会開会直前には新聞発行人に対する禁固・罰金刑、新聞社に対する謝罪広告掲載を命ずる判決を得て、法的には決着。
しかし裁判の勝利によって、逆に星にまつわるダーティなイメージを消し去る事はできず。 
*
11月30日
・千島艦、英艦ラベンナ号と伊予沖で衝突し沈没。 
*
12月
9日

・フランス、無政府主義者オーギュスト・ヴァイヤンが、国民議会下院にダイナマイト投擲。
議会はこれを機に暴力行為準備集会取締法を強引に可決。     
*
12月16日
・ドヴォルザーク(52)、「交響曲第9番ホ短調<新世界より>」、カーネギーで初演。 
*
12月19日
・外相陸奥宗光、条約改正の目的は国として受くべき権利と国として尽すべき義務を完うすることにある、「是ヲ実際ヨリ云へバ則此日本帝国ガ亜細亜州中ニアリナガラ欧米各国ヨリ特別ナル待遇ヲ受ケム云フ趣旨デアル」と議会演説。     
*
12月24日
・オーストリア、第1回労働組合全国大会開催             
*
12月28日
・英帰国中の英公使フレーザー、在日英公使館付ショウ牧師に対する暴行事件に関し青木周蔵公使に警告。   
対外硬派が第5議会に「条約励行建議案」を上程。
大日本協会安部井磐根は、説明にあたり在留外国人が条約違反を積重ねていると暴露すると、外国人に対する暴行やいやがらせが頻発。
イギリス公使館付牧師アルチデーコン・ショウが暴漢に襲われ際、巡査は傍観して救援せず。
この報がロンドンに達するや、イギリス外務省の「模様俄カニ一変」。
30日、青木公使の電報によりそれを知った伊藤内閣は、即座に衆議院を解散。 
*
12月29日
・政府、条約励行論は開国の国是に反するとして大日本協会に解散命令。 
*
12月30日
衆議院(第5議会)、解散
伊藤政権と自由党が提携すると、第5議会で国民協会と改進党が提携し、官紀振粛問題(後藤象二郎農商務相らの汚職問題)・条約励行問題で伊藤政権を追詰める。
第5議会解散により反政府熱は高まる。貴
族院では、近衛篤麿ら有志38名が対外硬派を支持し、政府の議会解散を非難し、伊藤内閣に対する国民の信任は失墜したと退陣を要求。
大日本協会は改進党と協同して排外的な「条約励行案」を上程。極秘裡に英国と条約改正交渉を進めている第2次伊藤内閣は衆議院を解散して励行案の成立を防ぎ、一方で大日本協会の結社を禁止。 
取引所事件に関して、後藤農商務相と斎藤修一郎農商務次官に対する官紀振粛上奏案も可決され、両名はその官を辞すた。
後藤象二郎はこの事件後、政治力を失い、3年余後に没す。  
*
*

「★樋口一葉インデックス」をご参照下さい。
*

*
*
*
*

2010年12月16日木曜日

東京 九段周辺の永井荷風旧居跡(2) 九段南(旧麹町)の旧居跡

先回は、永井荷風が満14歳の頃に住んでいた冬青木坂の旧居跡をご紹介しました
荷風一家は、その1年後に麹町(今の九段南)に移転します。
この九段南には8年近くここに住みます。
*
永井荷風年表ではこうなってます。
*
明治27年(1894)(15歳)10月
麹町区1番町42番地(現、九段南2丁目)の借家に移転。
*
この頃、この辺り(麹町3丁目、富士見町あたり)は芸妓100人を擁する街であったという。

荷風の「桑中喜語」に
「明治三十年の頃僕麹町一番町の家に親の脛をかじりゐたり。
門を出でゝ坂を下れば富士見町の妓家軒先に御神燈をぶら下げたり。
御神燈とは妓の名を書きたる提灯をいふなり。
毎日学校への往かへりに提灯の名を早くも諳じ女同士が格子戸の立ばなしより耳ざとく女の名を聞きおぼえて、之を御神燈の名に照し合すほどに、いつとなく何家の何ちやんはどんな芸者といふ事、一度も遊ばざるに蚤(ハヤ)く之を知る身ぞ賢かりける。」
(改行を施す)
とあります。
*
下の写真は、田安門前から九段坂上方面を見たところ。
通り(靖国通り)の左側が、今回行くところです。







*
旧居は、二松学舎大学の裏辺りといいます。
もちろん、今回も旧居跡には何の形跡もありません。
*
*
千鳥が淵
この右側が昔の富士見町(今は、インド大使館などがあります)
*
*
内堀通りを左折
*
*
この「二七通り」を右折して、一筋目を左折したところが旧居跡
*
*
「二七通り」を左折しないで、もう少し内堀通りを行くと、二松学舎大学
旧居跡は、この大学の裏手あたり
*
*
このあたりが旧居跡
何の痕跡も形跡もなし
先の引用の「門を出でゝ坂を下れば富士見町の妓家」というのが、この坂のことかナ、と推測してます。
*
*
*
*
*
ところで、この麹町三丁目は、荷風にとってのもう一つの関係先であります。
荷風が昭和2年暮れ(48歳)から昭和6年8月までの間、お妾さんとして囲っていた「うた(関根歌21歳)さんに経営させていた待合「幾代」が、このすぐ近くにあります。
*
おうたさんと荷風との交信は、荷風が没するまで細く長く続いたそうです。
松本哉さんの本に詳しい。
*
靖国通りを靖国神社南門のところで左折して、一筋目を右折した辺り。
*
*
この下の写真の辺りのようです
*
*
近くの風景
*
*
近くに「塙検校和学講談所跡」の説明
*
*
岩波「荷風全集」付録の関係地図を拝借
14が待合「幾代」
15が旧居跡
16は巌谷小波の家(荷風20歳の初冬の頃、小波の木曜会に入会する)
*
*
「★東京インデックス」 「★永井荷風インデックス」をご参照下さい
*