なにしろ、川本さんの著書は、いきなり荷風37歳の「老いの見立て」から始まりますので。
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謹告
新たに「永井荷風年譜」として再スタートします(コチラ)。
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永井荷風略年譜(「断腸亭日乗」起筆まで)
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明治12年(1879)12月3日(0歳)
東京市小石川区金富(カナトミ)町32番地(のち45番地、現、文京区春日2丁目20番1号)に内務省衛生局事務取扱の永井久一郎(号禾原・来青閣主人)、恒(つね)の長男として誕生。
名は壮吉。
父久一郎:
尾張藩士永井匡威(マサタケ)の長男。漢詩をよくし、大学南校貢進生から渡米してプリンストン大学に学ぶ。
文部官僚ののち日本郵船に入社、上海、横浜支店長。没後、正四位に昇叙。
久一郎の次弟は、冬季三郎(家督継承、長男に松三=素川)、三弟は釤之助(阪本家に入り、長子に詩人阪本越郎、落胤に高間芳雄=高見順)、五弟は久満次(大嶋家に入り、長男に一雄=杵屋五叟)。
母恒:
儒者鷲津毅堂(久一郎は経学の門弟)の次女、明治10年7月10日永井家に入籍。三男一女をもうける。次男貞二郎(明治16年生)は鷲津家に入って牧師(下谷教会設立)となり、三男威三郎(明治20年生)は農学博士。長女は夭折。
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明治16年(1883)2月5日(4歳)
弟貞二郎(のち鷲津家を継ぐ)出生。下谷区竹町4番地の鷲津家に預けられ、祖母美代に育てられる。
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明治17年(1884)(5歳)
鷲津家からお茶の水女子師範学校附属幼稚園に通園。父が渡欧(翌年帰国)
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明治19年(1886)(7歳)
小石川の実家に戻り、小石川区小日向の黒田小学校初等科に入学。
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明治20年(1887)(8歳)11月18日
弟威三郎出生。
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明治22年(1889)(10歳)4月
黒田小学校尋常科第4学年を卒業。
7月
小石川竹早町の東京府尋常師範学校附属小学校高等科に入学。
この年、父久一郎は帝国大学書記官から文部省に入省。
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明治23年(1890)(11歳)5月
父久一郎が文部大臣芳川顕正の秘書官となり、麹町区永田町1丁目21番地の官舎に移る。
11月
神田錦町の東京英語学校に学ぶ。
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「市中の散歩は子供の時から好きであった。十三、四の頃私の家は一時小石川から麹町永田町の官舎へ引移った事があった。勿論電車のない時分である。私は神田錦町の私立英語学校へ通っていたので、半蔵御門を這入って吹上御苑の裏手なる老松鬱々たる代官町の通(トオリ)をばやがて片側に二の丸三の丸の高い石垣と深い堀とを望みながら竹橋を渡って平川口の御城(ゴジヨウ)門を向うに昔の御搗屋(オツキヤ)今の文部省に沿うて一ツ橋へ出る。この道程もさほど遠いとも思わず初めの中(ウチ)は物珍しいのでかえって楽しかった。宮内省裏門の筋向なる兵営に沿うた土手の中腹に大きな榎があった。その頃その木蔭なる土手下の路傍(ミチバタ)に井戸があって夏冬ともに甘酒大福餅稲荷鮓飴湯なんぞ売るものがめいめい荷を卸して往来の人の休むのを待っていた。」(「日和下駄」大正4年36歳)
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明治24年(1891)(12歳)6月
父久一郎文部省会計局長となり、一家は小石川の本邸に帰る。
9月
神田一ツ橋の高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)第2学年に編入学。
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この頃、
芝居好きな母親の影響で歌舞伎や邦楽に親しむ。
漢学者岩渓裳川から漢学を、画家岡不崩から日本画を、内閣書記官の岡三橋から書を学ぶ。
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明治26年(1893)(14歳)11月
父は、小石川区金富町の邸宅を売却し、一家は麹町区飯田町2丁目2番地(現:千代田区飯田橋1丁目と九段北3丁目の境辺り)の黐(もち)ノ木坂中途の借家に移転。
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明治27年(1894)(15歳)10月
麹町区1番町42番地(現、九段南2丁目)の借家に移転。岡守節に書を学ぶ。
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この年、病気により一時休学。療養中に『水滸伝』『八犬伝』『東海道中膝栗毛』などの伝奇小説や江戸戯作文学に読み耽る。
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「もしこの事がなかったら、わたくしは今日のように、老に至るまで閑文字を弄ぶが如き遊惰の身とはならず、一家の主人ともなり親ともなって、人間並の一生涯を送ることができたのかもしれない。」(「十六、七」のころ」)
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年末
瘰癧(ルイレキ)の手術を受けるために下谷の帝国大学第二病院に入院し、お蓮という名の看護婦に想いを寄せる。その名から、「蓮」と「荷」がいずれも「はす」の同義語なので「荷風」という号を得る。
処女作「春の恨み」(破棄)
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明治28年(1895)(16歳)正月
流行性感冒で臥床(3月まで)。
4月
小田原市十字町の足柄病院に入院(7月まで)、逗子の別荘で静養。
9月
復学。
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1年留年し、「幾年間同じ級にいた友達とは一緒になれず、一つ下の級の生徒になったので、以前のように学業に興味を持つことが出来ない。・・・わたくしは一人運動場の片隅で丁度その頃覚え始めた漢詩や俳句を考えてばかりいるようになった。」(「十六、七のころ」より)
文学活動を始めるが、軟派と目されて後の元帥寺内寿一らに殴打される事件が起きている。
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明治29年(1896)(17歳)
荒木竹翁について尺八を稽古し、岩渓裳川について漢詩作法を学ぶ。後者の同門に井上精一(唖々)がいた。
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明治30年(1897)(18歳)2月
初めて吉原に遊ぶ。
3月
中学校を卒業。
父久一郎官を辞し、日本郵船会社に入社、上海支店長として赴任。
7月
第一高等学校入学試験に失敗。
9月
11月まで両親、弟たちと一緒に上海で生活。
11月
帰国して神田一ツ橋の高等商業学校(現一橋大学)附属外国語学校清語科に臨時入学。
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明治31年(1898)(19歳)
この年、旅行記『上海紀行』を発表(現存する荷風の処女作とされる)。
この年から習作を雑誌に発表。
9月
「簾の月」という作品を携え、広津柳浪に入門。
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明治32年(1899)(20歳)1月
落語家6代目朝寝坊むらくの弟子となり、三遊亭夢之助の名で席亭に出入りする。
秋
九段下の富士本亭で自家に出入りの車夫に発見され、寄席出入りが父の知るところとなり禁足を命じられる。落語家修行を断念。
「万朝報」の懸賞小説に応募入選し、10月には広津柳浪と合作名義で「薄衣」が「文芸倶楽部」に掲載される。
初冬
清の留学生羅臥雲(蘇山人)の紹介で巌谷小波の木曜会に入る。
12月
欠席が過ぎて外国語学校を第2学年のまま除籍となる。
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明治33年(1900)(21歳)1月
『烟鬼』が懸賞小説番外当選作として「新小説」に掲載。
2月
父久一郎日本郵船会社横浜支店長になる。
4月
『闇の夜』を懸賞当選作として「新小説」に掲載。
6月
榎本破笠の手引きで歌舞伎座の立作者福地桜痴の門に入り作者見習いとして拍子木を入れる勉強を始める。
下半期にも「文芸倶楽部」「活文壇」に小説を掲載。
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明治34年(1901)(22歳)4月
「日出国(ヤマト)新聞」朱筆に転じた福地桜痴とともに入社、雑報記者となる。
9月
社内の内紛により同社を解雇される。
暁星学校の夜学でフランス語を習い始め、ゾラの『大地』ほかの英訳を読んで傾倒
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明治35年(1902)(23歳)4月
木曜会員赤木巴由らが始めた美育社から「野心」を「新青年小説叢書」の一巻として出版。
5月26日
父が牛込区大久保余丁町79番地(現・新宿区余丁町)に土地家屋を購入、家族とともに転居。来青閣と称する。
6月
『闇の叫び』を「新小説」に発表。
この頃、「饒舌」に3回ゾラの紹介を掲載。
9月
懸賞に応募して選外になっていた『地獄の花』(金港堂)を刊行、75円を得る。ゾライズムの作風を深める。森鴎外に絶賛され、彼の出世作となる。
10月
『新任知事』(「文芸界」)は、叔父の福井県知事阪本釤之助をモデルとし、これがもとで阪本は荷風を絶縁。
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【つづく】
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「★荷風インデックス」をご参照下さい
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