天文12(1543)年 [信長10歳]
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この年
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・北条氏康、古河公方家の重鎮簗田高助に起請文を提出。山内上杉家との戦いを前に、古河公方家に二心のないことを示す。
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・この年、唐船17隻が日向に来航。
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・ソルボンヌ(パリ大学神学部)、ラブレーの「第一の書」「第二の書」を禁書とする
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・ギョーム・ポステル、「コーラン研究、マホメット教典及び福音主義合致論」出版。マホメット教と新教の母体である福音主義運動の類似点を説き、新教を攻撃。
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1月2日
・木下弥右衛門(秀吉の実父)、没。母なかは、竹阿弥と再婚(「太閤素生記」)。
この頃、秀吉(7)、養父と不仲で光明寺に預けられる(「太閤記」)。しかし、寺を追い出され、土豪の下人となるが、主人に勧められ商人に仕える(「イエスズ会日本年報」)。
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1月3日
・武田館が類焼。晴信ら駒井政武邸へ移る。
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1月6日
・本願寺顕如、摂津に誕生。(1月7日説もあり)。
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1月13日
・絵師狩野永徳、京都に誕生。
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1月19日
・武田晴清の妹禰々(諏訪頼重の妻)、自害。
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1月末
・スコットランド摂政2代アンガス伯ジェイムズ・ハミルトン(親イングランド派貴族筆頭)、親フランス派枢機卿ビートンを監禁、議会から「王国内で第2の地位に立つ者」の称号を贈られる。
また、ヘンリ8世は息子エドワード(後の6世。メアリー・スチュワートより5歳上)とスコットランド女王メアリー・スチュワートとの結婚話を持ち出す。
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2月11日
・大内義隆、本営を経羅木山に移動。
また、この日、月山富田城の菅谷付近では、大内連合軍の益田藤兼(15)・平賀隆家・吉川興経が、尼子誠久(さねひさ)2千と激突。
益田・平賀・吉川軍の敗走寸前、吉川別働隊が尼子誠久軍側面を急襲し、敗北を免れる。
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石見では、益田藤兼・吉見正頼・福屋正兼(隆兼の父)・佐波興連(隆秀の父)が大内方につくが、他の豪族は全て尼子家へ寝返る。
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2月14日
・織田信秀(尾張下四郡織田大和守家の清洲3家老の1人)、家老平手政秀を名代として上洛させ、朝廷に禁裏築地修理料として4千貫を献上。1件金額としては朝廷に納入された中で最大。
また、信秀は先に伊勢外宮仮殿造替費も負担。財力は東国大名中抜きん出る。翌年11月6日、信秀宛の女房奉書は連歌師宗牧が届ける。
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大坂を訪れた平手政秀に応対した本願寺は、彼を評して「悪党と云、於尾州走回、対門徒、一段悪勢者」(「石山本願寺(証如上人)日記」5月17日条)と記し、「一段大酒」と付け加える。
この平手来訪のあとさき、美濃福勝寺(6日条) 尾張聖徳寺(23日条)が「当番」として相次いで本願寺に馳参じていたが、この酷評ぶりは織田信秀と尾張一向衆の対立激化が本願寺にとっても、容易ならぬ事態としてうけとめられていたことを示す。
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この頃の東海一向衆の状況。
一向宗寺院・道場の概数は、尾張では、海東郡45・愛知郡31ヶ寺をはじめ総数310ヶ寺以上。
美濃では、67ヶ寺の郡上郡、50ヶ寺以上の養老・本巣・不破の各郡、30ヶ寺以上の揖斐・安八の両郡など総数約400ヶ寺。
伊勢では、30ヶ寺以上の員弁・桑名両郡など総数約80ヶ寺。
これらが、主に河川流域に沿って、とりわけ蓮如~証如期(文明~天文年間、15世紀中葉~16世紀中葉の約1世紀)に集中的に設立。
少なくとも600ヶ寺以上の一向宗の末寺・道場が、本願寺の地方監視機関ともいうぺき一家衆寺院、尾張・伊勢境いの長島願証寺、西三河の土呂本宗寺などの統制下にある。
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3月14日
・毛利元就父子、富田城菅谷口に進出。蓮池縄手で尼子軍と交戦、撃破。以後、富田城付近で両軍数次交戦。
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4月24日
・伊予、河野晴通、病没。弟の通宣が家督相続。弾正少弼河野通直が後見。やがて、通宣と通直は対立、河野氏没落の一因。
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河野通直(弾正少弼)は嗣子がなく、女婿の来島通康に家督を譲ろうとする(通康は来島村上氏当主)。
しかし、河野家譜代家臣達は来島氏の台頭を恐れて反発。予州家通政(後、晴通と改名)を後継者に推し、居城・湯築城を攻撃。通直は通康とともに来島に逃れる。
その後和議がなり、湯築城に戻り、通直は家臣たちが推す晴通に家督を譲る。
これは、来島氏が河野氏から離反する契機にもなる。
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4月24日
・清原枝賢、北国見物を兼ね一乗谷に滞在する祖父宣賢を訪ね(「天文十二年記」)。この日、一乗谷着。
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この日一乗谷に着き、宣賢の供をして新造の朝倉館で当主孝景に見参、5月、府中祭(武生の総社の祭礼)を見物。興隆寺に宿をとる。祭りは雨のため11日に延引、「山」3基が引き回され、夜は神輿の渡御。
一乗谷に帰ると、孝景から小姓衆8人に「論語」「六韜三略」を教えるよう求められ迷惑がっていた祖父宣賢の為に、枝賢は手伝って半分以上も読み聞かせる。他に「毛詩」(「詩経」)を教わる小姓衆もいる。
宣賢の2男で神道家の吉田兼右も数回一乗谷に下向、孝景やその家臣・神官らに神道の秘事を伝え、天文14年下向のときにも孝景に神道伝授し(「天文十四年記」)、のち義景にも秘法を授ける。
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清原宣賢は、享禄2年、孝景の所望で来訪して以降4回下向、天文19年7月一乗谷で没(76)。
この間、「日本書紀」神代巻をはじめ中国の史書「蒙求」、儒書「中庸章句」「古文孝経」「大学章句」「孟子趙注」「孟子抄」などを一乗谷の私宅や寺院で講義。「孟子」講釈は「孟子抄」新注によるところが多く、一乗谷に新風を吹き込む。
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4月末
・大内軍の三沢・三刀屋・本城・吉川興経ら、尼子方に降り富田城に入る。
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5月
・武田信玄、上原城を修築し、板垣信方を城代として入れ、実質的な諏訪領支配が始まる。
しかし信方は、天文17年2月の上田原合戦で戦死。城代はその後、長坂光堅・吉田信生らが継承するが、実態は、彼らを補佐する上社神長官の守矢頼真の実権が強まり、以後の諏訪領支配で大きな役割を果たしてゆく。
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5月
・皇帝カール5世、バルセロナを出航(ドーリア艦長)、長駆してフランドルに向う。スペイン→ジェノヴァ→ブレンナー峠→インスブルック→ライン河→ブルゴーニュ南部デューレン。
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・皇帝カール5世、兵4万でデューレン要塞を陥落。次に、フランドル入り、ヘンネガウ州ラントルシーを包囲。ヘンリ8世派遣のジョン・ワロップ卿麾下イングランド兵6千が合流し、皇帝軍は5万。
皇帝カール5世とフランソワ1世、ヘンネガウからルクセンブルクの戦場で対峙。両軍、激戦に至らず一進一退。
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5月7日
・大内軍撤退。
大内義隆、尼子晴久の出雲冨田城を攻めるが敗れる。
毛利元就、殿陣で石見路より退く。途中、尼子軍の猛追にあうが無事吉田に帰陣。渡辺通、元就親子の危機を救う。8日、小早川正平、鴟巣川(出雲林木)で追撃兵と交戦、自刃。
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5月23日
・ニュルンベルク、ポーランドのニコラウス・コペルニクス(70)、「地動説」発表。「天球の回転について(6巻)」出版。24日、没
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ポーランド、トルンで商人の子として誕生。クラクフ大学で数学、イタリアで医学と教会法、ボローニャ大学で天文学を学ぶ。アリスタルコスの太陽中心説を知り、観測の結果、プトレマイオスの天体図・天動説に疑問を持つ。
帰国後、フロムボルクの聖堂参事会員、聖職・医療・研究を三分して夜は専ら観測に充てる。ポーランドでは、ドイツ騎士団の侵略に対して反抗を指揮。
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6月4日
・毛利元就、米山城主天野興定と誓書を交す。ついで椋梨に侵入した尼子方神辺城(神辺町)主山名理興の兵と戦い、撃退。
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6月22日
・ヘンリー8世、神聖ローマ皇帝軍と共同してフランドルへ出撃
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6月27日
・武田信虎、京を歴遊。
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7月
・スコットランド・イングランド間にグリニッジ条約締結。メアリー・スチュワートとエドワード(後、6世)婚約。
ヘンリ8世はスコットランド併合の野心をもつ。
条約締結直後、摂政2代アンガス伯に監禁されていた親フランス派筆頭枢機卿ビートンの勢力が反撃。2代アンガス伯は親フランス派に乗り換え、引続き摂政に留まる。12月、枢機卿ビートンとアンガス伯はグリニッジ条約を破棄、メアリとエドワードの婚約を取り消し、続いて起る親イングランド派蜂起を鎮圧。
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7月2日
・山科言経、山城に誕生。
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7月12日
・英、ヘンリ8世、サー・トマス・パー娘キャサリン・パーと6度目(最後)の結婚。里子に出されていたメアリーとエリザベスを呼び戻してプリンセスとして教育。
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7月21日
・細川氏綱、摂津槙尾城により細川晴元に反抗。晴元は摂津芥川城に出陣。25日、氏綱は堺を攻撃。細川晴元命で出陣した三好長慶に押され、細川氏綱は退却、遊佐長教・畠山稙長らと連絡をとり、態勢を立て直して河内から大和に入る。
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8月
・フランス軍、オスマン・トルコ艦隊の援助を得てサヴォイ公国ニースに上陸、ニース占領。トルコ・スレイマン大帝、バルバロッサをマルセイユに派遣、フランス軍に合流。
しかし、ミラノからの援軍も加わり、皇帝軍はトルコ・フランス軍を退却させる。
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8月
・スペイン、カルロス1世、「インディアス新法」を公布。エンコミエンダの新設と世襲を禁止。
この新法はメキシコやペルーのエンコメンデロを刺激し、スペインのアメリカ植民地に大きな動揺を起こす。
ペルーには「新法」を布告するためと、スペイン人コンキスタドール同士の内紛を収拾しアウディエンシア統治(最高司法行政機関)を実施するため、副王べラが派遣。
ゴンサロ・ピサロが「新法」に反対するエンコメンデロの先頭に立って抵抗。
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8月25日
・鉄砲伝来。
種子島に漂着した明国海賊王直の船に乗っていたポルトガル人が火縄銃を伝える
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酉刻(午後6時)、種子島の西村(にしのむら)の小浦に、一般の「大船」が漂着。西村の主宰(地頭か)の種子島家家老西村時弘の子時貫は、船客の五峰という明国の儒生と、海岸の砂の上に文字を書いて筆談を始め、「京子(種子島氏)世々居る所の地」へ曳航することにする。
27日巳刻(午前10時)赤尾木(西之表市)着。領主種子島時堯(16)と父恵時は、五峰らと対談。
西南蛮種(ポルトガル人)の賈胡の長の牟良叔舎と喜利志多陀孟太が、いつも手に「一物」を持っており、時堯は、これに注目し、その威力に驚く。
早速その使用法を学び、9月9日の佳節を選び2挺の鉄砲を200両で購入し、その試射会を挙行。
鉄砲は、「故郷」と「腰差」と名付けられ、「故郷」は維新後まで伝えられていたという。
また、時堯は、小姓の篠川小四郎秀重に「妙薬」調合法を学ばせる。篠川は研究を重ね、火薬の製造に成功、試射も自由に行なえるようになる。この調合法は、後に銃とともに、紀州根来寺杉坊の津田監物に伝えられたと、「鉄炮記」は述べる。
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時堯は、種子島は砂鉄を産出し精錬技術も進んでいるので、種子島の鉄匠(鍛冶)数人に、鉄炮の外見を熟視させて、鉄炮を作らせようとするが、筒の底を塞ぐ方法がどうしても分らない。
翌1544(天文13)年春、ポルトガル商人が、種子島の熊野浦に再来航し、その中に鉄炮鍛冶職人がおり、時堯は、刀工の八板金兵衛清定に筒の底を塞ぐ方法を学ばせる。清定は、1年余りで「その巻いてこれを蔵むること」を知り、数十の鉄炮製造が可能となる。
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「隅州の南に一嶋あり。州を去ること一十八里、名づけて種子と日う。我が祖世々焉に居す。古来相伝う、島を種子と名づくるは、此の島小なりと雖も、其の居民庶くして且つ富み、譬えば播種に一種子を下して生々に窮り無きが如し、この故に名づくと。
是より先、天文癸卯秋八月二十五丁酉、我が西村の小浦に一大船有り。何れの国より来るかを知らず、船客百余人、其の形類せず、其の語通ぜず、見る者以て奇怪となす。
其の中に大明の儒生一人あり、五峰と名づくる者なり、今その姓字を詳にせず。時に西村の主宰に織部丞なる者あり、頗る文字を解す。偶五峰にあい、杖を以て沙上に書して云く、『船中の客、何れの国の人なるやを知らず、何ぞ其の形の異なるや』と。
五峯即ち書して云く、『此れはこれ西南蛮種の賈胡あり、粗君臣の義を知ると雖も、未だそお礼貌の其の中に在るを知らず、これ故に其の飲するや杯飲して杯せず、其の食するや手食して箸せず、徒に嗜欲の其の情に□うを知り、文字の其の理に通うを知らざる也、所謂賈胡は一処に到りて轍つ止むとは、これ其の種なり、其の有る所を以て其の無き所に易えんのみ、怪しむべき者には非ず』と。・・・
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・・・賈胡の長二人有り、一を牟良叔舎と日い、一を喜利志多佗太と日う。手に一物を携う。長さ二、三尺。其の体たるや、中通り外は直く、しかも重きを以て質となす。其の中常に通ると雖も、其の底密塞を要す。其の傍に一穴有り、火を通すの路なり。形象物の比倫すべきなきなり。其の用たるや、妙薬を其の中に入れ、添ふるに小団鉛を以てす。先ず一小白を岸畔に置き、親ら一物を手にして其の身を修め、其の目を眇にして、其の一穴より火を放てば、則ち立ち所に中らざるはなし。其発するや掣電光の如く、其鳴るや驚雷の轟の如く、聞く者其耳を掩わざるはなし。
・・・時尭其の価の高くして及び難きを言はずして、蛮種の二鉄炮を求め、以て家珍となす。」(「鉄炮記」)。
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「鉄炮記」:
1606(慶長11)年、鉄炮伝来の63年後に、種子島久時が、父時堯の功業を顕彰する為、鹿児島の日蓮宗の大竜寺の僧の南浦文之(玄昌とも)に筆録させたもの。
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「鉄炮記」の述べる鉄砲の伝播。
①紀州根来寺の杉坊の津田堅物。時堯は、2挺のうちの1挺を、来島していた津田監物に与える。
津田流砲術の「伝書」によると、監物は、河内国交野郡津田城主の津田周防守正信の長男で、名を算長といい、紀州小倉荘を領し、弟は根来寺の杉坊明算という。監物は天文13年3月紀州に帰り、鉄炮・火薬の製法を弟の杉坊明算に伝授。明算は、根来寺の門前町の西坂本に住む、堺出身の鍛冶職人の芝辻清右衛門にこれを製作させたという。
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②和泉堺の商人橘屋又三郎。種子島への鉄炮伝来を聞いた又三郎は来島し、八板清定から製法を学んで帰り、堺の鉄炮生産を開始、「鉄炮又」と云われるようになったという。
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③「われ嘗てこれを故老に聞く」と述べる鉄炮の関東伝播の話。天文12~13年の間に、遣明船3艘が、商客千人、船人数百人を乗せて、種子島に寄港。第1船は暴風雨で沈没、第2船は寧波に着くが、第3船は種子島に戻される。翌年再び南遊に出て、目的を達し、「海貸・蛮珍を飽載して」帰国途上、暴風雨にあい伊豆に漂着。その船中に、種子島家家臣松下五郎三郎というものがおり、彼が鉄炮を関東に伝えたという。
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近代、ヨーロッパの史料が紹介されるようになって、「鉄炮記」の1543(天文12)年説は批判される。
アントニオ・ガルグァン「世界発見記」・ロドリゲス「日本教会史」・フェルナン・メンデス・ピント「巡国記」などの諸史料によって、種子島へのポルトガル人の来航と鉄飽伝来が、1542(天文11)年であると主張されるようになる。
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1543(天文12)年8月鉄炮が伝わると、種子島時堯は、家臣篠川に火薬製造を、刀工の八板に鉄炮製造を命じ、それらはこの年の内に完成。
12月、時堯は島津義久に種子島銃を贈り、島津宇治はそのうち5挺を、翌44(天文1)年正月に将軍義晴に献上。
義晴は、2月、管領細川晴元に、近江坂田郡国友村(長浜市)の4人の鍛冶に、この種子島銃を示して、その試作を命させる。
8月12日、玉日6匁の鉄炮2挺が、国友村で完成、将軍に献上される(「国友鉄砲記」)。
この頃根来でも、種子島から帰った津田監物が、時堯から与えられた1挺を、杉坊明算に与え、明算は、堺出身の鍛冶芝辻に種子島銃を試作させる。
火薬と種子島銃の製造は、種子島・根来・国友・堺で、天文13年には開始されていたと考えられる。
極めて迅速な技術移入。その前提には、八板や芝辻や榎並などの刀鍛冶職人の存在と、その技術がある。
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8月26日
・大館晴光、大友義鑑へ足利義晴御内書による「肥後国守護職」補任の旨を通達。
大友家は、大内氏との対抗(35年一時講和・婚姻)の中で、この年義鑑が肥後守護となり、豊後・筑後3守護を兼ねる。外には豊前佐田・肥後相良の諸氏を服属させ、内は段銭賦課と検地(46年)を行い、諱字下賜などにより主従制を強化するが、家臣団は方角衆と呼ばれる国人=在地領主の連合組織を基盤し、大友権力は制約される。
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8月27日
・松平広忠(家康の父、三河岡崎城主)、松平信孝の三河三木城を攻略。信孝、織田方へ走る
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9月
・刈谷城の水野信元、今川義元に背き織田信秀に内通。松平広忠は妻の水野氏(家康の母)を離別。
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9月19日
・信玄の佐久郡から小県郡への侵攻。
武田晴信、信濃小県郡長窪(長和町)出兵。長窪城主(大井貞隆)攻略、貞隆を捕縛し甲府に送る。20日、佐久郡望月郷の望月一族を成敗。芦田城(立科町)芦田信守は武田氏に帰属。
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秋
・越中大乱。
神保長職は神通川を越えて新川郡に進出、富山城を築城。その結果、神保家は新川郡を支配する椎名長常と抗争となる。この争いに周辺の豪族たちも巻き込まれ、越中の武士たちは神保・椎名の下に分かれ、越中を二分する大抗争へと発展。
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11月5日
・連歌師宗牧、勅使代理として尾張那古屋城下に織田信秀に女房奉書を手渡す。
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11月14日
・美濃の土岐頼芸、「彼国門下衆年貢不納」(「石山本願寺(証如上人)日記」14日条)を本願寺に愁訴。
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12月
・備前守護職赤松晴政、東備前に侵入。備前守護代浦上宗景が応戦。宇喜多八郎(直家、能家の孫)の初陣。
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