2009年9月5日土曜日

治承4(1180)年5月15日 「信連合戦」。 長谷部信連、奮戦す(その2) 

治承4(1180)年5月15日
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前回(その1)でこの日の信連の奮戦ぶりを、「吾妻鏡」「玉葉」「愚管抄」「山槐記」にみてきましたが、今回(その2)では「平家物語」巻四「信連(合戦)」にみてゆきます。
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[概要]
15日夜、以仁王の許に、頼政から事の露見を伝え、三井寺へ逃れるよう促がす急使が来る。
宮に仕える左兵衛尉長谷部信連は機転を利かし、女装させて御所から送り出す。
残った信連は宮が日頃大切にしている笛を見つけ、追いかけて差し出すと、宮は死んだら棺に入れよと命じる。
信連は、そのまま供をするよう要請されるが、自分は武人としてそれなりに知られた人物である、逃げた噂になっては名に傷がつく、と引き返し、装束の下に鎧を着込み、儀式用の太刀を腰に帯び、門を開いて待ち受ける。
追討勢は検非違使判官2人が率いる300余騎、頼政の息子は門前遠く控えているが、もう1人は馬に乗り門内にうち入り、声高に宮の出頭を求める。
信連が広縁に立って留守と答えると、下部に捜索を命ずる。
それを聞いた信連は、相手の無礼をなじり、自ら名乗りを上げる。
14~15人が緑に飛び上がるや、装束を脱ぎ捨て応戦、散々に敵を圧倒するが、最後は長刀で股を刺され生け捕られる。
宗盛の尋問には、盗賊と思って切ったまでと白を切り、太刀がよければ1人も無傷で帰しはしなかったと豪語、宮の居場所も知らぬと黙秘。
その武勇に免じ、死刑ではなく伯耆の国へ流罪となるが、後には許されて頼朝から領地を与えられる。
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「さる程に、宮は五月十五夜(サツキジュウゴヤ)の雲間の月を詠(ナガ)めさせ給ひて、何の行方も思(オボ)し召し寄らざりけるに、三位入道の使者とて、文持ちて忙しげに出で来る。宮の御乳母子(メノトゴ)、六条亮大夫宗信(ロクデウノスケノタイフムネノブ)、これを取って、御前(ゴゼン)へ参り開いて見るに、
「君の御謀叛既に顕(アラハ)れさせ給ひて、土佐の畑へ遷(ウツ)し参らすべしとて、官人(クワンニン)どもが、別当宣を承(ウケタマハ)つて、御迎ひに参り候。急ぎ御所を出でさせ給ひて、三井寺へ人(イ)らせおはしませ。入道もやがて参り候はん」
とぞ書かれたる。
宮は此の事如何せんと、思(オボ)し召し煩はせ給ふ所に、宮の侍(サブラヒ)に長兵衛尉(チヤウヒヤウエノジヨウ)長谷部信連(ハセベノノブツラ)と云ふ者あり。折節御前近う候ひけるが、進み出て申しけるは、
「只何の様も候ふまじ。女房装束に出で立たせ給ひて、落ちさせ給ふべうもや候らん」
と申しければ、
「此の儀尤も然るべし」
とて、御髪を乱り、重ねたる御衣に、市女笠(イチメガサ)をぞ召されける。六条亮大夫宗信、傘(カラカサ)持ちて御供仕る。鶴丸といふ童、袋に物入れて戴いたり。たとへば、青侍(セイシ)が女(ジョ)を迎へて行く様に出で立たせ給ひて、高倉を北へ落ちさせ給ふに、大なる溝のありけるを、いと物軽う越えさせ給へば、道行き人が立ち留って、
「はしたなの、女房の溝の越え様(ヤウ)や」
とて、怪しげに見参らせければ、いとど足早にぞ過ぎさせおはします。」
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[説明]
○「乳母子」:
皇子・皇女が誕生すると御乳付(オチツキ)と云う初めて乳を含ませる者を定めたが、それがやがて乳母(メノト)となり、幼君を養育する任に当たる。
その乳母の子を「乳母子」と云い、幼君と共に育てられる為、乳兄弟とも云う。幼君にとって最も身近な存在で、幼時は親しい遊び仲間、長じては心を許せる腹心の従者として、生涯にわたり親近的な関係を維持し続ける。
宗信は、以仁王の生母成子のまたいとこで、遠縁ではあるが宮の家系に繋がる人物で、曾祖父の顕季(アキスエ)の邸が六条の南、東洞院の東にあり六条家と呼ばれていたことから「六条」を称し、五位で中宮職次官のにあり「六条の亮大夫」と呼ばれる。
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○「土佐の畑」」:「畑」はあて字で、正しくは「幡多」。四万十川河口の土佐湾に面する地帯で、古く遠流の地として知られる。
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○「何の様も候ふまじ」:「様」は施すべき方法、とるべき手段。「とりわけ格別な手立ても必要ではありますまい」の意。
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○「市女笠」:元来は市に出て物を売る女性が被っていた笠で、のち一般女性の外出用にも用いられるようになったもの。菅などで編んだつばの広い塗り笠で、中高に深くつくられている。この場合、青侍(若い侍)が女性を誘い出してどこかに出かける様子を装う。
大きな溝を飛び越えるシーンはうまい描写。
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「御所の御留守には、長兵衛尉長谷部信連をぞ置かれける。女房たちの少々おはしけるをば、かしここゝ立忍ばせて、見苦しき物あらば、取認(トリシタタメ)めんとて見る程に、さしもの宮の御秘蔵ありける小枝と聞こえし御笛を、常の御所の御枕に、取忘れさせ給ひたるをぞ、立帰っても取らまほしうや思し召されけん。信連、これを見附けて、
「あなあさまし、さしも君の御秘蔵の御笛を」
と申して、今五町が内にて追つ着いて参らせたり。
宮斜(ナナメ)ならず御感あって、
「我れ死なば、此の笛をば、御棺に入れよ」
と仰せける。
「やがて御供仕れ」
と仰せければ、信連申しけるは、
「只今あの御所へ、官人(クワンニン)どもが御迎に参り候ふなるに、人一人も候(サフラ)はざらんには、無下に口惜しく存じ候。其の上、あの御所に信連が候ふと申す事をば、上下皆知ったる事でこそ候へ。今夜候はざらんには、それも其の夜は逃げたりなど云はれん事、口惜しう候ふべし。弓箭(ユミヤ)取る身は、仮にも名こそ惜しう候へ。官人どもに暫くあひしらひ、一方打破つて、やがて参り候はん」
とて、只一人取って返す。」
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「信連が其の夜の装束には、薄青の狩衣の下に、萌黄匂(モヨギニホヒ)の腹巻を着て、衛府(エフ)の太刀をぞ帯(ハ)いたりける。三条表の総門をも、高倉表の小門をも、共に開いて待ちかけたり。
案の如く、源大夫判官兼綱(ゲンタイフノハウグワンカネツナ)・出羽判官光長、都合其の勢三百余騎、十五日の子の刻に、宮の御所へぞ押し寄せたる。源大夫判官は、存ずる旨ありと覚えて、遥(ハルカ)の門外に控へたり。出羽判官光長は、乗りながら門の内へ打入れ、庭に控へ、大音声を揚げて、
「宮の御謀叛既に露(アラハ)れさせ給ひて、土佐の畑へ移し参らせんが為に、宮人どもが別当宣(ベットウセン)を承つて、只今御迎ひに参りて候。とうとう御出で候へ」
と申しければ、信連大床(オホユカ)に立って、
「当時は御所でも候はず。御物詣(オンモノマウ)で候ふぞ。何事ぞ、事の子細を申されよ」
と云ひければ、出羽判官、
「何でふ、此の御所ならでは、何くへか渡らせ給ふべかんなるぞ。其の儀ならば、下部(シモベ)ども、参て捜し奉れ」
とぞ申しける。
信連重ねて、
「物も覚えぬ官人どもが申し様かな。馬に乗りながら門の内へ参るだにも、奇怪なるに、剰(アマツサ)へ下部ども参つて捜し奉れとは、いかでか申すぞ。長兵衛尉長谷部信連が候ふぞ。近う寄つて過(アヤマチ)すな」
とぞ云ひける。」
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[説明]
○「腹巻」:腹に巻いて胴を覆う簡略な鎧。小型で、胴の前面に弦走(ツルバシ)りの革を貼らず、右脇を覆う脇楯(ワキダテ)がなく、腹面を巻き右脇に重ねめの引き合わせがあり、草摺(クサズリ)を細分化して徒歩での打物の戦いに適応し易いように作られている。郎等・悪僧など下級武士が着用したが、のち武将級の上級武士も、これに袖を付けて着るようになる。
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○「衛府の太刀」:武官である六衛府 (左右の近衛・兵衛・衛門)の役人が佩く太刀。信連は兵衛尉。
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○源大夫判官兼綱:源三位頼政の次男。この時点では、頼政が反乱の張本人であることは知られておらず、この逮捕劇に加わっている。
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○出羽判官光長:美濃源氏の一族で出羽前司光信の子。前の「源氏揃」に美濃源氏の一族で出羽前司光信の子としてその名が示される。
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○「判官」:長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の4部官(4等官)の3番目で、神祇官以下諸省・諸職(シキ)・諸寮・国衙などに置かれ、書類審査や役所内の糾判にあたる。
一般的にはその役所の名を冠し、「中務の判官」などと呼ぶが、ただ「判官」と言うと検非違使の判官を称す。左右の衛門尉が兼担するのが通例。
判官(尉)には大小2階級があり、大尉は法律家の坂上・中原2氏が任じられ、少尉に源平以下の武士が登用される。検非違使尉の本官である衛門尉(エモンノジョウ)は六位相当官で、五位に昇進した場合、これを大夫尉(タイフノジョウ)とも大夫判官(タイフノホウガン)とも呼ぶ。
光長・兼綱は左衛門尉で、衛門尉として検非違使尉を兼ねており、兼綱は従五位下である為、「大夫判官」と名乗る。
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③信連の奮戦
「庁の下部の中に、金武と云ふ大力の剛の者、打物の鞘を外し、信連に目をかけて、大床の上へ飛び上る。これを見て、同隷(ドウレイ)ども十四・五人ぞ続いたる。
信連、これを見て、狩衣の帯・紐引切って捨つる侭に、衛府の太刀なれども、身をば心得て作らせたるを抜合せて、さんざんにこそ振舞うたれ。敵(カタキ)は大太刀・大長刀で振舞へども、信連が衛府の太刀に切立てられて、嵐に木の静の散るやうに、庭へさっと下りたりける。五月十五夜の雲間の月の、顕れ出でて明かりけるに、敵は不案内なり、信連は案内者にてありければ、あそこの面廓(メンロウ)に追っかけてははたと切り、こゝの詰(ツマリ)に追つ詰めてはちゃうど切る。
「如何に、宣旨の御使をばかうはするぞ」
と云ひければ、
「宣旨とは何ぞ」
とて、太刀曲(ユガ)めば躍り退き、推し直し踏み直し、矢庭(ヤニワ)によき者ども十四・五人ぞ切伏せたる。
其の後太刀の鋒(キツサキ)三寸ばかり打折れて捨ててけり。腹を切らんと腰を捜せども、鞘巻落ちてなかりければ、力及ばず、大手を拡げて、高倉表の小門より跳り出でんとする所に、大長刀持ちたる男一人寄りあったり。信連長刀に乗らんと飛んでかかるが、乗り損じて、股を縫ひ様(ザマ)に貫かれ、心は猛く思ヘども、大勢の中に取り籠められて、生捕にこそせられけれ。」
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④堂々たる弁明
「前右大将宗盛卿、大床に立って信連を大庭に引居(ヒツス)ゑさせ、
「まことにわ男は、宣旨の御使と名のるを、『宣旨とは何ぞ』とて切つたりけるか。其の上、庁の下部ども、多く刃傷殺害したんなれば、よくよく糾問して、事の子細を尋ね間ひ、其の後河原に引出いて、首を刎ねよぞ宣(ノタマ)ひける。
信連元より勝れたる大剛の者なりければ、居直りあざ笑うて申しけるは、
「此の程あの御所を、夜な夜なものの窺(ウカガ)ひ候ふを、何でふ事のあるべきと思ひ慢(アナド)って、用心も仕(ツカマツ)らぬ処に、夜半ばかりに、鎧うたる者どもが、二三百騎打入って候ふを、『何者ぞ』と尋ねて候へば、『宣旨の御使』と申す。
当時は諸国の窃盗・強盗・山賊・海賊など申す奴ばらが、或は『公達の人らせ給ひたるぞ』、或は 『宣旨の御使』などと名のり申すと、かねがね承って候ふ程に、『宣旨とは何ぞ』とて切つたる候。
凡そ信連、物の具をも思ふ様に仕り、鉄(カネ)よき太刀を持つて候はんには、只今の官人どもをば、よも一人も安穏では帰し候はじ。其の上、宮の御在所は、何(イヅ)くに渡らせ給ひ候ふやらん、知り参らせぬ候。たとひ知り参らせて候ふとも、侍品(サブラヒホン)の者の、一度申さじと思ひ切りてん事を、糾問に及んで申すべき様なし」
とて、其の後は物も申さず。」(改行を施す)
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[説明]
○「わ男」の「わ」:目下の者を軽んじて言う接頭語。お前・貴様。その軽蔑的な呼びかけに、宗盛の尊大さが窺える。
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○「侍品の者」:「品(ホン)」は位階・等級・身分などを示す語で、「侍品」はさむらいとしての身分。
「侍」は、叙位任官し得る下級の有官位者としての家柄の者で、官位を持たない郎党や雑人(雑色・舎人・下部・力者等)などの「凡下」とは区別され、罪科に対しても拷問がなされず刑罰についても配慮がなされるなど、大きな特権を与えられている。
社会的身分としての「侍品」は、一般には六位以下の官位を有する者で、時として五位の大夫までを含む。摂関家などの家政機関に所属する侍、所衆(トコロノシュウ)、滝口、帯刀などとして活躍。
信連は兵衛尉であるが、兵衛府の大尉は従六位上、少尉は正七位上に相当するので「侍」であり、その「侍品」としての身分がら、一度言わないと言った事を、糾問されたからといって翻す事は出来ない、という。
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「幾らも竝(ナ)み居たりける平家の侍ども、
「あっぱれ剛の者や、これ等をこそ一人当千の兵(ツハモノ)ともいふぺけれ」
と、口々に申しければ、其の中に或人の申しけるは、
「あれが高名は今に始めぬ事ぞかし。先年所にありし時、大番衆の者どもの留めかねたりし強盗六人に、只一人追つかゝり、二条堀川なる所にて、四人切り伏せ、二人生捕って、其の時なされたりし左兵衛尉ぞかし。可惜男(アツタラヲノコ)の斬られんずる事の無漸(ムザン)さよ」
と、惜しみあへりければ、入道相国いかが思はれけん、
「さらば、な切(キ)つそ」
とて、伯耆の日野へぞ流されける。
平家滅び、源氏の世になって、東国へ下り、梶原平三景時について、事の根元一々(コンゲンイチイチ)に申したりければ、鎌倉殿神妙なりと感じ給ひて、能登国に御恩蒙(ゴオンカウブ)りけるとぞ聞えし。」
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信連の堂々とした弁明ぶりは、その場に居並ぶ平家の侍たちの心を捉える。侍たちの哀惜(アイセキ)の言葉を聞き、清盛は、どう思ったのか(「入道相国いかが思はれけん」)、「それなら斬るな」と言い伯耆の国の日野(鳥取県日野郡日野町)に流罪にする。
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信連のその後
平家滅亡後、許されて東国に下り、梶原景時の口添えで頼朝にその功を賞され、能登に所領(能登国鳳至(フゲシ)郡大屋庄の地頭職)を与えられる。
「源平盛衰記」では、文治2年(1186)、頼朝は「剛の者の胤を継がせん」と言って、由利小藤太重範の後家を信連に娶せ、自筆で下文を認め、「鈴の庄」と呼ばれる能登の大屋の庄を与える。
人々は、「治承の昔は平家に命を助けられ、文治の今は源氏に恩を蒙れり。武勇の名望有り難し」と囁きあったという。
この年7月、信連はこの地に入部し、庄内の穴水に居住したという。輪島市山岸町に彼の墓があり、穴水の長谷部神社はその霊を祀ると伝えられる。
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「吾妻鏡」(文治2年4月4日条)の記述。
「右兵衛尉長谷部信連は、三条宮の侍なり。宮、平家の讒(ザン)によって配流の官符を蒙りたまふの時、廷尉(テイフ)等御所に乱入するのところ、此の信連、防戦の大功あるの間、宮は三井寺に遁(ノガ)れしめたまひをはんぬ。しかるに今奉公を抽(ヌキ)んでんがために参向す。よって先日の武功に感じ、わざと御家人として召し仕ふの由、土肥二郎実平(時に西海にあり)が許に仰せ遣はさると云々。信連、国司より安芸国検非違所ならびに庄公をこれに給はりをはんぬ。見放つべからざるの由と云々」。
これによると、安芸国の検非違所に補せられ、荘園を与えられたとある。
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しかし、その後、能登に移ったらしく、晩年は出家し能登で没したという(72歳)。
「今日左兵衛尉長谷部信連法師、能登国大屋庄河原田に於て卆(シユツ)す。これもと故三条宮の侍にて、関東御家人に進みしなり。」(「吾妻鏡」建保6年(1218)10月27日条)。
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