明治17(1884)年11月1日~2日の官憲側の動き(2)
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④下吉田村戸長役場の戦い
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11月1日午前11時頃、石間村沢口の加藤織平宅に田代栄助が派遣した柴岡熊吉が、「警察官ハ下吉田村ノ戸島役場ニ於テ中食ヲ致シ居ルニ付至急出張セヨ」と伝える。
高岸善吉が「サー押シテ行クゾ」と声をかけ、加藤織平が「然ラバ是ヨリ一同下吉田ニ進メ」と下知し、一斉に押し出す。
加藤織平は、「シャッポヲ冠リ、其上ニ白ノ鉢巻ヲ為シ、大小二本ノ刀ヲ差シ、袴ヲ穿チ、立縞絹ノ羽織ヲ着シ、其傍ラノモノニ白木綿ノ旗ヲ持タセ、大ノ方ノ刀ヲ抜キ号令ヲ為シ、進マザレバ切ル杯卜申シ」、新井繁太郎は、「鉄砲ヲ携へ、差物ヲ壱本腰ニ挟ミ、白木綿ノ鉢巻ヲ為シ、袴ヲ穿チ、木綿ノ羽織ヲ着シ」といういでたち(「久保平徳松訊問調書」)。
農民兵約100人が上吉田村に向う様子は、午後1時頃、布里の神官田中千弥が吉田川越しに目撃する。
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下吉田村戸長役場に移った吉峰警部・坪山警部補らは、小鹿野分署(署長太田警部補=埼玉県士族27歳)に救援を依頼し、午後2時頃、太田分署長と巡査5名、小川分署長深滝警部補指揮の警官隊が、下吉田村戸長役場に到着。
ここで幹部らは協議の末、「我軍疲労ノ寡兵、且銃器ナケレバ、先ヅ賊ノ銃器ヲ避ケ、間道ヨリ大宮郷へ退キ、軍備ヲ整へ再ビ攻撃スベシ」(「大宮郷警察署長警部斉藤勤吉経歴書」)と決定する。
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一方の困民党軍は、織平を先頭に下吉田村往還を進み、下吉田村の手前で二手に分れ、一手は下吉田の北裏に、一手は戸長役場の南裏(八幡山)に向い、約300名で戸長役場を包囲挟撃する態勢をとる。
また、警官隊の退路を遮断するため高岸駅蔵(石間村、44歳)が24~25名を率い、椋神社のすぐ下にある「大日堂」の前に出て、清泉寺台門前に布陣する(「高岸駅蔵訊問調書」)。
戸長役場包囲の部署は、「上日野沢村門平惣平等ノ一隊ハ曲尺ノ手口ニ進ミ、下吉田村井上伝蔵、同村井上善作等ノ一隊ハ新田坂ヨリ進ミ、下吉田村飯塚森蔵等ノ一隊ハ八幡神社ノ境内ニ屯シ、男衾郡西ノ入村新井周三郎、上日野沢村祠掌宮川津盛、長野県南佐久郡北相木村菊池貫平、自余頭ダチタルノ一隊ハ下町ヨリ進ミ、兇徒四面ニ囲繞シ、猶邑衙ヲ砲発ス(田中千弥「秩父暴動雑録」)。
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午後3時頃、困民党は北裏の組が猟銃を撃ち、瓦石を投げ、戸長役場に肉迫。
この時、警官隊は小鹿野へ脱出のため、戸長役場裏の急な崖を登り始めたところで、崖上の八幡神社境内から銃火を浴びせられ、警官隊は戸長役場に押し戻される。
吉峰警部は、このままでは銃弾の犠牲になるだけと判断し、「切り抜け」を命令し抜刀して一斉に切り込む。
この勢いに包囲の困民党は道を開いてしまうが、後続の警官隊は殆どが東方に血路を開き、散りじリになって落ち伸びる(鎌田冲太「秩父暴動実記」、「松山警察署長警部吉峰清履歴書」)。
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警官隊負傷は4名。吉峰警部(松山警察署長)、斉藤警部(大宮郷警察署長)、太田警部補(小鹿野分署長)らは東方に斬り抜け、民家に潜伏後、夜を待って大宮郷を経て小川分署に、深滝警部補(小川分署長)、坪山警部補(大宮郷警察署詰)らは、夫々別の経路で皆野村に辿り着く。
尚、清泉寺前の戦いで負傷した大宮郷警察署の神沼芳生巡査(32)は、居残って役場の床下に潜伏し、夜になって役場の小使に変装して脱出、大宮郷警察署に辿り着くが、2日そこも困民軍が襲撃してきたので、一旦知人の家に隠れ、家人に助けられて皆野村に逃げのびる(「林警部の神沼芳生巡査からの聞取書」)。
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また、この時、困民軍は逃げ遅れた青木巡査と、秩父新道工事の県の役人(埼玉県土木課雇の千葉正規)を捕える。
逃げ遅れた青木巡査は、抜剣して抵抗すると、風布村宮下茂十郎(32)が投石、これが青木巡査の前額部に命中し、その場に倒れたところを捕縛される。茂十郎は栄助より青木巡査のサーベル佩用を許されるが、困民軍壊滅後はこの一件により重禁錮3年の刑を受けることになる。
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青木巡査は、4日、新井周三郎に斬り付け、殉職。千葉は、木戸為三のとりなしにより困民党の為の炊き出しをしていた役場筆生の肥土伊与吉に引渡され解放される。
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