天文15(1546)年 [信長13歳]
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この年
・織田信長(13)、元服。吉法師から織田三郎信長名乗る。これを契機に那古野城を譲られた可能性高い。「信長公記」には「長(おとな)」として林秀貞(通勝)・平手政秀・青山与三右衛門・内藤勝介4人が添えられたとある(但し、青山・内藤は「公記」の誤り)。
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「或時、備後守(信秀)、国中那古野へこさせられ、丈夫に御要害仰付けられ、嫡男織田吉法師殿(信長)に、一おとな林新五郎(秀貞)・二長(オトナ)平手中務丞(政秀)・三長青山与三右衛門・四長内藤勝介、是等を相添へ、御台所賄の事平手中務、御不弁限りなく、天王坊と申す寺へ御登山なされ、那古野の城吉法師殿へ御譲り侯て、熱田の並古渡と云ふ所新城拵(コシラエ)、備後守御居城なり」(「信長公記」巻首)
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□谷口克広「信長軍の司令官」(中公新書)の説明
那古野城譲渡の時期(「或時」):
天文13年(1544)11月、連歌師谷宗牧は京都から江戸への旅の途中、尾張で織田信秀に会うが、この時、信秀はまだ那古野城に居城している。また、宗牧は那古野の平手政秀邸で連歌会を開いている。
この事から、天文13年末時点では那古野城はまだ吉法師(信長)には譲渡されていないと推測できる。
「信長公記」では、信長の元服は13歳の時(天文15年)とされており、「推測にすぎないが、この元服を契機として那古野城を譲られたのかもしれない」(谷口さん著書)。
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林・平手・青山・内藤4家老について:
①「一おとな林新五郎(秀貞)」(筆頭家老林):
「通勝」として知られているが、「新五郎秀貞」(のち「佐渡守秀貞」)が正しい。春日井郡西春(愛知県西春日井郡西春町)辺りに勢力を持つ。分家から利家を出す前田家は林の与力の一つ。のち林は、信長に反抗するが赦され、引き続き家老の職を保つ。
②「二長平手中務丞(政秀)」:
裕福な国人、有力者。信長が家督を継いだ翌年、切腹。
③「三長青山与三右衛門」:
天文13年9月22日、信秀の稲葉山城を攻撃の際の戦死者のうちに、信秀の弟信康、熱田大官司千秋季光、「青山与三右衛門」の名がある。
④「四長内藤勝介」:赤塚の戦いの時の「御さき手(先手)あしがる衆」の中にその名が見えるだけで、家老としては疑わしい。
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・フランソワ1世、ピエール・レスコーにルーヴルの改装工事を委ねる。
フランソワ1世時代に招聘した芸術家:
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1519年アンボワーズ城で没)。アンドレア・デル・サルト。プリマティッチョ(イタリアの建築家・装飾家、1532年王室建築総監)。ロッソ。ベンヴェヌート・チェルリーニ。フィリベール・ド・ロルム(枢機卿デュ・ベレイがローマから招聘した建築)。ジャン・グージョン(彫刻家、作品「罪なき人々の泉」)。
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・この頃、ミシェル・セルヴェ、「キリスト教復位」の草稿をカルヴァンに送り、批判を求める。
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1月18日
・ペルー内乱。
植民者ゴンサロ・ピサロ、エクアドルのキトー(アニャキート)でペルー初代副王ブラスコ・ヌーニェス・ベラを破る。反乱軍に味方するエンコミエンダ所有者達が、パナマ~チリに至る南アメリカ大陸西側支配権を掌握。
スペイン人エンコメンデロ達はゴンサロ・ピサロをペルー総督に選び、ゴンサロは2年余に亘り、アンデス~西側地方の実質的支配者として君臨。
しかし、ゴンサロは行政的手腕に欠け、専制的かつ残忍、反対する者達を容赦なく処刑したため人心は離れてゆく。
彼は、フランシスコ・ピサロの異母弟、1531年ピサロに誘われて新世界ペルーに来る。1541年8月26日、兄フランシコがペルーのリマでアルマグロの残党に暗殺されたため、兄の築いた新大陸での財産を引き継ぐ。
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2月7日
・山科言継、烏丸光康、幕府右筆松田孫三郎らと「野遊び」に出向く(「言継卿記」同日条)。17日、東寺観智・妙観両院灌頂会に出かける(「同」2月17日条)。
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2月13日
・カルヴァンのギョーム・ファレル宛書簡。
「もしセルヴェにしてジュネーヴに潜入すれば、断じて生きてこの地を去らせまい。」
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2月18日
・マルティン・ルター(63)、故郷のアイスレーベンで没。
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2月28日
・黒滝城の戦い。
上杉家家臣黒田秀忠、再び黒滝城に篭り反乱。長尾景虎(17、謙信)、越後守護上杉定実の命令により黒滝城に出陣。3月24日、秀忠以下一族をことごとく切腹させる。これを契機に景虎を越後守護代にしようとする運動が起こる。
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3月
・スコットランド、枢機卿ビートンが、新教指導者ウィシュアートを逮捕・焚刑。
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3月14日
・武田晴信、村上義清の戸石城を攻め信濃上野原で戦うが敗れる。
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3月15日
・山科言継、親王(後の正親町天皇)の供奉をして鞍馬に巡拝。他の公卿とともに歩行で通す。先に貴船社に参詣し、僧正ヶ谷の難所を越して鞍馬寺入り。折しも全山桜の真っ盛り。
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3月25日
・北条氏康、武蔵河越城の北条綱成救援に向け小田原城を進発。
月末、武蔵三ツ木に布陣(日付は4/1とも)。北条氏康は上杉・足利連合軍に使者を送り、嘆願(謀略)。連合軍は、氏康の嘆願を拒否。
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4月20日
'・河越夜戦。
武蔵河越城の北条綱成救援に向かった北条氏康8千、山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏連合軍8万5千に夜襲をかけ撃破。
扇谷上杉朝定(22)、戦死。扇谷上杉家は滅亡。山内上杉憲政も小野因幡守・倉賀野三河守行政(倉賀野為広父)・難波田弾正等の勇将を多数失い、上野平井城へ逃げ帰る。晴氏は古河に奔る。上杉家麾下の諸将が北条氏に走るようになる。
北条氏康の武蔵支配確立。日本三大夜戦の1つ。
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滝山城主大石定久(三男・氏照が養子)、天神山城主藤田邦房(四男・氏邦が婿養子)、松山城主上田朝直、忍城主成田長泰、深谷城主上杉憲賢らが北条氏康に帰属。翌16(1547)年1月18日岩付城太田資正も北条氏に下る。資正の子氏資に娘・長林院を嫁がせる。
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5月
・スコットランド、新教指導者ウィシュアート処刑の報復として、セントアンドリューズのピートン大司教、殺害。新教徒はセントアンドリューズ城に篭城。アンガス伯(新教徒)は実効策打てず。
セント・アンドリュース城には、後にスコットランドの新教会「長老教会」を創設する改革者ジョン・ノックス等も駆け付け、プロテスタント拠点として本格的説法開始。女王メアリーはフランスに援軍を求める。
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5月3日
・武田晴信5千、佐久出陣。6日、前山城着。9日、佐久郡内山城(大井貞隆の子貞清)包囲。19日、開城。大井貞清、野沢へ逃げる。7月18日、晴信、部将上原伊賀守昌辰(のちの小山田備中守)を内山城代とし、佐久郡から西上野口への通路を確保。
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6月6日
・シュマルカルデン同盟戦争。
神聖ローマ皇帝カール5世、シュマルカルデン同盟プロテスタント諸侯を相手に戦争開始。
シュマルカルデン同盟:ルター派、ドイツ 中部~北部の諸侯・都市、兵力7万 。
ザクセン選定候とヘッセン方伯が指揮権を等分、新教徒軍は統一が保てず右往左往。7月、皇帝カール5世、ドナウ河畔の前哨戦。
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6月16日
・武田晴信(26)、三条西実澄・四辻季遠を積翠寺に迎え、連歌会を催す。ついで両卿を介して信濃で禁裏御領1万疋(100貫文)禄献納の約束をする。
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