天文13(1544)年 [信長11歳]
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この年
・宇喜多八郎(直家、能家の孫)、元服。廃城の邑久郡乙子城を預けられる。知行300貫。宇喜多旧臣70名程集まる。
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・長尾景虎(15)、栃尾城(栃尾市大野)に入り、近隣の豪族達の攻撃を撃退。(栃尾城の戦い)
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・ヘンリ8世、3度目の王妃ジェーン・シーモア兄ハーファド伯エドワード・シーモア率いるイングランド軍をスコットランド派遣。西ロージアンのブラックネス襲撃、エディンバラ乱入、破壊の限りを尽くす。
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・スコットランド、海外逃亡していた新教指導者ジョージ・ウィシュアート(1513?~46)、ジョン・ノックス(1512?~72)、帰国。ヘンリ8世により布教開始。
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・ギョーム・ポステル、「世界諧和論」。マホメット教まで含めキリスト教徒が団結して世界君主国を作り平和を求める。1552年「新君主論」。1544年、イエズス会に入会、ほどなく追放。
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1月6日
・エチエンヌ・ドレ、リヨンで逮捕。パリ市門税関でドレ送達の新教関係書籍小包発見。8日、ドレ逃亡。
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1月19日
・仏、フランソワ2世、誕生(1544~1560、位1559~1560)。後のメアリー・ステュワートの夫。
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2月
・細川晴元、三好政長(のち、江口の戦いで長慶に敗れる)と三好長慶の間を気に病み、長慶を従え、政長の摂津榎並城を訪れ、長慶との和を世間に印象付けようとする。
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・シュパイアーの国会。皇帝カール5世、フランスとの膠着状態を打開するために援助金を要請。
新教側、援助金承認と引替に帝国諸権利の新旧両教徒の同権を要求。カール5世、公会議で宗教問題が決着するまでの間、同権を承認。
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・セバスチャン・カステリョン、ジュネーヴでカルヴァン設立の学院長辞任。
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2月14日
・ノートル・ダム前庭でエティエンヌ・ドレ印刷のカルヴァン「キリスト教綱要」が焚書。
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2月24日
・山科言継(38)、大納言広橋兼秀に中納言希望の書状を送る。中納言は山科家の格からすると以上上のない「極官」。朝廷では、言継が前年の打診時に長男の冥福を祈るため辞退していることもあって中納言昇叙には好意的。
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2月27日
・利休(23)の名が「千宗易」として初めて茶事の世界に現れる。
堺を訪問した奈良の茶人松屋久政が茶会に招く。「松屋会記」。
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この時代、喫茶とともに会席料理が必ず出され、その二つで広義の茶会は成り立っている。茶会記に「数奇」とあるのが茶事で、「振舞」とあれば会席料理のことを意味する。こういう形式の茶会が、堺の町では天文年間に高揚し、弘治・永禄期へと展開。
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茶会記「松屋会記」「今井宗久茶湯日記抜書」「天王寺屋会記」によれば、堺衆相互間、津田宗達・宗及父子、今井宗久を中心に、池永宗雲・同三郎兵衛(入道)・同宗午、日比屋助四(了珪か)、紅屋宗陽、辻玄哉などの町人、三好長慶・実休などの武将、大林和尚など禅僧たちとの間で、茶会が日常茶飯事のごとく催され、また京都や奈良の町人たちと茶事を通じての接触も密である。
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15世紀末以来、茶湯は「市中の山居」を志向し、唐物に代り倭物に美的価値を求める方向で展開。それは京都や堺の町衆を基盤に「寄合の芸能」として受容された結果である。
茶湯は有徳者(富裕者)たる町衆がその財力を投入し誇示する恰好のてだてとされた。
従って、山里=草庵茶湯の展開=「侘数奇」ではなく、殿中茶湯の豪華を町衆社会に実現したいとの指向を持つ町衆の道具所有熱の高揚と対応している。
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天文期の文化史的意味:
茶人としての利休が記録の上でその活動を明らかにし始めるのは天文末年(30歳代)になってから。
津田宗達の茶会記(「天王寺屋会記」)が自会・他会とも天文17年(1548)に、「今井宗久茶湯抜書」は天文23年に始まり(奈良の茶人松屋久政の茶会記(「松屋会記」)は少し早く天文2年(1533)に始まる)、これらを総称して天文茶会記という。立花の世界でもこの時期花伝書が多く出現し、天文花伝書と呼ばれる。
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3月
・紀州根来地侍津田監物、種子島より南蛮筒アルカブース携え戻る。
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3月19日
・山科言継(38)、中納言に昇叙。
3月3日、日野晴光が中納言を辞任。この日、宮中の学問所に参内した言継は後奈良天皇に呼ばれ雑談の相手をする。
19日、極官に昇りつめた言継の感懐。「四十未満極官の儀、斟酌せしむと雖も、諸人当時早速の間、下臈数多超越し歎かわしきの間申し入れ候。未練に堪えざるの身、早速に昇進、誠に以て天憐有難く忝なきものなり。歓喜の至なり。」(「言継卿記」19日条)。
翌日、言継は伏見宮に呼ばれ、親王から納言昇進を祝福され、手ずから盃を給わり、中納言万里小路惟房・薄以緒(ユキオ)らも祝いに駆けつる(20日条)。
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4月
・大内義隆の家臣白井房胤、風早郡中島を攻撃。中島の忽那通乗、一族を率いて防戦、撃退。
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4月4日
・日本人の船20余艘、朝鮮慶尚道蛇梁鎮を攻撃。甲辰の変。
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4月5日
・山科言継、折から滞在中の白山宮の社僧白光院らと蓮台野から紫野へつつじの花見。帰途、大徳寺の諸塔頭を見物。大徳寺の門前で「一盞張行(チョウギョウ)」(「言継卿記」同日条)。
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4月11日
・茨木長隆、神祇官町巷所地子を押妨(「言継卿記」)。
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4月20日
・後奈良天皇、長尾晴景へ、勧修寺晴秀を派遣し越後の静謐を命令、「豊年」のために「震筆御心経」1巻を神前に奉納することを通達(「歴代古案」)。
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4月24日
・能登畠山氏の仲介で神保・椎名の和議成立。
神保長職は常願寺川・白岩川以西全域を婦負郡に併合し、支配下に収めることに成功、多くの国人衆も傘下におく。神保軍は、城生城の攻囲を一年余りにわたって続ける。
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5月
・三好政長、隠居。家督は実子政勝に。但し、実質的には、政長は晴元の参謀役続ける。
政長はさしたる攻城野戦の功なく、晴元政権の帷幕に収まっており、これを心よく思わぬ者は、長慶だけではない。そこで、晴元は、そうした他の武将の政長に対する嫉視をやわらげるべく、政長に隠居を勧める。しかし、実際は政長が晴元の参謀である事実は変りなく、このことがやがて政長の命取りとなる。
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・ヘンリ8世、スコットランドの一方的なグリニッジ条約破棄に対し、義弟ハーファド伯エドワード・シーモアをスコットランド南部に侵入させ、リースから国境地帯の村や畑を焼き払う。
また、ヘンリ8世はスコットランド国内の親イングランド派貴族に賄賂を贈るが、枢機卿ビートンを通じてフランスから親フランス派貴族に渡される賄賂に押され気味。
この後暫くの間、スコットランドの政治は枢機卿ビートン・摂政アンガス伯・皇太后マリのフランス寄り有力者3人に動かされる。
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5月21日
・山科言継、この日~6月3日、白山の社僧白光院に随行し、大坂・堺出張(「言継卿記」同日条)。
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21日、鳥羽から乗船、淀川を下り、22日に大坂南町の旅籠鍛冶屋太郎兵衛宅に着。
白光院は社領の関係で加賀一国を支配する本願寺へ礼参に赴き、門主証如光教はじめ母慶寿院、息顕如光佐、坊官下間氏などへ太刀・馬・銭等の礼物を献じ、翌日、下間より相当の返礼(「言継卿記」5月25、26日条)。
言継は石山寺内町の堀の内外を見物(「同」26日条)後、天王寺・住吉社に詣で、堺の車町の宿に到着(「同」27日条)。ここでは医師半井明英宅へ音信をつかわしたのみで、雨中のため市中見物を略し、翌日、慌ただしく大坂に引き上げる(「同」27、28日条)。
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6月
・武田晴信、黒川金山衆に初めて朱印状を与える。
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7月
・初夏、皇帝カール5世、帝国都市メッツよりシャンパーニュに進撃。
フランス軍は焦土作戦をとり、皇帝は補給を確保しながら進軍。
皇帝軍は、シャンパーニュのフランス軍拠点サン・ディジエを5週間包囲の後、攻略。次に、エペルネーを占領、サン・ディジエと同様に食料・武器類を入手。
モー(パリ東方約50Km)まで前進。
皇帝軍内部で暴動(ドイツ兵とスペイン兵が反目、相手を殺戮)。
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7月9日
・京都で大洪水。
市中の人馬・町々の釘抜門戸のことごとく流失。四条・五条の橋・祇園大鳥居も流失。御所西方の築地も失われる。東寺南大門から四塚にかけて船が多数流れる。日吉大宮橋も流失し、比叡山諸坊数宇も失われ、数十人が死亡。淀・鳥羽でも洪水で死者多数。
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鴨川と今出川が決壊、内裏一帯は水没、台屋・車寄も水につかり、「御門の前は五尺計りなり」。
広橋・万里小路・町・薄・庭田ら公卿と共に山科言継も白衣にて駆けつけ、幕府からも奉公・奉行・同朋衆ら300~400人が総出で普請と土居切り落としにあたる。
その結果、禁裏の水は引くが、小川・船橋(堀川今出川付近)辺りの民家は多く損傷・流失し、死者不明も数しれず「洛中洛外以ての外洪水・前代未聞の事なり」「死ぬ者数を知らず、洛中小路板戸を棹差し、杵を漂わす為鉢(テイタラク)なり」。
翌日、白光院を連れて下京の冠水地帯を「見物」。なかでも金蓮寺の惨状はひどく、「四条道場浅ましさ為鉢なり。下京の家中悉く水入ると云々。方々へ逃ぐと云々。言語に及ばざる事なり。」と記す(「言継卿記」4月9、10日条)。
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7月12日
・カルヴァン、セバスチャン・カステリョンをジュネーヴより追放。
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7月14日
・幕府、京中の風流踊を全面停止、灯籠見物も禁止(「言継卿記」同日条)。
大洪水があり、また将軍義晴と細川晴元の不和が伝えられ、そのため近江守護六角定頼が軍を率いて入京するとの緊迫した状況になり、踊りによる町衆の熱狂が治安情勢に影響するのを恐れる。
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7月14日
・ヘンリ8世、神聖ローマ皇帝軍とのピカルディ侵攻のため大陸遠征。ブーローニュを攻囲。
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7月28日
・毛利元就、尼子晴久に攻められた比叡尾城(三次市)主三吉広隆に援兵。府野で大敗するが翌29日の交戦で大勝。
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8月11日
・細川晴元、和田親五郎(三好長慶家臣)を京都一条戻橋に於いて鋸殺(「言継卿記」)。
三好長慶被官和田某と、将軍跡目、足利菊幢丸(義輝)の侍女との密通が発覚。和田某は京都一条戻橋で鋸引きの刑を受け、侍女は裸体で洛中を引き回されたのち、六条河原に斬られるという処分。
検断は晴元の指示で行なわれ、長慶としてはその処刑の仕方が「前代未聞」といわれ面目も潰れるが、直情的な父元長と異なりこれを堪える。但し、この事件を記録しているのは山科言継だけで、記録に誇張があるかも知れない。
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8月12日
・国友鉄砲、足利義時に献上(「国友鉄砲記」)。
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8月終
・エチエンヌ・ドレ、トロワの町で逮捕。9月12日、パリ監獄送り。
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9月
・織田信秀、松平氏本拠(文明3、1471以来)安祥城攻略。信長異母兄の信広の居城とする。
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9月
・刈谷城主水野信元、織田方へ帰属。
このため、松平広忠(家康父、岡崎城主)、於大の方(家康母)を離縁。以後、竹千代(3)は祖父清康の妹、於久の方に養育。
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9月14日
・イングランド軍、ブローニュ(ブルゴーニュ)占領。
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9月19日
・クレピー(クレピィ)の和約(第4次独仏戦争終結)。
イングランド・神聖ローマ皇帝連合軍に敗北のフランソワ1世、カール5世と和睦。
フランソワ1世は、アルトワ、フランドルを放棄。オルレアン公シャルル(フランソワ1世息子)とマリア(カール5世娘)かアンナ(ローマ王フェルディナント次女)の何れかと婚約成立(ネーデルラントかミラノの統治をシャルルに委ねると約束)。イタリア戦争も一時休戦となる。
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9月23日
・織田信秀、美濃稲葉山城(岐阜市金華山)に斎藤利政(道三)を攻める。利政は援を朝倉教景に求め、信秀は大敗北を喫し、からくも逃れ去る。
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「美濃国へ乱入し五千討死の事
さて、備後殿は国中を憑み勢をなされ、一ヶ月は美濃国へ御働き、又翌月は三川の国へ御出勢。
或る時、九月三日、尾張国中の人数を御憑みなされ、美濃国へ御乱入、在々所々放火侯て、九月廿二日、斎藤山城道三が居城稲葉山の山下村々に推し詰め、焼き払ひ、町口まで取り寄せ、既に晩日申刻に及び、御人数引き退かれ、諸手半分ばかり引取り侯所へ、山城道三焜と南へ向かつて切りかゝり、相支へ候と雖も、多人数くづれ立の間、守備の事叶はず、備後殿御舎弟織田与次郎・織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門・千秋紀伊守・毛利十郎・おとなの寺沢又八舎弟毛利藤九郎・岩越喜三郎を初めとして、歴々五千ばかり討死なり。先年、尾張国より濃州大柿の域へ、織田播磨守入れ置かれ侯事。」(「信長公記」巻首)。
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9月24日
・北条氏康、北条綱成に内安房・里見氏の妙本寺へ侵攻させる。
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10月29日
・武田晴信(24)、伊那の福与城に出兵。荒神山に藤沢頼親(晴信に叛旗を翻した)を攻める。
高遠頼継・頼親義兄小笠原長時、頼親助け、武田不成功。11月5日、晴信、甲斐府中に帰陣
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11月
・毛利元就3男徳寿丸(12、隆景)、小早川興景の跡を継ぎ竹原入城。
竹原城主小早川興景は、3年前、銀山城攻撃に加わり病死。興景には嗣子がなく、正室が元就の兄興元の娘(元就の姪)にあたる関係から、隆景が後継となる。大内・毛利連合軍対尼子軍の一進一退の攻防が続く時期、隆景の小早川氏継承は、毛利氏が瀬戸内圏を視野に入れた戦略の新たなステップになる。
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11月6日
・朝廷、連歌師宗教に禁裏修理料献上に関する織田信秀への女房奉書と恩賜の品を託し、宗牧はこの日、江戸に向う途中、那古野城で信秀に対面。宗牧は9月20日京都発。紀行文「東国紀行」。
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連歌師谷宗牧、那古野の平手政秀邸で連歌会を催す(平手は前年2月、信秀が皇居修理のために献金した時、使者として京都に赴き宗牧とは顔見知り)。このことから、この時点では信長(11)に那古野城は譲渡されていないことが判る。
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11月21日
・龍造寺家兼(剛忠)、少弐氏の武将馬場頼周に謀られ、龍造寺一族をもって肥前西部に向かって出陣。
杵島出陣を命じられた龍家は、剛忠(91)を残して出陣し、敗退。
佐嘉に帰った後、少弐軍2万に包囲される。馬場頼周の薦めにより(頼周の子政員は婿)、開城し逃亡。
頼周は同じ少弐被官である神代勝利と共に龍造寺家を急襲、剛忠の子、家純、水ヶ江二世家門、孫の周家らを惨殺、筑後蒲池に落ちていた剛忠以外の水ヶ江龍家は壊滅。
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12月13日
・幕府、京都嵯峨口諸関の幕領年貢・関銭賦課を停止(「古蹟文徴」)。
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12月18日
・茨木長隆、吉田宗忠へ帯座座頭職を安堵(「田中光治氏所蔵文書」)。
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12月23日
・今川義元、井伊家与力の小野道高の讒言を容れ井伊直満・井伊直義を殺害。
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12月25日
・京都小野郷民と山科郷民が闘争(「言継卿記」)。
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12月28日
・高遠頼継、諏訪侵入。上社の神長守矢頼真屋敷放火。
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12月29日
・本願寺証如(光教)、京都五条大橋修築の寄進。
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