以降、太田道灌の江戸城を幾度かに分けて拡張しました。
とりわけ、関ヶ原後は「天下普請」と云われる大規模改修を行いました。
改修にあたっては、全国諸大名の経済力を削ぐ狙いもあり、彼らにこれを分担させ、諸大名側も家康に忠誠を示す必要性から競ってこれに従事します。
大規模土木工事は、家康の威信を天下に示すと同時に、「公共事業」による失業救済、有効需要創出でもあります。労働力、物資の江戸への集中という形で、江戸の経済基盤を強固にする役割も果たしたと想像できます。
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ところで、大名達は自分の担当部署を示す目印を石垣に刻んだといいます。
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一番初めのものは、黒田涼「江戸城を歩く」に教わった、竹橋の内側の橋のたもとにあるもの
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そういう目で周りを見渡すと、近くにこんな刻印も。これは、工事手順か石垣位置を示すものかも知れない。その他にもありましたが、割愛。
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では・・・、ということで前回ご紹介した清水門に行ってみた。
以下は、清水門で見付けたものです。
これら以外にも、象形文字的な記号の刻印がありました。
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マルに「七」の字
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*マルに「七」の字
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江戸城を歩く(ヴィジュアル版) (祥伝社新書 161)
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その後の刻印のことは、コチラ。
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