2009年9月20日日曜日

南京戦中の日本(7) 昭和12(1937)年11月3日 「国民奉祝の時間」

南京戦中(昭和12年11月~12月)、日本国内で何が進行していたのか(一言で云えば、思想、教育、政治、娯楽などあらゆる面での「総動員(体制)化」の進行)、当時の新聞記事によって見てゆく。
*
昭和12(1937)年11月3日
*
「明治節」
この日、全国民が午前9時を期して宮城を遥拝する「国民奉祝の時間」が初めて設けられる。また、植民地や「満洲国」でも同様に設けられる。
*
「今年から制定された『国民奉祝の時間』午前九時ともなれば全市のサイレンをはじめ工場、寺院の鐘は卅(サンジュウ)秒間高らかに鳴りわたり市電、市バスは一斉に一分間停車し全市民は家にあるもの道行くものすべてこの一瞬こぞって大帝の御偉徳を仰ぎ皇軍の武運を祈って黙禱を捧げれば府市立各男女中等学校、試験場、市内各小学校はこの時校舎、学校に於て明治神宮、宮城遥拝式を挙行した」(「読売新聞」4日夕刊)。
*
また、この時、天皇も宮中で黙禱を行う。「午前九時『国民奉祝の時間』に当り宮中におかせられては畏くも両陛下には同時刻一分間の御黙禱にこのときを御祈念遊ばされたと承る」(同)
*
以降、明治節だけでなく、四方拝(元日)、紀元節(二月十一日)、陸軍記念日(三月十日)、天長節(四月二十九日)、海軍記念日(五月二十七日)や、日中戦争勃発の七月七日、天皇の靖国神社・伊勢神宮参拝の日などにも、「国民奉祝の時間」や「全国民黙禱時間」「一億総神拝の時間」などが設けられ、その都度、宮城、靖国神社、伊勢神宮遥拝が全国民に強制される。
*
「時間」設定を報じる新聞
「来る十一月三日の明治節を期し文部、内務両省では国民精神総動員計画の一部として「国民奉祝の時間」を設け全国民一斉に精神的挙国一致の実を挙げることになった。これは諸官庁学校等で行ふ奉拝式、祝賀式等と並行し、式典に参列しない一般国民が当日午前九時、各家庭、職場等それぞれの場所で宮城遥拝を行ひ、同時刻には全国の工場の汽笛やサイレンを始め寺院の鐘等あらゆる施設を動員して「奉祝の時間」を知らしめ、ラヂオも特別放送を行ふ。」(「東京朝日新聞」10月24日)。
*
時報を正確に知らせるラジオの聴取契約数は、日中戦争勃発とともに急増し、この月、324万に達する。
この年10月1日、西部標準時が廃止され、「内地」、植民地、「満洲国」が全て中央標準時に統一され、同じ時刻に遥拝することが可能となる。
*
○この頃の天皇の戦争に対する認識
この年の10月17日
・宮中の神嘗祭。
この日、天皇は通常の賢所だけでなく、皇霊殿と神殿でも同様の拝礼を行う。しかし、この「異例」は昭和19年まで続く。
*
「これは満洲は田舎であるから事件が起っても大した事はないが、天津北京で起ると必ず英米の干渉が非道くなり彼我衝突の虞(オソレ)があると思ったからである」(「昭和天皇独白録」)と述べる。
神嘗祭に際し、皇霊殿と神殿にも拝礼したのは、危機感の現れということになる。
*
「満洲は田舎であるから事件が起っても大した事はない」との言葉には、対英米関係を悪化させる可能性が少ない満州での軍事行動を容認する論理が存在する(吉田裕「昭和天皇の終戦史」岩波新書)。
*
天皇は日中戦争でも、米英との衝突を恐れて戦争の早期終結を主張した訳ではなく、「重点に兵を集め大打撃を加えたる上にて、我の公明なる態度をもって和平に導き、すみやかに時局を収拾するの方策なきや」と話すなど、その前に中国軍を叩くことが必要との認識を持っていた(同)。
*
天皇は、8月、第2次上海事変の時点で、「事変」が本格的な戦争になるのを覚悟するようになる。
「その中に事件は上海に飛火した。近衛は不拡大方針を主張してゐたが、私は上海に飛火した以上拡大防止は困難と思った」(「昭和天皇独自録」)。
*
*
下記を参考にしました。
*
昭和天皇 (岩波新書)
昭和天皇 (岩波新書)

0 件のコメント: