2009年9月2日水曜日

治承4(1180)年5月14、15日 検非違使、高倉殿に向う。以仁王、三井寺へ逃亡。長谷部信連、奮戦す。(その1)

治承4(1180)年
*
5月14日
・後白河院(54)、鳥羽殿より藤原俊盛の八条坊門烏丸第へ武士300騎の護衛で移り住む。
*
「一昨日、法皇鳥羽より八粂坊門烏丸に渡御す(八粂院の旧御所と云々)」(「明月記」16日条)。
*
「平家物語」巻4「鼬(いたち)之沙汰」に、「入道相国やうやうおもひなおつて、同十三日鳥羽殿をいだしたてまつり、八条烏丸の美福門院御所へ御幸なしたてまつる、」とある。日付・場所に違いがあるが、よく似た記事。
*
□「鼬之沙汰」(「平家物語」巻4)では、・・・
5月12日正午、鳥羽殿で、鼬(イタチ)が御所中を走り回ることがあった。
不審に思った法皇が、陰陽頭安倍泰親のもとに密使を遣わし占わせたところ、3日のうちの吉事と凶事という結果が出た(「今三日が中の御悦び並びに御欺き」)。
翌日、宗盛の父へのとりなしによって院は幽閉を解かれ、「吉事」の意味を知る。
一方、湛増の飛脚が以仁王の謀反を告げ、清盛は福原から急速上洛。清盛は宮を流罪にせよと命じ、追討使を宮の御所に派遣する(「凶事」)。
*
5月15日
・以仁王の令旨発覚し、清盛が上洛。以仁王の土佐配流を決め、逮捕の為に検非違使左衛門大夫源兼綱(源頼政の甥で養子)・同右衛門尉源光長を三条高倉殿へ派遣。
令旨が露見するが、源頼政の関与は未だ発覚しておらず、兼綱は父の頼政に事の次第を連絡、頼政は以仁王に急報。
たまたま来合わせた院の武士長谷部信連の機転で、以仁王は女装して園城寺(三井寺)に逃亡
信連は以仁王を逃がすと、1人で御所に残り、検非違使と戦い捕縛される
「山槐記」によれば矢により2~3人、「吾妻鏡」では刀をふるい5~6人を傷つける。(「山槐記」「玉葉」「百錬抄」同日条)。また謡曲「長兵衛」、「平家物語」巻4「信連合戦」、「源平盛衰記」巻13で名高い。
*
以仁王は、信連の機転で、女装して三条高倉御所を脱出。
御所横の高倉小路を北に進み、近衛大路で東に進み、鴨川を渡って鹿の谷口から如意山に入り、如意越えから三井寺へ向かう。
三井寺の大衆は宮を温かく迎え、総門の南の両院谷にある僧坊の法輪院を御所として提供。
*
□「吾妻鏡」では・・・
「高倉宮に配流せらるべきの旨宣下せらる。上卿は三條大納言(實房)、職事は蔵人右少弁行隆と。これ平家追討の令旨を下さるる事、露見せしむに依ってなり。
仍って今日戌の刻、検非違使兼綱・光長等、随兵を相率い、彼の三條高倉の御所に参る。
これより先入道三品の告げを得て、逃げ出で御う。廷尉等御所中を追捕すと雖も、遂に見せしめ給わず。
この間長兵衛の尉信連、太刀を取り相戦う。光長が郎等五六輩これが為に疵を被る。その後光長、信連及び家司一両人・女房三人を搦め取り、帰り去ると。」(改行を施す)
*
□「現代語訳吾妻鏡」。
「十五日、丙寅。曇。以仁王を土佐国へ配流する旨の宣旨が出された。上卿は三条大納言実房、職事は右少弁(藤原)行隆という。これは平家追討の令旨を下したことが露顕したためである。
そこで、この日の戌の刻、検非違使(源)兼綱と(源)光長が随兵を率いて三条高倉の御所に参った。
(以仁王は)これ以前に入道三品(頼政)から連絡を受け、逃げ出していた。
検非違使たちは御所の中を捜したものの、結局見つけることはできなかった。
その間、長(長谷部)兵衛尉信連は太刀を手にして検非違使を相手に戦い、光長の郎等五、六人が傷を負った。その後光長は、信連および(以仁王の)家司一人二人、女房三人を捕えて帰ったという。」
*
○長谷部信連(?~1218建保6)。
長谷部為連の男。左兵衛尉で「長兵衛尉」とも呼ばれる。三条高倉西の以仁王邸より防ぎ矢を射て奮戦(「山槐記」)。六波羅に拉致されるが黙秘を続ける。斬罪を命じられるが平家西遷後に釈放。
文治元年後半、頼朝は土肥実平に信連を捜し出させ、一旦安芸の検非違使に補任。信連は、梶原景時を通じて頼朝に忠勤を励みたいと申し出る。
文治2年に関東へ下り、頼朝の御家人に列することを許され、4月能登鳳至郡大屋荘の地頭に補任。
建久年間、加賀の検非違使時代に山中温泉を発見。子孫は長氏を名乗り、戦国時代に名を馳せる
*
○上卿。
宣旨は担当の公卿(上郷)と蔵人(職事)を通して出される。
*
○実房(1147久安3~1225嘉禄元)。
藤原北家公季流。藤原公教の3男。母は中納言藤原清隆の娘。仁安3年、権大納言。
*
○行隆(1130大治5~87文治3)。
右少弁とあるが、正しくは左少弁。藤原顕時の1男。母は右少弁藤原有業の娘。長寛3年、蔵人・治部大輔より権左少弁に任じ、さらに左少弁に転じる。永万2年4月6日解官。治承3年11月17日、正五位下・左少弁に還任し、翌日蔵人に補せられる。
*
○兼綱(1153仁平3~80治承4)。
源頼政の弟頼行の子で、頼政の養子となる。従五位下・左衛門尉、検非違使を兼ねる。以仁王の謀叛が露見したのを受けて、討手を命ぜられるが、御所を囲んだものの積極的には動かず、のち頼政とともに以仁王のもとに参じ、宇治平等院の合戦において戦死。
*
○光長(?~1183寿永2)。
源光信の男。検非違使・左衛門尉。
*
□「玉葉」では・・・。
「昏に臨むの間、京中鼓騒す。山の大衆下洛するの由風聞す。但しその実無し。今夜三條高倉宮(院第二子)配流と云々。件の宮八條女院の御猶子なり。此の外、縦横の説多しと雖も、信を取り難し。」。
*
□「愚管抄」では・・・。
「高倉の宮とて、院の宮に高倉の三位(成子)とておぼえせし女房うみまいらせたる御子をはしき。この宮をさうなく流しまいらせんとて、頼政三位が子に兼綱と云う検非違使を追つかいまいらせて、三條高倉の御所へ参られけるを、とく逃がさせ給いて、三井寺に入せたりける。寺法師どももてなして道々切りふさぎたりける。頼政はもとより出家したりけるが、近衛河原の家をやきて仲綱伊豆の守・兼綱など具して参りにける。」。
*
□「山槐記」(春宮大夫中山忠親の日記)では・・・。(改行を施す)
「亥の刻、京より下人走り来たりて云ふ、
高倉宮(一院の御子、故高倉三位の腹、新院の御兄なり)配流の事有り。
只今検非違使兼綱(大夫尉)・光長、三条北高倉西の事へ向ふ。武士等之を囲む者(テヘリ)。
後に聞く、今日免物(メンモツ)有るべきの由仰せ下さる。仍って官人等冠を着て陣に参る。(大内)三条大納言(実房)、召しに依って参内す。実は免物無し。宮の御事を仰せ下さる。
依って宮人忽に烏帽子を召し寄せ、陣辺に於て之を着し、晩頭彼の宮に参り向ふの処、皆門を閉ぢ、答ふる人無し。仍って光長高倉面の小門を踏み聞かしむる間、左兵衛尉信連之を射る。疵を被る者両三人有り。宮は御座されず。早く以て遁れ出で令(シ)め給ひ畢(オハ)んぬと云々。
今夜猶武士之を囲む。女房等裸形(ラギヤウ)東西に馳せ走る。悲しむべし、悲しむべし。
抑(ソモソモ)彼の宮の御名は以仁王なり。而(シカ)して仁の字憚(ハバカリ)有るの由沙汰有り。仁の字を改め、光の字と為すと仰せ下さると云々。
宮は、張藍摺(ハリアイズリ)の輿に乗り、幣(ヌサ)を持たしめ、物詣での人の如くして寺に向はしめ給ふと云々。
或いは云ふ、浄衣を着し騎馬に御し給ふと云々。又乗馬の者二人有り。御供人、凡そ四五人と云々。末だ一定(イチヂ゙ヤウ)を知らざるか、平等院に渡り御(オボ)す也。」
*
「平家物語」での叙述は次回とします。
*

0 件のコメント: