南京戦中(昭和12年11月~12月)、日本国内で何が進行していたのか(一言で云えば、思想、教育、政治、娯楽などあらゆる面での「総動員(体制)化」の進行)、当時の新聞記事によって見てゆく。
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昭和12(1937)年12月15日 第1次人民戦線事件。
日本無産党・日本労働組合全国評議会・労農派の山川均・猪俣津南雄・荒畑寒村・鈴木茂三郎・加藤勘十ら446名検挙。22日、日本無産党・全評、結社禁止。38年2月1日に第2次検挙。
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「東京日日」22日付。
(見出し)
「暁の帝都に〝包囲陣″ 大物悉く一網打尽 一二・一五警視庁の大活躍」。
(記事)
「この朝全国切っての大物揃ひの検挙陣を承る警視庁では、菊池特高部長が総指揮官となり、永岡特高一課長が第一線の指揮をとり、これに志村第一、中川第二、須田労働三係長の率ゐる課員三百五十名と青山、目黒、杉並署をはじめ管下四十七署の特高係四百余が総出動、近年にない物々しい大検挙陣を編成、これが十班に分れてそれぞれの部署につき命令一下時の至るを待つ、
何分社会的にも知名な面々を一網打尽に検挙することとて、係官の面上には何れも緊張の色が濃い、
午前六時-芦田巡査部長の率ゐる一隊は京橋区木挽町並木ビル三階の日本無産党本部をついて、隈なく大がかりな家宅捜索の手を入れ多数の文書を押収すれば、一方麹町区内幸町霞ヶ関ビルの鈴木茂三郎の主宰する日本経済研究所ではこれまた多数の左翼文書、参考書類を押収、藤井警部の一隊は杉並区阿佐ヶ谷一の六八九東京市議、日本無産党前書記長、日本経済研究所長鈴木茂三郎の寝こみを襲ひ、これと呼応して安斎警部の一隊が赤坂区青山高樹町一二青山ハウスにふみ込み、労働派の巨頭猪俣津南雄(四九)を、特高二課から応援の原田警部、野中警部補の一行は長駆朝霞をついて車を神奈川県鎌倉町塔ノ辻に飛ばし、評論家大森義太郎(四〇)を、更に宮下警部の一行はこれまた同じく鎌倉郡村岡村にのり込み労働派の元老山川均(六〇)を疾風的に検挙、
廿一日朝六時更に第二次検挙を行ひ弁護士大脇松太郎、区議戸田武七、同河野龜三、同武田山三郎、同平林徳次郎、同春木五郎、同大和田武などを検挙した、これで警視庁の検挙総数百十六名、そのほか参考人一名といふ警視庁はじまって以来の記録をつくった」。(改行を施した)
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(見出し)
「合法運動として迷彩 〝人民戦線″構築を急ぐ 国体変革と〝私財″否定 =当局発表=検挙経過」。
(記事)
「検挙経過当局発表
今回日本無産党、日本労働組合全国評議会の中心分子及びその理論的指導グループである所謂労農派の共産主義一派に対し、治安維持法違反被疑者として検挙が行はるゝと共に、その各結社に対しては結社禁止が命ぜらるゝこととなったのであるがその概況は次の如くである
一、労農派の発生過程
由来この労農派と称する共産主義グループは、我国最初の共産党組織者たる山川均、荒畑勝三、高津正道等を中心とする一派であって、その後鈴木茂三郎、加藤勘十、大森義太郎、黒田寿男、向坂逸郎其他の指導分子がこれに加はつたのであるが、元々この一派は日本共産党内の一派であった、
抑々労農派の思想は、いはゆる第一次日本共産党当時その首脳分子たる前記山川、荒畑等が従来の極左的地下潜行的の運動に対し、今後は合法無産政党の運動を起しこれとの共同戦線によって大衆を啓蒙獲得し、その基礎を広汎なる大衆に置かねばならぬとの主張をなしたことに端を発すと称せられてゐるのであるが、その後若手党員である福本和夫、佐野文夫、市川正一等の一派がこの運動方針を日和見主義であると反対し、飽くまで職業革命家の結束をもって地下潜行的の共産党を結成しこれを拡大強化してその目的を達すべしと主張するに至ったので、こゝに日本共産党は山川は、福本派の両派に分れて互に論争し、遂にコミンテルンの裁断を仰いだのである、
コミンテルンはこれに対し両者とも極端なりとして折衷案をもって裁断したのであるが、両派の争ひは依然として継続せられ、福本派は自ら自派を共産党の正統派と呼び、一方山川派はこれを労農派と呼称するに至ったのである、
然るに福本派の多くは青年分子にして活動的に優秀であったため遂に日本共産党の実権を把握し山川派を党より除名したるため、爾来我国の共産主義運動には正統派と労農派の両派相対立して抗争したのであるが、右の経過並びにその後の運動に徴するも両者の相違は単に運動の方法論であって、決して主義思想の相違ではないのであった
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二、労農派の思想並目的
かくて山川、荒畑等の労農一派は日本共産党と疎隔後も機関紙的雑誌を発行し、あるひはその他の雑誌を通じて引続き正統派との論争に努めたのであるが、それはいづれも、戦略に関する問題であって主義思想の相違に関する論争ではなかった、
また従来この派の無産政党並に労働団体が合法団体の形態を採って来たのはいづれも戦術上の意図に基くものであってその真意はマルクス、レーニン主義の基礎に立脚してをつたものであることはこれ等団体の発行配布せる文書によっても推測せらるゝのである、
かくの如く労農派は日本共産党より出生せる一派であってその運動目的は日本共産党と同じく共産主義革命を目的とするものであるが、たヾ労農派は日本共産党と疎隔以来はコミンテルンとの有機的連絡関係が明瞭でなく、またその運動方法が表面合法的であり、正統派たる日本共産党に比し、如何にも穏健に見えたので、従来は主としてコミンテルンの日本支部であり、不穏矯激なる闘争をその信条とする日本共産党に対して検挙取締りが集中せられたのである
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三、コミンテルンの方向転換と労農派の積極的活動
しかるに昭和十年夏コミンテルンが七年振りで第七回世界大会を開催していよいよ世界赤化の工作に積極的攻撃的に乗出すことゝなりその大衆動員のため従来の運動方針を大転換し労農派のそれに近似せる方針をとるに至ったゝめ爾来これに勢ひを得てこの労農派の活動はとみに活発となって来たのである、即ち右大会においては
一、ファシズム反対、帝国主義戦争反対に主力を注ぐこと
一、従来排斥して来た社会民主主義、自由主義諸団体とも提携して広汎なる反ファッショ人民戦線運
動を展開すること
一、従来の画一的な国際主義を排して各国の特殊事情に応じたる運動方法を採ること
一、極力合法運動を利用し若くは擬装すること等の方針を決定して従来の運動方針を大変更し、爾来
我国の発行の邦字印刷物を多数送付して右新方針の指示煽動に努めたのである
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しかしてこれが方法としては最近における政治経済の動向を経て「ファシズムの拾頭」「支配階級の戦争政策」の結果であると曲解宣伝しこれに対しは自由民選の擁護、平和政策の樹立、国民生活の安定等スローガンを掲げて闘争すべきこと及びこれが闘争のためには社会大衆党を中心として既成政党内の進歩的分子とも提携し広汎なる反ファッショ人民戦線を樹立して闘争すべきことを指示して来たのである、
然るに当時前述の労農一派の分子を中心としてカンパニヤ組織として結成せられてをつた労働無産協議会は、昭和十一年五月頃から社会大衆党に合同して反ファッショ統一戦線の樹立を計るべき意図の下にこれが合同に関する策動をなし、社会大衆党がこれに肯ぜざるの状況を看取するや、昭和十一年七月三日遂にコミンテルンと同様なる「反ファッショ人民戦線の推進力となる」目的を明かにして新労農無産協議会を組織し(昭和十二年四月に至りこれを日本無産党と改称)この人民戦線なるスローガンの魅力と圧力をもって社会大衆党との合同を実現すべく種々画策し、同年九月三日正式にその合同を提議したのであるが、社会大衆党はこれを拒絶せるため爾来社会大衆党幹部のファッショ化を攻撃し、わが国において最も忠実に反ファッショ闘争をなすものは労農無産協議会なることを強調し、もってコミンテルンの新方針実践に忠実なる態度を示したのである
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また本年七月支那事変勃発するや、コミンテルンはアメリカ共産党発行の印刷物を通じてわが国の左翼分子に対して平和外交の樹立、出征兵士の遺家族救援、出征兵士の解雇反対及び賃銀全額支給
の運動、出征農民家族の小作料減免、出征兵士のある家族の借金支払延期及び税金免除、戦争のための物価騰貴の問題を採り挙げて運動すべきことを指示し来るや、日本無産党はまたこれと同様なるスローガン項目を掲げて運動をなすに至ったのである、
叙上の如き状況なるため日本無産党結成以来極力査察内偵調査を進めて来たのであるが、最近に至り日本無産党は全く労農派の主義主張に基き国体変革の意を有することの確証が挙がりまたその中心運動目標である反ファッショ人民戦線の樹立はコミンテルンの新方針同様全く共産主義革命へ大衆を動員する手段方法であることが明瞭となったのである
しかして実際活動においても支那事変発生以来、このわが国重大時局に際して帝国の方針を支持これに協力せんとせざるのみならず却って前述の如くコミンテルンの指示せる方針と同様なる方法をもって反戦思想の流布宣伝に努め、更に事変終局前後において政治、経済、社会の各種問題が惹起することを予想して、その際これ等の問題を捉へて積極的に人民戦線運動を展開すべく虎視眈々として待機してゐるの状況である、
また日本労働組合全国評議会は前述日本無産党構成の支柱をなしてゐるのみならず、その幹部が悉く日本無産党の幹部であり、しかもこの組合は従来わが国の革命的労働組合の伝統を堅持するやの態度を示し、またその実際活動においても全く日本無産党のそれに従属してゐるものであることは明かである
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四、検挙取締
これ等一派の目的並その策動の状況は以上の如くであるが従って最近におけるわが国内外の情勢を見るに、時局は極めて重大にして、これが時難克服のため、挙国一致朝野挙げて邁進せねばならぬ時である、
かゝる際前述の如きこれ等一派の策動は国際的にも国内的にも極めて重大なる影響を及ぼすことは今更警言を要しないことである、
こゝにおいて去る十二月十五日午前六時を期しこれ等の中心分子に対し、国体を変革し私有財産制度を否認するの治安維持法違反被疑事件として断乎検挙取締を加へるとともに、一方日本無産党並日本労働組合全国評議会の各結社に対しては結社禁止を命じて今後の活動を禁止したのである
しかして検挙関係府県は警視庁、北海道、秋田、福島、栃木、新潟、神奈川、静岡、愛知、岐阜、富山、京都、大阪、兵庫、和歌山、岡山、福岡、大分の十八庁府県にわたり、その検挙者数は今日まで
約四百名に達したやうな状況である、
当局は今後と雖もこれ等共産主義運動に対しては、その運動形態が合法を装ふと否んとに拘らず徹底的取締を加へる方針である
なほ今回の事件並に最近における我国の一般共産主義運動の状況に鑑み、この際特に一言したいことは、コミンテルンが前述の如く反ファッショ人民戦線の樹立及合法運動の擬装並利用等の新運動方針を採用してから総べての共産主義者は極力社会民主々義団体乃至は自由主義団体に潜入し、若くはその運動を利用すべく努めてゐるので、警察の取締乃至警戒の範囲も勢ひこれ等の団体にまで及ぼして行かねばならぬ情勢となって来たことであって今や民主々義、自由主義等の思想は共産主義思想発生の温床となる危険性が多分にあるので、この際国民精神の徹底を図り、これ等思想を克服するの要緊切なるを痛感するのである
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(見出し)
「両派の組織経過」、
(記事)
「・・・(略)・・・
日本無産党
本部 東京市京橋区木挽町四ノ四
並木ビル
創立 昭和十一年七月三日
委員長 加藤勘十
書記長 鈴木茂三郎
会計 牧野松太郎
書記局 永見政保
常任委員 中島喜三郎
北田一郎
安平鹿一
三輪盛吉
中西伊之助
高津正道
佐々木瀞三
山ノ内房吉
・・・・(略)・・・・
日本労働組合全国評議会
創立 昭和九年十一月十八日
五、八六〇
東京市芝区浜松町二の一一
中央執行委員長加藤勘十
書記長山花秀雄
常任安平鹿一 高野實
執行委員
兼島景毅
仲橋喜三郎
伊藤清遠
近藤信一
赤松勇
武内清
児玉秀次
岡田弘
代議士初め各種議員
被検挙者調
◇加藤 勘十(代議士、東京市議)
◇黒田 壽男(代議士)
◇中島喜三郎(東京府議)
◇北田一郎(東京府議、市議)
◇安平 鹿一(東京府議、市議)
◇三輪 盛吉(東京府議)
◇三浦 愛二(福岡県議)
◇玉井 潤次(新潟県議、市議)
◇中原 健次(岡山県議)
◇黒田 保次(東京市議)
◇鈴木茂三郎(同)
◇重井 康治(倉敷市議)
◇宋 義保(熱海市議)
◇神田 敏雄(八幡市議)
◇青野 武一(同)
◇澤井 菊松(同)
◇松本 昂(同)
◇田中 貞吉(荏原区議)
◇中西 貞吉(同)
◇土屋銀次郎(同)
◇草野友四郎(同)
◇清水花次郎(江戸川区議)
◇新島 仙次(目黒区議)
◇菅 正松(渋谷区議)
◇三浦 信義(中野区議)
◇佐藤 参治(世田谷区議)
◇石川 金平(豊島区議)
◇佐々木力一(杉並区議)」
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(見出し)
「運動の指導者と役割並にその略歴」
(記事)では、個人の略歴がかなり細かく記され、延々と続く。
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