天文15(1546)年 [信長13歳]
*
7月
・山科言継、突如出奔、近江延暦寺に逃隠。言継は「堪忍条々叶い難きの間」(「言継卿記」7月11日条)と記すのみ。
*
家計窮迫の為とも云われるが、山科家の手元不如意は今に始った事でなく、この時際立った家領退転もない。
*
この年3月、方仁(ミチヒト)親王(のち正親町天皇)に供奉して言継らが鞍馬寺に参詣した際、僧正ケ谷の難路で輿副(コシゾエ)の人数が足りず、中御門内者田中隼人佑・山科家雑掌沢路藤次郎を臨時に親王らの輿副に召し加えたところ、元来の輿副の勧修寺家内者井家孝家や伶人(楽人)山井景雄らが収まらず、所存を申し立てる。
言継も「総別御忍(オシノビ)たりと雖も御輿副いま二、三人は召し具さるべき事なり。あまりに無人然るべからざる事なり」と言うように出発時から輿副は不足であった。その場は言継が宥めて一旦落着(3月15日条)。
しかし、その後も景雄らが騒ぎ、親王の耳に入り、親王は3月18日、言継を東宮御所へ呼び景雄(伶人は楽奉行の管轄)のことを詰問。
言継は、何とか申し開くが、鞍馬行に同行した女房衆らが景雄や言継のことを悪し様に親王に告げ口し(18日条)、親王の怒りは解けず。
この頃から言継は憂欝気味となり、この一件で宮仕えに嫌気がさしたものと推測できる。
*
7月11日夕、言継は、雑色(下男)与五郎だけを連れ秘かに六町の邸宅を後にし、今道(志賀越、北白川から近江穴太へ抜ける街道)を進み近江山中(北白川最上流の村落、大津市山中町)に1泊(同日条)。土豪磯谷氏の亭に宿泊か。
翌朝、坂本に出、梶井門跡へ向かい、ここで「出家の御暇」を請う書状を広橋兼秀に宛て認め与五郎に持たせ帰京させ、自身は青蓮院門跡尊鎮法親王に従って根本中堂に登る。
*
山科家では、雑掌大沢重敏はじめ大沢一族と沢路・井上らの家司は与五郎と入れ違いに中堂へ登り、言継に対面し翻意を迫るが、重敏を除き皆下山を命じられる(7月12日条)。
禁中でも、後奈良天皇・方仁親王は夫々女房奉書・女房文を以て言継に即刻帰宅を命じ、言継もこれには恐懼して「忝なきの由」を奏上(13、16日条)。13日には尊鎮からも種々諭され、大納言勧修寺尹豊・幕府近臣高和泉守・彦部又四郎らも見舞いと称し言継の許へ慰留に赴く(13、16、18日条)。
19日、下山の覚悟を固め、22日、出奔11日ぶりに尊鎮に挨拶し、坂本経由京都に戻る(同日条)。
*
7月23日
・本願寺証如、本願寺末寺「夷島浄願寺」を介して出羽の安東尭季より「錦」を贈られる(「証如上人日記」)。
*
8月3日
・エティエンヌ・ドレ(37)処刑。パリ、モベール広場。印刷業者。改革派・人文主義者の著作を出版した廉(「瀆聖、謀反、禁断書の売却の罪)で処刑。
聖書を引用しない。神学に興味持たず、新旧両派から挟撃される。1889年モベール広場にドレの銅像建立。第2次大戦中ナチス・ドイツにより撤去。
*
8月10日
・京都、本国寺本堂、再建。本尊遷座式、挙行。
*
8月16日
・三好長慶、細川晴元より、河内高屋城遊佐長教・細川氏綱連合討伐を命令され、越水城より堺に向かい、軍備を整え始める。20日、細川氏綱・遊佐長教が大和の筒井氏らと堺の長慶を攻撃。不意をつかれた長慶は、堺の会合衆の斡旋により撤兵。
*
太平寺の戦いでは三好長慶と共にに晴元方で戦った遊佐長敦は、細川氏綱に通じ、この夏、氏綱を高屋城に迎え入れる準備をする。
晴元はこれを察知し、長慶に命じ、摂津の軍を堺へ向かわせる。
しかし、堺の掌握に手間取るうちに、氏綱・長教連合軍が堺を包囲。
長慶は、堺の納屋衆に調停を依頼、堺の会合衆は河内方の顔を立てつつ長慶が無事撤退できるような条件で斡旋。
堺が中立都市であり、市内に逃げ込む者は、敵には引渡さない自治都市の慣行が、この頃からようやく実績となって行われている。但し、堺は、大永7年の堺幕府以来、ほぼ一貫して阿波の三好氏に対しては好意的で、阿波と対立しては、南海道方面の物資を大量に扱っている堺の経済が成り立ってゆかないからでもある。
*
8月28日
・深夜、太田資正、武蔵松山城を奇襲、攻め落とす。
*
9月3日
・堺包囲を解いた細川氏綱・遊佐長教・畠山政国ら、細川晴元の摂津(天王寺)大塚城を攻撃。救援のため尼崎の三好政長が天王寺に赴くが、三宅国村・池田久宗(池田城城主)が晴元から離反し、三好政長は大塚城を見殺しにする。大塚城落城。
*
堺占領を諦めた氏綱・長教らは北上して摂津欠郡に入り、晴元の被官山中又三郎の大塚城を包囲(山中氏は、かつて将軍義澄や澄元・之長を匿った功で摂津欠郡守護に任ぜられた甲賀武士山中為俊の末裔と推測される)。
長慶は淡路・讃岐・阿波へ急報、細川持隆らに対し、四国の兵派遣を要請。
まず淡路炬ノロ城の安宅冬康(長慶の実弟で、淡路水軍の名家安宅氏の猶子となり家を継ぐ)が駆けつけるが、大塚城赴援には間に合わず。
遊佐長教は、三好政長・晴元らの圧制ぶりを指弾する回状を摂津の諸将に巡らし、このため三宅・池田など有力国衆が氏綱に帰参、幕府への叛旗を鮮明にする。
長慶は大塚城救援を断念、越水城に戻って態勢を立て直す。
*
9月6日
・松平広忠(家康父、三河岡崎城主)、三河上野城主酒井忠尚を降す。
*
9月13日
・将軍義晴が管領細川晴元になびくのを防止するため、河内の上野元治は京都に向かう。将軍義晴も銀閣寺入り。嵯峨に布陣の管領晴元は高雄に退く。14日、遊佐長教・上野元治の兵、細川晴元と嵯峨にて交戦。15日、三好政長、細川晴元を赴援、敗れて政長・晴元は丹波へ逃げる。18日、細川氏綱・遊佐長教、晴元拠点芥川城攻撃、講和開城。
*
細川氏綱方の上野元治(もと幕府近習)は、将軍義晴を氏綱側に迎え取ろうとして13日入京。
義晴は、両細川の対立を観望する為、一種の中立的態度をとり、東山の慈照寺に入る(やがて義晴・義輝父子は、この銀閣の裏山に城郭を築く)。
将軍が細川氏の動きに対して独自性を主張し始めたことは、細川氏の幕府墾断(京兆専制)の崩壊でもある。
晴元はこの形勢を見て、嵯峨から丹波へ逃亡。晴元には三好長慶の軍事力に頼る以外、手の施しょうがない。また摂津芥川城は、長慶の妹婿芥川孫十郎(元長の従父兄弟でもある)が守っているが、氏綱・長教の攻撃にあい、三好政長ら必死の後巻も間に合わず、和睦開城。
このように、緒戦は、晴元・三好側の連戦連敗。
*
10月2日
・今川義元、塗師大工左衛門太郎が柿渋を徴収することを許可。
*
10月4日
・武田信玄、板垣信方を先手として、翌5日には病気の癒えた信玄本人が4300の兵を率いて碓氷峠に向かう。
一方、管領上杉憲政方の賀野備前守為広の将・金井小源太秀景、先陣の主将となって2万余騎を率いて碓氷峠に出陣。
*
碓氷峠の戦い。
上杉方戦死4,300、武田方戦死2,143。上杉方の完敗。
この戦いで、上州はこれ以降武田信玄の侵略を受けることとなり、上杉氏の滅亡を早める。上杉憲政は、東南に小田原北条氏、西に甲斐武田氏と2つの脅威を受ける。
*
10月10日
・武田信玄、甲府に戻る。
*
10月10日
・大内義隆、相良晴広に遣明船の準備を命じる。
*
11月
・立ち遅れのため敗北続く細川晴元・三好長慶連合軍に援軍到着。
長慶の弟達、淡路島の安宅冬康と阿波の三好義賢が来着すると、丹波の細川晴元も長慶の居城越水城にやって来る。
三好軍が続々上洛するのを知り、銀閣寺に居る将軍義晴は北白川城(瓜生山の勝軍山城ともいう)に築城を始める。勝軍山城は大規模な城郭の形式を具備するに至る。翌天文16年7月、義晴・義輝は城を自焼出奔。天文19年(1550)、義輝が再築城、旧観に復す。
*
待望の三好義賢(長慶の次の弟)が阿波の兵を率い、十河一存(長慶の末弟、讃岐十河氏の猶子)が讃岐の兵を率い、海路堺へ駆け付け、長慶側の士気はふるい立つ。
丹波へ逃げていた晴元も、八上郡から猪名川づたいに南下し、摂津神呪寺城に入り、越水を拠点に摂津を掌握してから、晴元軍を立て直す。
*
義晴は、瓜生山築城に際し、山科言継の所領(山科7郷)の人夫をはじめ山城54郷の人員を動員、「御城米」と称し当年の収穫の1/3を強制的に徴発(三分一済と称す)。
武家官位の最高にあり、管領・守護以下各重職の補任権者としてかつては超然たる地位にあった将軍が、細川氏や守護あるいは土豪のように城塞を築き、自ら一個の土豪的権力として晴元・長慶に対抗する。この異様な行動こそ下剋上時代を象徴する現象である。
*
「公方様東山白川山上に御城を構へらる。勝軍の下の山なり。日々御普請、竹木人夫等近郷他郷迷惑仕るものなり。御城米として山科七郷の年貢一旦これを借り召さるなり。但し三分一本給人・三分一地下・三分一御城米と云々。」(醍醐寺の厳助僧正「厳助往年記」天文15年11月条))。
*
「東山御要害御普請の為当寺境内門前己下人足の事、来る七日未明より人別として家次(イエナミ)に鋤鍬を持たれ罷り出づべき旨、堅く申し付けらるべき由仰せ下され候なり。仍て件の如し。 天文十五年 十一月四日 (松田)盛秀(花押) 東寺雑掌」。
*
11月15日
・今川義元、東三河に進出。松平広忠(義元の支援の下に岡崎に復帰)と組んで戸田宣成の三河今橋城(のち吉田城と呼ばれる、豊橋市)を攻略。今川軍の指揮は太原崇孚(臨済寺の住持雪斎)。城は1日で陥落。
これにより、尾張の織田信秀が西三河侵攻の構えを見せる。翌年、広忠は義元に援軍を要請、広忠嫡男竹千代(のちの家康)の人質差出に繋がる。
*
11月29日
・黒田官兵衛孝高、姫路城に誕生。父は姫路城主小寺職隆(小寺政職の家老)、母は明石氏。幼名万吉。
*
11月下旬
・シュマルカルデン同盟軍、ドナウ河流域の陣地を捨て北方に撤退。
ザクセン公モーリッツ、ザクセン選定候領大半を占領(ヴィッテンベルク、アイゼナハ等の少数の堅固な都市は除く)。ヘッセン方伯、皇帝に休戦申し込み、拒否され、撤退。
*
・皇帝カール5世、南ドイツ一帯を配下に加える。
シュマルカルデン同盟軍の撤退後、皇帝軍、ウルム、アウグスブルクを実力で占拠。ルター派都市を一つ一つ陥落。ヴュルテンベルク公、皇帝に許しを乞い自主的に開城。皇帝カール5世、1546~1547の冬をウルムで過ごす。
*
12月
・毛利元就、家督を長男隆元(24)に譲り隠退。
*
12月19日
・足利義晴、坂本の日吉社の神官の邸で嫡子(11)を元服させ、義藤(義輝)と称させる。翌20日、足利義輝、室町幕府第13代の征夷大将軍になる。24日、足利義輝、足利義晴と共に帰洛。
*
違例の近江での将軍任官、管領が立ち合わぬ異例さ。急遽、近江守撃六角定頼が「管領代」に指定され、加冠の儀を行なう。
*
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿