2009年10月24日土曜日

天文17(1548)年1月~5月 上田原の戦い(信玄敗れる) 第2次小豆坂合戦(織田信秀、今川義元に敗れる) 朝倉義景(16)家督相続 ペルー内乱終結 三好長慶、政長を攻撃(晴元と決定的対立) [信長15歳]

天文17(1548)年 [信長15歳]
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この年
・若狭守護武田信豊の子息信統(のち義統)、将軍義晴の娘を娶る。
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・加賀白山噴火。
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・フランス、アキテーヌ(ポワトゥー、サントンジュ、ギュイエンヌ)で「反塩税」蜂起。ボルドーで、民衆が市政を掌握。
アンリ2世、ポワトゥー にオマール(ギーズ弟)を派遣、威圧、収拾、鎮圧。ボルドーに「鉄腕」将軍アンヌ・ド・モンモランシーを派遣、虐殺を繰り広げる。
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・王アンリ2世、サヴォイア公よりトリノを奪取。
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・ルッカの新教徒首領ミケーレ・ブルラマッキの父フランチェスコ・ブルラマッキ(50、1498~1548)、カール5世により処刑。
ルッカは貴族寡頭制のもとで市民の自由は抑圧。フランチェスコは、支配階級に属すが、トスカナ諸都市の「自由共和連合」と「宗教的自由の樹立」を画策して失敗。
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・ポルトガル、人文主義運動の拠点コインブラ芸術学院創設。後、イエズス会の反発を招き一部教授が異端嫌疑で追放され、1555年にはイエズス会が同学院を支配。
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1月18日
・武田晴信、信濃経略戦果上がれば褒賞として所領与える旨の朱印状を主な家来に与える。
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1月18日
・岩付城の太田資正、北條氏康に帰属。
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1月22日
・唐木綿の初見。安居院覚澄、唐木綿を西国より持参し、山科言継に献上(「言継卿記」同日条)。
以後、「証如上人日記」「顕如上人日記」「鹿苑日録」などに、「唐木綿」という語が、盛んに見える。良質の中国産綿布は、初め西国地方に輸入され、その後、博多・兵庫・堺の商人らの活躍により、その需要が、次第に畿内近国に拡大されていく。
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2月1日
・信玄の小県郡侵攻。
武田晴信、葛屋城(村上義清)攻撃出陣。14日、上田原の激戦。村上軍7千も城を出て千曲川挟み両軍対峙。武田軍、大敗北。晴信、負傷。(譜代の家臣)諏訪郡代板垣信方・甘利虎泰・初鹿野伝右衛門、討死。真田幸隆(36)、武田方として参戦。
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この敗北により、北佐久郡でも村上方に同調する諸氏が輩出、攻略した前山城(佐久市前山)ほかが奪還され、武田氏による北佐久郡支配は不安定になる。
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2月8日
・本多忠勝、 父忠高(21)・母小夜(16)の長男として誕生。
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3月
ペルー内乱終結
神聖ローマ皇帝・スペイン王カール5世(カルロス1世)派遣が派遣した学士・新総督ペドロ・デ・ラ・ガスカ(60)が、この月、クスコ近くでゴンサロ・ピサロを追いつめる。ピサロ派は大潰走、残党も粛正。ペルーの植民地化はガスカのもとで進められる。
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翌4月9日、ペルーの秩序は回復。
ペドロ・デ・ラ・ガスカ、ゴンサロ・ピサロを破りペルーに国王権力を確立。
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(経緯)
スペイン国王カルロス1世、ペルーのゴンサロ・ピサロの反乱鎮圧にラ・ガスカ(60)を選任。
1546年、ラ・ガスカは無制限の権限を与えられペルーへ出発。随行員は秘書・召使1人ずつ、肩書きはアウディエンシア議長、ゴンサロやペルー有力者宛の国王の手紙、新法によるエンコミエンダ制廃止撤回の勅令、国庫金自由裁量権限、死刑~大赦までの完全な司法権付与(国王サインだけの羊皮紙を多数持参)。
コロンビアのサンタマルタ港(マラカイボ)に上陸。随行部下が少数のため人々は警戒を解き、新法の部分的撤回を表明し、パナマの有力者・軍隊を味方にする。
1547年中頃、ペルー北部に上陸、現地の国王忠誠派スペイン人と合流。ガスカは新法修正布告と反逆者特赦を打ち出し、ゴンサロの不人気もあり、ゴンサロ組織の切り崩し・味方兵力集結に成功。
1548年4月9日、両軍はクスコ近くの平原サクサワナ(ハキハワナ)で対決、ゴンサロ・ピサロ軍は敗北。ゴンサロと腹心フランシスコ・ド・カルバハ-ルは捕縛、ガスカ任命の裁判官2人が反逆罪での有罪を宣告、翌朝処刑。
ガスカはその後2年間、ペルーでの国王権威回復に努め、現地スペイン人の不満解消のためにアンデスを越えて東への探検を行い、入植を実施。
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3月5日
・武田晴信、上田原を退却、上原城へ帰陣。26日、甲府帰陣。諏訪上原城代は板垣弟室住玄蕃とする。
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3月19日
'・第2次小豆坂合戦
大原崇孚(雪斎)・朝比奈泰能らの今川軍、岡崎城南の小豆坂にて織田信秀軍と戦い大勝。
今川義元は、雪斎を大将として、織田方の三河における橋頭堡である安祥城を攻めさせようとすると、織田信秀が先手を打って小豆坂に出陣し、そこで戦いとなる。信秀は安祥城に兵を引き、そこに長男の信広を置き、自らは尾張に戻る。
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「今河殿仰ケルハ、広忠ヨリ質物ハ来タレ共、ソバより盗取テ敵方え売申事ハ無是非、其故(上)モ小(織)田ト一身無、侍之儀理ハ見えタリ。此上広忠見次て家(加)勢可有トテ林西寺之説(雪)斎長老(太原崇孚)に各々ヲ仰付て、駿河・遠江・東三河ヶ国之人数ヲ催て家(加)勢有。
・・・弾正之(信秀)中は、駿河衆之出ルヲ聞て、清須之城を立て、其日は箵(笠)寺・成見(鳴海)に陣取給ひて、明ケレバ箵寺を打立給ひて案(安)祥に付せ給ひて、其より八萩河(矢作川)之下之瀬ヲ越て、上和田之取出に移らせ給ひて、明ケレバ馬頭之原え押出シて、合陣之取ントテ、上和田を未明に押出ス。
駿河衆モ上和田之取出え荂(ハタラキ)トテ、是モ藤河を見(未)明に押出ス。
藤河と上和田之間一理(里)有。然処に山道の事ナレバ、互ニ見不出シテ押ケルガ、小豆坂え駿河衆アガリケレバ小田之三郎五郎殿ハ先手にて小豆坂えアガラントスル処にて、鼻合ヲシテ互に洞天(動転)シケリ。
然トハ申せ共、互に籏ヲ立て則合戦仕初て、且ハ戦ケルガ三郎五郎打負サせ給ひて盗人来迄打レ給ふ。盗人来にハ弾正之忠籏の立ケレバ、其よりモ、モリ帰シテ、叉小豆坂之下迄打、又、其より押帰されて打レケリ。
其時之合戦は対々トハ申せ共、弾正之忠之方ハ二度追帰サレ申。人モ多打レタレバ駿河衆之勝と云。
其より駿河衆ハ藤河え引入、弾正之中は上和田え引て入。其より案祥え引テ、案禅にハ舎弟小田之三郎五郎殿ヲ置給ひて、弾正之忠は清須え引入給ふ。
三河にて小豆坂之合戦トツタエシハ此事にて有。」(大久保彦左衛門忠教「三河物語」。改行を施した)
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3月22日
・越前守護朝倉孝景(56)、足羽郡波着寺参詣の途中で急没。子の義景(16)が家督継承。天文21年6月将軍義輝の「義」の偏諱を受けて義景と改め、左衛門督に任ぜられる。
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3月23日
・山科言継、山科家数代を通じ例のない正二位昇進(「言継卿記」3月23日条)
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4月3日
・諏方頼継、府中をたち高遠へ帰城。
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4月5日
・信濃守護小笠原長時、村上義清勢力糾合し、諏訪下社乱入。
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5月
・三好長慶、一族の有力者政長を攻撃
三好政長が、摂津池田城主の家督問題に介入、池田信政を晴元の管領邸で切腹させ、その子長正(三好政長の外孫)に家督を継がせようとする。
三好長慶はこれに反対、政長攻撃のため中島・榎並(守口市)に迫る。
政長は長慶父・元長没後の三好一族の有力者であるが、長慶は、一族の統制を乱すものとして政長を除こうと決意。理由は、政長の子・政勝が戦場を放棄し放火したこと、政長が細川晴元に長慶追放を進言したとこと、政長が父・元長討死の裏で暗躍したことを遊佐長教から聞いたことなど。
細川晴元は、長慶を切り三好政長を支援しようとし、晴元・政長と長慶との対立は決定的。10月、長慶は岳父・遊佐長教と連携し、細川氏綱を奉じ、細川晴元に対抗。
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切腹を命ぜられるに至る理由は、氏綱出現以降の摂津国衆の細川京兆家に対する叛服常ない態度へ報復したものだが、表向きの理由は遊佐長教(既に幕府と講和しているにも拘らず)とかつて通じていたというもので、根拠薄弱で説得力を欠くもの。
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長慶が政長を除こうと謀る直接の動機は、天文元年の一向一揆導入経緯を長慶の岳父遊佐長教が知っていて、元長謀殺に大きな役割を果した政長のことを、長慶に教訓したからであるという(「続応仁後記」)。
政長打倒の檄は池田城・伊丹域へ飛ばされ、これに対し、池田城(信政謀殺に怒っている)は長慶に同意するが、伊丹氏は氏綱出現以降も一貫して晴元に忠誠を誓っており、長慶の挙兵に反対する。
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5月15日
・アウグスブルグ帝国会議。30日、神聖ローマ皇帝カール5世、カトリックに有利な「仮信条協定(インテリム)」採択。ハプスブルク家が1512年に所有した領土と以降に入手した領土、フランス支配から解放したフランドルとアルトワをブルゴーニュ領域に入れる。ネーデルランド統一強化.。カトリックを全領土で再建、ルター派には両種聖餐指揮と司祭の結婚を認める。
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・皇帝カール5世、「インテリム」に反対するシュトラースブルク、コスタンツを陥落。中部ドイツ以南ではインテリムを拒否する都市・領国はなくなる。残るは北ドイツのみ(ハンザ同盟の帝国自由都市ハンブルク、リューベック、ブレーメン。マクデブルク(エルベ河下流))。
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5月28日
・朝廷、京都山科郷を足利義輝の料所とする(「言継卿記」)。
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