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反対側は牛ヶ淵
昔、九段坂が細くて急な坂だった頃、
牛が引く荷車がたくさん落下したことからこの名が付いたと云う。
牛ヶ淵、千鳥ヶ淵ともに、
城壁は大半が自然の地形(土手)をそのまま生かし、
上部に僅かの石垣が築かれる形式。
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反対側は牛ヶ淵
昔、九段坂が細くて急な坂だった頃、
牛が引く荷車がたくさん落下したことからこの名が付いたと云う。
牛ヶ淵、千鳥ヶ淵ともに、
城壁は大半が自然の地形(土手)をそのまま生かし、
上部に僅かの石垣が築かれる形式。
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硯友社跡
中坂上
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明治18年(1885)、尾崎紅葉は山田美妙らと共に日本初の文学結社硯友社を設立、
機関誌として日本初の純文芸雑誌「我楽多文庫」を発刊。
明治21年(1888)、東京帝国大学学生の紅葉は中坂上に引っ越し、
硯友社の事務所を住居とした。
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硯友社跡
中坂上
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明治18年(1885)、尾崎紅葉は山田美妙らと共に日本初の文学結社硯友社を設立、
機関誌として日本初の純文芸雑誌「我楽多文庫」を発刊。
明治21年(1888)、東京帝国大学学生の紅葉は中坂上に引っ越し、
硯友社の事務所を住居とした。
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大石学「坂の町・江戸東京を歩く」(PHP新書)より
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九段坂
『御府内備考』飯田坂の項に「今九段坂ともいへり。近き頃まで家居九段に作りなせしゆへなり。今はそれも名のみなり。むかし飯田喜兵衛が任し所なり」とある。古くは飯田坂と称していたが、坂に沿って九段の家並を設けたことから九段坂と名づけられたという。
九段の家並については、『麹町区史』に、宝永6年(1709)の将軍代替わりの頃、この坂に沿って九段の長屋を作り、御花畑路地方の役人を住まわせたとある。
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九段坂は険難な坂として知られていた。坂自体の急峻さもあるが、坂の南側に広がる深い堀(牛ヶ淵)との相乗効果のためである。その堀の由来は、「昔此處へ銭積たる牛車落て、その牛死せしよりの名といふ」(『江戸名勝志』)とある。
中坂下に住んでいた滝沢馬琴は、その著『燕石雑志』に「午淵は車牛の墜たれば名とすといふ。さる故にや。今も九段坂は車をひく事を禁ぜらる」と、この随筆を執筆した文化年間(1804~18)当時も、危険なため車の類を通行禁止にしていたと記す。
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「★東京インデックス」をご参照下さい
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坂の町・江戸東京を歩く (PHP新書)
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