治承4(1180)年5月23日
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・平氏はまだ軍事行動を発動しない。
平氏は、三井寺・延暦寺・興福寺の意図と行動を明確に把握していない。
世上の噂では、平氏軍が京中の人を率いて福原に下向する予定とか、南都の大衆が26日入京するなど、縦横の風聞に京の上下がかきまわされている。
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・この日、藤原定家(19)、父俊成と共に外祖母藤原親忠妻の法性寺邸に移る。
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「三井寺の衆徒等城を構え溝を深くす。平家を追討すべきの由、これを僉議すと。」(「玉葉」23日条)。
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5月24日
・六波羅では、山門・寺門・興福寺方面などの状況を窺い以仁王の行方を探り、各方面の情報を集めている。
夜1時頃、頼政の菩提樹院の堂が焼ける。頼政方が焼いたと伝えられる。
また山の座主明雲が延暦寺に登って三井寺攻撃を勧めると、大半承諾したとのしらせも来る(「玉葉」「山槐記」)。
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「今夜丑剋許りに、頼政入道の菩提寿院、火を放つと云々。河原の家の如く自らこれを焼かしむるか」(「山槐記」5月24日条)。
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以下は、この頃のいわゆる山僧とか悪僧とか呼ばれる者たちのプロフィールがよくわかるので、先回の「競」の物語と同様に、物語世界でのこのテーマの扱われ方について記します。
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■「平家物語」の叙述
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□「永僉議」(ながのせんぎ)(「平家物語」巻4):
三井寺で六波羅夜討ちの論議。
平家の祈祷の師の一如房の阿闍梨真海(しんかい)は、評議を引き延ばす。
乗円房の老僧阿闍梨慶秀は、自分の宗門の僧は六波羅に押し寄せ討死にせよと言い、円満院大輔源覚(げんかく)は夜が更けるから出発しようと言う。
耐えかねた一老僧が議論を断ち切り、人々はそれに同調。
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□「大衆揃」(たいしゅぞろえ)(「平家物語」巻4):
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六波羅夜襲部隊の名寄せ。
搦手は、大将軍に源三位入道頼政、乗円房の阿闍梨慶秀、律成房(リツジャボウ)の阿闍梨日胤、師法師(ソチノホウイン)禅智、禅智の弟子の義宝(ギホウ)、禅永(ゼンヤウ)ら1千。続松(タイマツ)を持って如意が峯に向う。
大手は、大将軍に伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱、六条蔵人仲家、その子蔵人太郎仲光、円満院の大輔源覚(タイフゲンカク)、成喜院の荒土佐、律成房の伊賀公(イガノキミ)、法輪院の鬼佐渡。
平等院には、因幡堅者(リツシヤ)荒太夫、角六郎房(スミノロウロウボウ)、島の阿闍梨、筒井谷の法師、卿(キヤウ)の阿闍梨、悪小納言、北院では金光院の六天狗、式部、大輔、能登、加賀、佐渡、備後ら。
松井の肥後、澄南院の筑後、賀屋房(ガヤノボウ)の筑前、大矢の俊長、五智院の但馬、乗円房の阿闍梨慶秀の房に住む60人のうち、加賀、光乗(クワウジヨウ)、刑部俊秀、法師仲間では一来(イチライ)法師の武勇に及ぶものはない。
堂衆では筒井の浄妙明秀、小蔵尊月(ソングワツ)、尊永、慈慶、楽住(ラクジウ)、鉄拳(カナコブシ)の玄永(ゲンヤウ)、武士では渡辺省(ハブク)播摩次郎、授(サヅク)薩摩兵衛長七唱(チヤウジツトナフ)、競滝口(キホフノタキグチ)、与右馬允(アタフノウマノジヨウ)、続源太(ツヅクノゲンタ)、清(キヨシ)、勧(ススム)を先として1500余が三井寺を出発。
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①「乗円坊の阿闇梨慶秀」は、多くの房人を擁する長老格の老僧(80余歳)。
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②「律成坊の阿闇梨日胤」は、「吾妻鏡」治承5年5月8日条に、「園城寺律静房日胤の弟子僧日慧(師公と号す)鎌倉に参着す。かの日胤は千葉介常胤が子息、前武衛の御祈頑師なり」とある(坂東八平氏の流れを引く千葉常胤の子で、頼朝の祈祷師)。
「玉葉」治承4年5月19日条に、「伝へ聞く、昨日園城寺に遣はさるる所の僧綱の中、房覚僧正一人去夜帰洛す。かの宮猶出し奉るべかぎる由、大衆申し切り了んぬ。凶徒七十人許り、その中律上房・尊上房、この両人張本たりと云々」とある「律上房」と同一人物。
三井寺衆徒中の活動分子でその張本。この戦いでの日胤の討死が、千葉氏を頼朝挙兵に加担させる動機になったと考えられる。
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③「師の法印禅智」は、太宰師であった中納言藤原俊忠の子で俊成の弟。のち累進して、法印・権大僧都に補せられる。義宝と禅永はその弟子。
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④「円満院大輔源覚」は、早くから寺内の活動分子として知られ、叡山との紛争では三井寺衆徒の張本として活躍。
後段の「宮の御最期」では、宇治での戦いで活躍をしたのち、武装のまま宇治川を潜って対岸に渡り、三井寺に戻ったとされる。
「円満院」は、第29代座主大僧正明尊によって創建された寺で、代々の法親王の住む門跡寺院として重きをなす。もと山城国の愛宕郡岡崎村(京都市左京区)にあつたが、天文年中(1532~5)に三井寺の山内に移転して現在に至る。
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⑤「律成坊伊賀公」は、律成坊の阿閣梨日胤の弟子と思われる人物。高倉の宮を守って奮戦し光明山の鳥居の前で討死したと「宮の御最期」に描かれる(律成坊の阿闇梨日胤とも混同される)。
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⑥「成書院荒土佐」。正しくは「常喜院」。民部卿藤原泰憲が建立。この常喜院に所属した僧徒。
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⑦「法輪院鬼佐渡」。「法輪院」は権僧正源泉によって開かれた寺で、その法輪院に所属する僧。この円満院の大輔源覚・律成坊の伊賀公・法輪院の鬼佐渡・成喜院の荒土佐の4人は、「これ等は力の強さ、弓箭打物取っては、如何なる鬼にも神にも合はうといふ、一人当千の兵なり」とり、三井寺の僧兵の中でも知られた精鋭。
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⑧平等院の僧徒。平等院は三井寺の中院にある寺で、村上天皇の皇子兵部卿致平(ムネヒラ)親王が出家して創建。その子の永円が院主となり、平等院僧正と呼ばれる。
高倉宮が三井寺入りした際、この平等院を居所にしたとある。因幡竪者荒大夫・角六郎房・島阿闇梨は、その住僧。
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⑨「筒井法師」。「筒井」は、南院三谷の一つで、三井寺総門の南にあった筒井谷のこと。筒井法師は、この筒井谷にあった僧坊を拠点にする僧。「筒井浄妙坊明秀」もこれに含まれる。
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⑩「北院」は、三井寺三院の一つ(三井寺は三院・五別所からなり、中院を中心として北に「北院」、南に「両院」がある。「金光院六天狗」の「金光院」は、この北院に属した僧坊で、新羅三郎源義光の創建と伝えられ、その子の覚義をその院主とする。
「金光院六天狗」は、その金光院に所属する6人の僧徒の事で、「天狗」と呼ばれるのは武芸自慢の荒法師であったと推測できる。
「式部大輔・能登・加賀・佐渡・備後・松井肥後・澄南院筑後・賀屋筑前・大矢俊長・五智院但馬」の10人も北院の住僧と思われる。
「大矢俊長」は、「橋合戦」に川越しに敵陣に矢を射込む強弓の者としてその名が挙げられている。
「五智院但馬」は、「橋合戦」の緒戦の矢いくさの場面で、単身橋桁の上に出て降り注ぐ敵の矢を身軽にかわし「矢切りの但馬」の異名をとったとある。
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⑪「慶俊が房人」。「房人」は、同じ僧坊で共同生活をする多様な人々のこと。「加賀・光乗・刑部春秀」の3人のうち、「刑部春秀」は後段で左馬頭源義朝の家人で相模の豪族山内の須藤刑部丞俊通の子とされる。
「法師ばら」(僧坊を管理する房主などに使役される低い階層に属する多数の下級僧)の「一来法師」は、「橋合戦」で「乗円坊の阿闇梨慶秀が召使ひける一来法師」と述べられている。
「堂衆(ドウジユ)」は寺院の諸堂に属し雑役に使われる僧)として、「筒井の浄妙明秀・小倉の尊月・尊永・慈慶・楽住・鉄拳の玄永」らが挙げられる。
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⑫渡辺党の武士たち。
「省」は源頼光の家来渡辺綱の曾孫にあたる滝口大夫伝(ツタウ)の子右馬允満に次男で、播磨守となり播磨の次郎と呼ばれた人。
「授」は、その満の次男で、「惣官・薩摩守・兵衛尉」(「尊卑分脈」)とされ、通称を薩摩兵衛という。
「唱」は、伝の嫡男左衛門尉の第3子源五郎教(オシウ)の子で、長七と称す。
「競」は、満の弟右馬允昇(ノボル)の子、或は満の子で昇の従兄弟の省の子ともいわれ、滝口の武士を名のりにしている。
「与」は、授の弟。「続」は、教の嫡男で、競の兄。「清」は、昇の弟である計の子。
「勧」は、伝の父滝口大夫安(ヤスシ)の弟で、伝の叔父摂津権守精の子。
「続」と「唱」は兄弟、「省」はこの2人の祖父「重」の弟「満」の子で、「授」と「与」の兄弟の父。「競」は「満」の弟「昇」の子で、「昇」の兄「満」の子の「省」や、「昇」の弟「計」の子の「清」とは従兄弟同士。「計」の叔父「至」の子が「勧」で、彼から見ると「省・競・省」は従兄弟の子、「授」と「与」、「唱」と「続」は、従兄弟の孫とる。*
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出撃に際し、敵襲に備えて掘りめぐらした堀に橋を架け、掻楯や逆茂木などの防塞を取り除く作業などに思わぬ時間がかかり、逢坂の関に差しかかった時には、夜明けを告げる鶏の鳴き声が聞こえる。
これを聞いた大将の伊豆守仲綱は、このまま進撃すれば六波羅に到着するのは昼間になるであろうと思案し配下と相談する。
円満院の大輔源覚は、函谷関での孟嘗君の故事を引き、「いま聞こえた鶏の鳴き声も、敵が味方をたばかるために鳴かせたのであろう」といって、進撃強行を主張。
しかし、仲綱の懸念した通り、5月の夜は短く、まもなく東の空が白み始める。昼の戦いでは、劣勢な軍兵では勝ち目はないと判断し、全軍を呼び戻し、三井寺に引き返す。
若い衆徒達は、一如房阿闍梨の永僉議のせいとして宿坊に押し寄せ焼討ち。防戦した房人達は打ち殺されるが、一如房阿闍梨は六波羅に逃亡。六波羅には既に数万騎の軍兵が集結しており、いささかも動揺の色はない。
25日夜半、高倉宮は三井寺を出て奈良へ向かう。宮は、老僧は三井寺に留め置き、若い衆徒や悪僧を連れて行く。総勢1千。
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