2009年10月10日土曜日

天文16(1547)年1月~6月 信長初陣 イヴァン雷帝即位 ヘンリ8世没 フランソワ1世没 勘合貿易終了 信玄家法制定 [信長14歳]

天文16(1547)年 [信長14歳]
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この年
織田信長(14)、初陣
三河の吉良大浜城に進出の今川勢を攻撃。平手政秀を介添えに紅筋の頭巾・馬乗り羽織・馬鎧の軍装。自ら指揮をとり各所に放火。その日は野陣を張り翌日那古野に帰陣(「信長公記」)。
この頃、信秀の勢力は安祥城を拠点に西三河方面に進出し、今川氏との間で係争が繰り返されている。
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・織田信秀、古渡城を破却し新たに末盛城を築いて居城とする(「信長公記」)。
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・この頃、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、プロヴァンスの町サロンへ防疫のため出張。ここで未亡人アンヌ・ポンサールと結婚。子供6人。「サロンの町の星占いの医師」として有名になる。新教臭のある人間として見なされる。
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1月
・一条家と細川国慶の間で地子銭徴収を巡る紛議。「上京中地下の輩」200余が合力。結局鹿王院の禅僧龍西堂の中分によって落着(「言継卿記」正月11日条)。
晴元政権下で町衆が干与した唯一の検断の例であるが、前将軍義晴・将軍義輝らが坂本に逃亡している期間ので、将軍在京中で幕府が正常に機能している間は、町組による検断発動の例は見られない。
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1月2日
・ジェノヴァ、総督アンドレア・ドリアに対するジョヴァンニ・フィエスコのクーデタ(教皇の扇)、失敗。北イタリア諸都市(ミラノ、パルマ等)、反皇帝派の動きが活発化。
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1月16日
・モスクワ公国、イヴァン4世(雷帝)、ロシア皇帝即位。ツァーリを称する。
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1月28日
ヘンリ8世(55)、ホワイトホール宮で没(1491~、位1509~)。梅毒悪化のため。2月25日、エリザベス1世の異母弟エドワード6世(9)、即位(1537~1553、位~1553)。
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1月31日
・エドワード6世伯父(ルター派)エドワード・シーモア(サマセット公)、摂政となる。
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2月
・毛利元就次男元春、吉川家養子の約成立。
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2月20日
・劣勢の晴元側の反撃。
細川晴元方の三好長慶・義賢兄弟、(表面上は中立を装う)将軍義輝と父・義晴に対抗して阿波守護細川持隆・畠山上総介らと細川氏綱方の摂津原田城(大阪府豊中市原田)陥落。3月2日、三宅国村の三宅城(大阪府摂津市)陥落。晴元は茨城まで進軍。
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3月
・この月朔日付文書にある若狭猿楽の気山座の気山五郎三郎に、中央の観世左衛門尉・保正源次郎・宮増弥左衛門3人の判が押された鼓・笛の伝書が相伝される。
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小鼓の名人宮増弥左衛門は晩年を若狭で過ごし、弘治2年74、5歳で没。
「弥左衛門若狭国にて、弘治二丙辰七月十三日に、七十四五にて果てらる」(「四座役者目録」)。
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3月8日
'・武田晴信、高遠城の鍬立をする。
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3月29日
・前将軍義晴父子、細川晴元討伐のため坂本から北白川城(勝軍山城)入り。細川氏綱を助力することを鮮明にし晴元・長慶軍と対抗。しかし、義晴が味方したくらいでは氏綱の助けにはならない。
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3月31日
・仏、フランソワ1世(53、在位33年)、没(1494~1547、位1515~1547)。アンリ2世(28)(王妃カトリーヌ・ド・メディシス)が王位継承(1519~1559、位1547~1559)。
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この頃のキーパーソン
モンモランシー(大元帥、砲兵隊大隊長、ラングドック地方総督)。
②モンモランシー甥(姉の息子)シャティヨン3兄弟:長兄オデ(シャティヨン枢機卿、莫大な教会財産、ボーヴェ司教領(パリ北方約70Km))、ガスパール・ド・コリニー(歩兵隊指令大佐、叔父モンモランシーとフランス全軍掌握)。
③ギーズ一族オマール伯フランソワ(フランス第一親王、ナヴァール王、アントワアンヌ・ド・ブルボンと同等の地位、公爵の称号、ノルマンディとドゥーフィネの総督)。
ジャック・ダルボン・ド・サン・タンドレ(元帥、リヨン、オーヴェルニュ、ブルボネの総督)。
⑤寵姫ディアンヌ・ド・ポワチエ(48才、フランソワ1世寵姫エタンプ公爵夫人の宝石類、確認税(官位取得者が支払う税金)、教会の鐘に課す特別税、所有者不明で国有地となった土地、ユダヤ人や異端者(新教徒)から没収した財産、シュノンソー城を自分のものにする。1548年9月23日ヴァランチノワ公爵夫人に任ぜられ王族に列せられる)
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4月1日
・細川晴元・三好長慶、相国寺に布陣し北白川城を攻撃、吉田・鹿ヶ谷・浄土寺・北白川諸郷を放火、慈照寺を破却。
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4月24日
・シュマルカルデン戦争終結。
神聖ローマ皇帝カール5世、ザクセン公マウリッツと合流しエルベ川近くのマールブルク(ミュールブルク)の戦いでプロテスタント諸侯同盟軍破る。
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ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ(捕虜)、ヘッセン地方伯フィリップ、降伏。
ザクセン選帝候ヨハン・フリードリヒ、「選帝候位」と「領地の大半」をモーリッツに与える。選帝候は、シュマルカルデン同盟より脱退(2度と皇帝・ローマ王への陰謀に荷担しない)。ヨーハン・フリードリヒはその後数年間囚われの身となる。
・ヘッセン方伯フィリップ、カール5世に降伏(娘婿ザクセン選帝候モーリッツが降伏に際し皇帝と折衝)。降伏条件はザクセン前選帝候より過酷(シュマルカルデン同盟脱退、全領地没収、領内全要塞取り壊し、武器弾薬差出し、賠償金15万クラウン)。降伏儀式後、カール5世は捕囚のまま据え置く(「皇帝は嘘つき、約束を違えることがある」 との印象を人々に植え付け、モーリッツがカール5世より離反する原因の一つ)。
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アルブレヒト候モーリッツは、皇帝側の勝利の後にザクセン選帝侯となり、彼の宮廷が置かれていたドレスデンがザクセン選帝侯領の中心地となる。
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5月
勘合貿易終了
最後の遣明船(大内船)出航。平和的貿易の途が閉ざされ、再び倭寇が激化。世宗嘉靖34(1555)年嘉靖の倭寇で頂点に達す。
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また、この月20日、幕府は、遺明使(僧策彦周良)を肥前五島から出発させる。医師吉田宗桂、遺明使に従って明に渡る。
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5月6日
・佐久郡内山城将大井貞清父子、甲府に出仕。
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6月
・武田晴信、「甲州法度之次第」55ヶ条を制定。天文23年迄に57ヶ条に増補。
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信玄が領地にしいた唯一の武家法。分国法。「信玄家法」「信玄御式目」「信玄法度」ともいう。
家臣団の知行制や、その維持についての在地との関係を細かく規定。上下巻からなり上巻57箇条・下巻99箇条。下巻は永禄元(1558)年4月に信玄の弟信繁が定める。上巻は法律的内容(軍略、家臣団統制、治安規定など)を持ち、下巻は中国の古典などをもとにした教訓的色合いが濃い家訓。
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[特徴]
第1条、領主が罪科人(敵対者)の跡地の勝手な没収を禁止。武田氏の知行権としての安堵・宛行権を確認。占領地での没収地にも関わる。
第2、24、27、28条は、訴訟は奏者や奉行人の取次を経ると明示。背景として家臣団間での寄親・寄子関係(軍団編成の基盤となる擬制的な親子関係)が想定されている。
第12条は恩地(勲功の褒美として与えられた土地)売却の禁止(知行制維持の条項)。
第38~51条は、知行人の借銭・負物(オイモノ)法度(その法意は土地制度の固定化)。
第7、10、11条は、知行人の保有地である名田の保持の義務付け(軍役確保の狙い)。
他に、喧嘩両成敗、他国との婚姻関係の禁止、違反者への罰則規定など、家臣としての領主や地侍の統制に関わるものであり、全体に占める割合が多い。
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第6、7、9条は、百姓地保持と、年貢滞納禁止、同時に領主の非違(違法行為)も抑制。
第13条は百姓の陣夫(軍に徴用され労役に従事する民)に関するもので、陣夫の戦死・逃亡についての規定。
第15、16条は人返し令(奴稗までを対象)。
第21条は川流れの流木の扱い規定。
第32~37条は人頭税としての棟別役(ムネベツヤク)規定(細かい棟別掌握の内容)。
第42条は鐚(ビタ)銭法度。
第54条は百姓の質物処分の規定で、年期内での処分を禁じる。
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これらは、大名とその家臣団としての領主・地侍間での係争、領主・地侍とその支配下の農民らの間で起こる可能性の高い係争を想定し、それらの係争を「国法」として規制。条項の根幹は、本領甲斐国内の先例が中心となっており、その対象には占領地も含まれる。従って、信濃侵攻という領国拡大経過の中で、現実問題として課題となってきた事項の対処策として成文化される。最後の第55条では、信玄自身のこの法度への非違についての提訴権も明記。
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名主百姓以下に対する地頭領主の裁判権を制限して、これを武田のもとに集中し(1条)、国内の者の他国・他家との縁約・被官関係を禁じ(4条)、その末尾を「晴信行儀その外の法度以下において、旨趣相違の事有らば、貴職を撰はず目安を以て申すぺし、時宜により共の覚悟を成すぺし」と結ぶ。
将軍が補任する守護の資格ではなく自らを最高権力主体として設定し、これを一国の貴職の批判に委ねる事で自らを公的権力に高める。
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「一、国中の地頭人、子細を申さず、恣に罪科の跡と称し、私に没収せしむるの条、甚だ自由の至なり。若し犯科人晴信の被官たらば、地頭の綺有るべ からず。…。
一、私領の名田の外、恩地領、左右無く沽却せしむる事、これを停止せしめ訖ぬ。此の如く制すと雖も、拠ろなくば子細を言上し、年期を定めて売買せしむべきの事。 
一、内儀を得ずして他国へ音物書札を遣はす事、一向に停止せしめ畢ぬ。…
一、喧嘩の事、是非に及ばず成敗を加ふべし。…」
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6月
・フランス艦隊、スコットランド沖到着。スコットランド皇太后マリー(カトリック、フランス・ギーズ家出身)がフランスに支援要請したもの。
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6月17日
・京都本能寺・本国寺・法華寺、山門宗徒との和談条規を制定。
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6月18日
・[明・嘉靖26年6月2日]守護大名大内氏派遣の遣明船、定海に到着。
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6月20日
・ロシア、モスクワ大火。
寺院、ツァーリと府主教の宮殿など焼失。犠牲者1700。グリンスキー一族の陰謀風説。26日、大火で家を失った民衆、クレムリン広場に集められ、グリンスキー宮殿略奪、家臣・使用人虐殺。3日後、群集はグリンスキーの領地に押しかける。イヴァン雷帝、発砲命令。数名処刑で沈静化、ツァーリの権威高める結果となる。
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イヴァン4世(雷帝)の改革。
①イズブランナヤ・ラーダ(選抜者会議)設置。モスクワ府主教マカーリー、司祭シルヴェストル、貴族アレクセイ・アダーシェフ。
②都の再建。
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6月25日
・芥川孫十郎、氏綱側の薬師寺元房の芥川城を無血開城。池田城の池田信政も、三好政長に謝罪状を呈し開城。
これら摂津国衆は、無節操、右顧左眄に、あくまで形勢を判断して利につく。
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6月26日
・スイス、カルヴァンの神政政治に反対のジャック・グリエ、処刑。
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