天文16(1547)年 [信長14歳]
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7月
・北條氏康、下総相馬に軍勢を派遣。
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・カール5世、アウグスブルグの「甲冑に鎧われた」帝国議会。9月、宗教問題の仮協定(インテリム、暫定規定)提案。ルター派に不利な決着。
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・スコットランドで、フランス軍、セントアンドリューズ城篭城のプロテスタントを攻撃。指導者ジョン・ノックスら捕縛
(2年間ガレー船漕ぎ手として服役。1549年釈放。イングランドに渡りエドワード6世付宮廷牧師となる。後、ドイツ~ジュネーブ~スコットランドに一時帰国、更にジュネーブを転々として、1559年再びスコットランド帰国)。スコットランドの宗教改革は一旦挫折。
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7月1日
・トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ3男ガルツィア、誕生(1562/11/26、狩猟中、長男ジョヴァンニを殺害、父コジモに殺害される)。
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7月6日
・細川晴元、幕領上久世荘を東寺に還付。
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7月10日
・ジャルナック事件。
サン・ジェルマンの森でエタンプ夫人派とディアンヌ派が決闘裁判。国王アンリ2世、王妃カトリーヌ・ド・メディシス、ディアンヌ・ド・ポワチエ見物。
エタンプ夫人側(ジャルナックの男爵ギー・シャボ)が、前評判に反して決闘に勝利。ディアンヌ側はシャテニュレー領主フランソワ・ド・ヴィヴォンヌ。
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7月12日
'・7月に入り、丹波の細川党は高雄方面に進出、畑(右京区梅ヶ畑)一帯を焼払い、12日に入京、相国寺に着陣。前将軍義晴は北白川瓜生山に駐留するが、形勢は氏綱側に不利、頼みの近江守護六角定頼も晴元に款を通じ、京都で将軍父子は全く孤立。
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7月18日
・武田晴清・諸軍8千、志賀城攻め出撃させる。
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7月19日
'・細川晴元・三好長慶、将軍足利義晴らを北白川城に攻撃。前将軍義晴・義輝父子、自ら北白川勝軍山地蔵山城を焼き、晴元・長慶軍と和睦し、近江坂本へ逃亡。
畿内の大半は、河内・大和を除いて細川晴元が制圧。残るは氏綱側の中心人物、河内守護代遊佐長教の高屋城。
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7月21日
・舎利寺の戦い(鉄砲伝来以前で畿内最大規模の戦闘)。三好長慶、畿内支配者となる。
河内の十七箇所(守口市)に集結の三好長慶・政長らの先陣三好義賢・安宅冬康は、南進して、高屋城から北進の細川氏綱・畠山政国・遊佐長教らと摂津舎利寺(生野区)で遭遇、大勝。
長慶の勢力は一段と強まり、武名は畿内近国に轟く。
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「爰(ココ)ニテ行合、両方矢軍(ヤイクサ)を止メ、相カゝリニ懸ル、三好ヨリ畠山総州卜松浦肥前守(興信)ノ手一番ニ進ミ、互ニヤリ合ノ数刻ノ戦ナリ。両方ノ鑓数数百本ノセリ合有。近代無双ノ大ゼリ合ナリ。河内ノ衆三木午(ウマ)ノ助ヲ初トシテ、究寛(屈強)ノ兵四百人打死シケレバ、忽敗北シテ落行ケル。四国衆モ篠原雅楽助、安宅左京亮初テ五十余人打レニケル。今日合戦ハ松浦衆卜畠山総州衆ノ惣勝也トゾアツカイケル。」(「足利季世記」)。
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興福寺の記録「二条寺主家記抜粋」にも「両方二千人計討死云々」とある。
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敗報が坂本に届くや、足利義晴は、晴元・定頼に和睦の使いを出し、閏7月1日帰京。舎利寺から高屋城に逃げ戻った遊佐長教らは防備を固めるが、長慶・義賢らは住吉郡~河内に入り、藤井寺に近い若林(松原市)に迫る。
長教らは足軽を城から出して、鑓合せの瀬踏みを試みるが、城中にも義晴講和の情報が流れてくる。
長慶は若林の陣で越年、滞陣8ヶ月に及び厭戦気分が充満。
氏綱・長教は梯子を外され形になり、六角定頼の斡旋により、奈良において密かに長慶と講和。波多野氏の娘を離縁していた長慶と長教の娘の婚儀が纏まり再婚。河内・摂津両守護代同志の政略婚であり、長慶は、当分、河内方面を気にせずに軍事を動かすことができる。
翌年、長慶は主人細川晴元に叛旗、自覚した戦国大名の道を歩む。
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7月25日
・アンリ2世、ランスで戴冠式。ランス大司教シャルル・ド・ロレーヌが聖別(ロレーヌ枢機卿、ギーズ一族、オマール伯フランソワ弟)。アンリ2世、ピエーロ・ストロッツィとコリニー(モンモランシー甥)にサン・ミシェル騎士団頸飾授与。
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ピエーロ・ストロッツィ:
1558年没。父フィリッポ2世(フィリッポ・ストロッツィ、1488~1538)。母クラリーチェ(小ロレンツォ妹、カトリーヌ・ド・メディシス従兄弟。妻ロドミア(ロレンザッチオ妹)。父が1538年フィレンツェで叛乱に失敗したため兄弟でフランスに逃亡。
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ロベルト・ストロッツィ:金融面を担当、妻マッダレーナ(ロレンザッチオ妹)。
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レオーネ・ストロッツィ:ガレー船団隊長、フランス海軍指揮権掌握。
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ロレンツォ・ストロッツィ:マルセーユの大金持ちの修道院サン・ヴィクトール修道院長、1557年枢機卿就任。
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7月26日
・ジュネーヴで、カルヴァン、ジャーク・グニュエを誣告罪で斬首。
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7月29日
・足利義晴、細川晴元・六角定頼と和睦。閏7月1日、義晴は帰京。
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閏7月上旬
・武田先鋒隊、佐久郡北部の志賀城(笠原新三郎清繁、佐久市志賀)包囲。13日、武田晴信、甲府発。23日、桜井対馬守の居城稲荷山城着。
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閏7月5日
・細川晴元、細川国慶を高雄城に攻略。細川国慶、丹波へ逃亡。細川晴元は神護寺・高山寺を焼打。
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「晴元出陣す。玄蕃頭(細川国慶)高雄山に城(キヅ)きてこれあり。これを責むべしと云々。」(「厳助往年記」閏7月3日条)。
「玄蕃頭高雄城落居す。・・・神護寺の金堂・講堂・塔婆・御影堂・灌頂堂己下一宇残さず悉く以て放火す。・・・」(「同」5日条)。
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8月
・吉川興経、布川(安佐郡)に隠退。元春(元就次男、吉川家養子)が相続する。
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・三好長慶・義賢ら、若林(松原市)の畠山政国の高屋城を攻撃。長慶と政国は和し、長慶は若林を退却。
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8月2日
・松平竹千代(家康、6)、人質として今川義元の居城駿府に送られる途中、戸田康光(三河田原城主)の謀略により織田信秀のもとに連れ去られる
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2日、舟で西郡(蒲郡)から大津(豊橋市老津)に渡り、陸路駿府に向かう予定のところ、田原城の戸田宗光・尭光父子が舟で行く方が安全と勧め、竹千代一行を織田信秀の尾張に連れてゆく。信秀は竹千代を人質に取ったとして、広忠に織田方になるよう要求するが、広忠はこれを拒否。怒った今川義元は、天野景泰らに命じ、戸田宗光・尭光父子の居城田原城を攻めさせる。8月末、田原城を包囲。9月5日、落城。
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尾張の織田信秀が西三河へ侵攻する構えをみせるが、岡崎城の松平広忠には、自力で信秀を押し戻す力はなく、この年、今川義元に対し、援軍派遣を要請。
義元はこれを了承するが、広忠の嫡男竹千代(のちの家康)を人質として駿府に差し出すよう要求。広忠は、この要求を呑まざるをえず竹千代(6)を、人質として駿府に送ることになる。この途中の出来ごと。
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9月3日
・織田信秀軍、美濃攻め開始。22日、織田勢、斎藤道三の稲葉山城下まで迫るも、反撃され、織田勢50人と織田信康(信秀次弟)討死(美濃崩れ)。戦死者はのちに織田塚とよばれる塚に葬られる。「信長公記」では討死5千と記されるほどの大敗。
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9月8日
・パリ高等法院に特設異端訴訟部(「火刑裁判所」)創設。新教徒弾圧強化。2年間(1547年5月~1549年3月)に焚刑39人。
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11月上旬
・斉藤道三、9月22日の大勝の勢いで近江勢の加勢を得て美濃大垣城(城主織田播磨守)を攻める。
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11月17日
・織田信秀、木曽川渡河し美濃へ侵攻、竹が鼻・茜部を攻撃。斎藤道三、大垣城攻囲を解き稲葉山城に籠もる。20日、清洲の守護代の手勢が信秀の美濃国出陣中の留守を窺い古渡城へ軍勢を派遣、町口に放火し信秀への敵対を表明。信秀はこの報に接し帰陣。
この後、平手政秀が「清洲おとな衆」坂井大膳・坂井甚介・河尻与一らと和睦交渉を行うも不調に終わる。翌年秋末講和成立。(「信長公記」首巻)
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12月
・松山城の上田朝直、北條氏康に応じる。
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・ロシア、イヴァン4世(雷帝)、対カザン(タタール人)作戦開始。ヴォルガ河凍結に難渋。モスクワへ引き上げ。
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12月7日
・斎藤利政(道三)、初めて本願寺に音信を通じ、「大樽庄五ケ村内ニケ村、一向年貢無沙汰」(「石山本願寺(証如上人)日記」12月7日条)の取りなしを俵頗。
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美濃と周辺の一向衆の状況。
一向衆と大名権力との在地における対抗。美濃羽粟郡本庄郷木瀬の「河野惣遥瘍」といわれた東福寺をはじめ木曽川を挟んで濃・尾羽(葉)栗郡にわたる「河野九門徒」、更に美濃厚見郡の九門徒を合わせて「河野十八門徒」ともいわれた木曾川中流域の一向衆(「国なかの衆」)の結束を中心として、木曾・揖斐川下流からは伊勢長島の願証寺の勢力が遡上、拡大して「国わき衆」といわれ、西三河からも「三ケ寺」の教線が、飛騨・木曾川に沿って尾張中島郡の一帯を中心に、美濃の各務・加茂・厚見ほか諸郡域にまで伸張しつつある。
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12月7日
・マラッカ、日本人弥次郎がフランシスコ・ザビエル(41)と会う。中旬、ゴアヘ帰り、インドの宣教を監督する。
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