明治17(1884)年11月1日~2日の官憲側の動き(3)
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(これまでのあらすじ)
11月2日、困民軍は大宮郷を無血占領し、高利貸し打毀し、軍資金・武器の調達を進める。
一方、官憲側は、三条太政大臣の通行警備の為、県警トップは不在。この間、各警察署長(警部補、山口県士族が多い)は夫々少ない巡査を率い連絡をとりつつ困民軍討伐に深い入りし、数でも装備でも劣る警察隊は手痛い敗北を喫する。
彼ら警察署長らの報告を受けた埼玉県警鎌田警部(国事担当)は、三条の警備もそこそこにして現場に走ることになる・・・。この辺から、本日の展開が始まる。
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10月31日、笹田少書記官(副知事)、江夏警部長(県警本部長)、鎌田警部(国事担当)ら県首脳は、奥州視察を終え埼玉県下を経て帰京する三条太政大臣一行警護のため行田町に出張し、沿道に多数の警官を配置して厳重な警備に当っている。
午後6時、鎌田警部は、寄居警察署長石井警部の急報に接して、警部長に対し「護衛巡査ノ内五十名ヲ寄居町ニ派遺シ、而シテ其補欠ハ幸手其他各署ヨリ募ラバ可ナラン」と申し出るが、警部長は、翌日の警護を重視して進言を容れず、鎌田警部に現地出張を命じる。
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鎌田警部は、田代刑事を伴い人力車で寄居に向う。
途中、熊谷警察署に立寄ると、山室署長(警部)は既に巡査を率い寄居町に向っていた。鎌田警部は、同署詰の福永警部補と巡査5名に随行を命じ、人力車で寄居に急ぐ。
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午後10時、一行は寄居警察署に到着、石井警部から、「風布村ノ山中ニ近村貧民三、四百名、白布ノ鉢巻襷ニテ装ヒ、兇器ヲ携へ集合、時々狼烟ヲ揚ゲ、又ハ発砲スル等、其挙動甚ダ容易ナラザルヨリ、今巡査ヲ出シテ視察中ナリ」との報告を受ける。
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この直後、皆野村の大宮郷警察署長斉藤勤吉警部(埼玉県出身)からの伝令が、「斉藤警部、坪山警部補ハ皆野辺ニ在り、暴徒ノ風布村ヨリ下吉田村ニ行ク者ノ内十六名ヲ揃へタリ」と伝えてくる(風布村大野福次郎らの捕縛)。
ここにおいて鎌田警部は、秩父困民党の本格的蜂起と判断、「巡査ノ繰出方ヲ請求スル」ため、福永警部補を行田の警部長のもとに派遣する。また、「皆野ハ秩父ノ要地タリ、我先ヅ之ニ拠ラザレバ彼必ズ之ヲ取ラン、果シテ然ラバ我之ヲ取ル甚ダ困ムベシ」と判断し、吉峰警部に巡査14名を指揮させて皆野に向わせる。
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深夜、行田で鎌田警部からの報告を聞いた江夏警部長(県警本部長)は、翌日の太政大臣一行警護を笹田書記官に托し、勝田警部(警察本署詰、埼玉県士族、35歳)を従え直ちに寄居に向う。
途中熊谷警察署に立寄り、1日午前1時25分、浦和の警察本署(県警本部)に残留の竹部警部に電報を打ち、警察本署と岩槻・所沢・大和田・飯能の各警察署(分署)に対し、署長を除く警察官全員の寄居向け出動を命令。
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午前5時40分、江夏警部長は寄居警察署に到着。
午前6時、本野上分署応援に赴いている小川分署長深滝警部補から、午前6時30分、小鹿野分署長太田亀次郎(埼玉県士族、27歳)から「只今切迫ノ模様アリテ俄然蜂起スベキヤモ知レズ」との報告が入る。
江夏警部長は「尋常負債党ノ比ニアラザルモノ」と判断、これを笹田少書記官に報告、警部長自ら皆野村へ、場合によっては下日野沢村へ進山するかも知れないと付け加える。次に、鎌田警部に対し皆野への先行を命じる。
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1日正午、鎌田警部は福永警部補・田代刑事・巡査5名を率い寄居を出発、皆野の手前の親鼻の渡船場で荒川を渡った時、吉峰警部が下吉田村戸長役場から差向けた伝令に会う。
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鎌田警部は、「彼多衆ニシテ党類次第ニ加ハリ、其勢猖獗、我隊ハ少数甚ダ危急ナリ、早ク援兵巡査ヲ請フ」との報告を聞き、自ら下吉田の吉峰警部ら救援を決意。
午後3時頃、鎌田警部は皆野村に入り、旅館「角屋」を現地警察本部とし、警郡長への報告に巡査1名を寄居へ派遣し、下吉田村に向う。
荒川を渡り野巻村に入った時、大宮郷警察署の金子巡査が、半纏姿で下吉田から逃げ帰ってくるのに行きあい、吉峰警部らが困民軍の攻撃により四散した事を知る。ここで鎌田警部は、劣勢での深入りの非を悟り、皆野村で増援来着を待つ事にする。
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一方、寄居警察署では午後2時頃までに警察官約40名が集合、江夏警部長は勝田・石井・山室3警部と巡査全員を率い皆野に向う。皆野近くで、本野上分署長雨宮警部補に出会い、下吉田村での吉峰警部らのと戦い、「互ニ死傷アリ」との報告を受け、「皆愕然色ヲ失ッタ」が、急いで薄暮皆野村の現地本部「角屋」に入る。
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江夏警部長は、鎌田警部から「沿道皆賊軍ニ応ジ、道路梗塞シ進ム能ハズ」との報告を聞き、皆野守備のため国神の金比羅坂・黒谷境・荒川渡船場の3ヶ所に警官隊を配置。
この頃、下吉田村から逃げてきた深滝警部補ら巡査数名が、「創ヲ被り、剣ニ扶ケラレテ」辿りつき、「賊軍猖獗、勢当ルベカラズ」と報告。
この夜、小鹿野町に向う困民軍が高利賃の家を放火し、その火焔は皆野からも望見され、「皆野モ又終夜騒然タリ(鎌田冲太「秩父暴動実記」)という状況。
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動員発令による県下各署から巡査は、午後8時まで70余名になるが、賊状が判明してくると、江夏警部長は警察力の不足を痛感し、午後10時、県庁の笹田書記官に対し、三条太政大臣一行警備から帰署したばかりの警部巡査を含め、県下全警察官の皆野参集を要請。
当時秩父郡内には、登録銃だけでも軍銃293挺、猟銃2,025挺あり、困民軍はかなりの数の銃器を装備していると考えら、2日午前3時、江夏警部長は「特(ヒト)り警察ノカヲ以テ鎮圧シ得ベキトハ認メ難シ」と判断し、憲兵派遣要請を決め、特使として野村警部(警察本署詰、27歳、山口県士族)を県庁に派遣する事にする。
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次に江夏警部長は、皆野撤退について協議。
山室(熊谷警察署長、30歳、宮崎県士族)、勝田(警察本署詰、35歳、埼玉県士族)、大西(警察本署詰、36歳、山口県士族)は「一旦退守」を主張。鎌田警部は「当地ハ枢要ノ地ニシテ・・・頑守セザルベカラズ」と反対するが、江夏警部長は最終的に、「明朝皆野ヲ発シ一旦寄居ニ退守」と決断。この間にも暴徒の情報が入り、「彼已ニ小鹿野ニ侵入シ、乱暴ノ後兵ヲ二分シ、一ハ大宮郷こ、一ハ皆野ニ襲ヒ来ラン」と予想され、鎌田警部の提案により直ちに撤退すると決定。
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江夏警部長は鎌田警部に後事を托し、2日午前3時、警部巡査主力を率い皆野を出発。午前7時、寄居警察署に入り、寄居守備のため象ケ鼻・折原・鉢形の各渡船場に警官隊を配置。
殿軍の鎌田警部は、皆野周辺の渡船場警備にあたっている菅野・安岡・福永ら警部補指揮の警官隊を取纏め、負傷巡査を助けて皆野を出発、夜明けに本野上分署に入り、午前9時、寄居に戻る。
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この頃、埼玉県の吉田県令は地方官会議のため上京中で、笹田少書官(副知事)と警察本署(県警本部)竹部警部が留守をあずかっている。
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1日深夜、皆野の江夏警部長からの巡査の至急増派要請を受け、竹部警部は、草加など12警察署(分署)に対し埼玉県警総動員命令を発す(「其署巡査内勤外勤ヲ論ゼズ、尋常事務ハ措キ、一名ニテモ多ク、二人挽車ニテ昼夜兼行、寄居警察へ派遣」命令をを飛脚と警馬(警察専用の伝令馬)で伝える。
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一方、皆野で憲兵派遣要請特使に任命されたた野村警部は、2日午前6時15分、熊谷電信分局から県庁の笹田少書記官あて電報を発す。
「暴徒千人ニ及プ、勢力益々加ハル、至急皆野村へ向ケ憲兵派遣方御請求アリタシ、右警部長ノ命ニ依り上申ス、委細ハ後刻帰庁申上ル 熊谷警察署ヨリ 野村警部 埼玉県庁 笹田少書記官」。
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午前7時、笹田少書記官はこの電報を受け取るが、「昨日来ノ報道ヲ見ルニ、警部巡査ガ鎮圧ニ尽シタル事分明ナラズ、・・・故ニ憲兵ヲ請フ事尚ホ早シ」と判断し、在京の吉田県令に対し、午前9時40分、「暴徒千人ニ及ビ勢力益々加ハルニヨリ、憲兵派遣方請求ノ儀警部長ヨリ申来りタレドモ、憲兵ヲ求ムルニハ尚ホ早カルベシト存ジ、先ヅ他ノ署巡査ヲ繰出ス事ニ取計ヒ置タリ、憲兵ヲ請求スル場合ニ至レバ尚申上ベシ、・・・」と報告。
しかしその直後、県庁に帰った野村警部から、「暴徒勢力益加ハリ、銃砲ヲ以テ進ミ来ル、已ニ昨日下吉田村ニ於テ警部巡査ニ抗敵ス、巡査死傷アリ、彼レハ砲発進ミ来り、我ハ抜刀之レヲ拒グノミ、徒ラニ死地ニ陥ルノ外術ナシ、・・・」との報告があり、続いて、寄居に後退した江夏警部長から、「兵隊ノ出張片時モ早クアリタシ、小官始メ今朝一同寄居へ打揚ゲタリ、増員ノ為メ各署ヨリ募ル巡査、早ク出張ノ取計アリタシ」との電報が届く。
笹田少書記官は「警察予防ノ策尽キタリ」と判断し、午前11時過ぎ、内務卿山県有朋に対し憲兵出動を要請。
この時の笹田少書記官の判断。
「敢テ警部巡査ヲ以テ鎮圧セントスレバ、虚シク時日ヲ延シ、波及モ亦甚カルベシ、且ツ秩父一郡ハ山間ノ僻地ニシテ、猟銃殊ニ多ク、暴徒加ルニ随ヒ銃器従テ加ル、嘯聚日ヲ追ヒ、遂ニ拒グ可カラザルノ勢ニ到ルモ計り難シ、又群馬県南甘楽郡ニ於テ既ニ小民蜂起セシ事ハ、昨夜同県警部長警報アリ、該地卜秩父郡ハ偶々過激党ノ在ルアリ、気脈相通ジテ以テ不軌ヲ謀ルトキハ、或ハ尋常一撥ノ類ニアラザルベシ、且ツ茨城暴挙近ニアリ、輩下地勢亦遠キニアラズ、若シ他ニ影響スル事甚シキニ至レバ容易ナラザル事態ナリ、寧ロ兵力ヲ以テ速ニ鎮定スルニ如カズ(「埼玉県少書記官笹田黙介記「秩父郡暴徒処分頴未」)。
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また、笹田少書記官は、憲兵出動の早期実現のため野村警部を内務省に派遣、野村警部は内務省に秩父の情況を報告し、更に山県内務卿の自宅を訪問して憲兵の早期出動を要請。
更に、笹田少書記官は、上京中の吉田県令に憲兵派遣申請の爾後報告を行い、憲兵の早期出動につき奔走方を要請。
夜8時50分、清浦警保局長から憲兵出動の連絡が入る。「憲兵一小隊春田少佐是ヲ率ヒ、同夜十一時発本庄駅マデノ別仕立汽車ニテ派遣ス 十一月二日午後八時五十分 清浦警保局長」。
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これより先、笹田少書記官は川越士族を臨時巡査に起用する事を検討するが、川越士族がこれに応ずるかどうか疑問があった。
そこで、笹田少書記官は、前夜、大迫警視総監から「巡査ハ内務卿ヨリ達アレバ直チニ差出ス」との電報が届いていたこともあり、警視庁巡査100名の応援を得て、手薄なな小川・川越方面の警備に振向けるため、2日午後3時20分、警視総監あてに巡査100名程の応援要請。
しかし、大迫警視総監からは、埼玉県への巡査派遣について内務卿の意向を伺ったところ、憲兵出動となったのでその儀に及ばずということなので、巡査派遣はしないとの返事。
笹田少書記官は、警視庁巡査応援を諦めず、再度警視総監に巡査派遣を要請。警視総監は、「内務卿ノ御達アレバ直ニ差出ス」ので、直接内務卿の意向を伺って欲しいと回答。
そこで、笹田少書記官は、内務卿に対し、警視庁巡査100名派遣指示を要請するが、これは黙殺され実現せずに終わる。
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