天文17(1548)年 [信長15歳]
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6月
・毛利勢、大内軍の援兵を得て、備後神辺城を攻める。
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6月10日
・信濃守護小笠原氏、諏訪再乱入。下社の地下人らの反撃受ける。
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7月
・フランス・スコットランド間にハディントン条約締結。
イングランドに敗れたスコットランド、フランスの援助と引換えに、女王メアリー・スチュワート(5、スコットランド・ジェームズ5世娘、1542~1587、位1542~1567)、フランス皇太子フランソワ(4)と婚約、フランス行きを決める。
フランス軍数千がスコットランド各地の城砦に駐留、王国南部に居座るイングランドの侵略軍と睨み合う。
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・月末、女王メアリ・スチュアート、フランス船でダムバルトン港を出帆。皇太后マリー・ド・ロレーヌ、メアリーと共にフランスへ渡る(1538年ジェームズ5世と結婚。初代ギーズ公クロード娘、フランソワとシャルルロレーヌ枢機卿)の妹)。女王不在のスコットランドは摂政シャーテルロー公とその一族を中心とする勢力が統治。
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アンリ2世は、スコットランドとの同盟よりもマーガレット・テューダー孫としてのイングランド王位継承の有利性に着目。アンリ2世はメアリーを「小さな女王ちゃん」と呼び可愛がる。メアリーは母方祖母アントワネット・ギースに預けられ、16世紀フランス・ルネサンス影響下、美貌に加えてラテン語の読み書き・詩作・刺繍・音楽・ダンス等の教育を受け、15歳頃には「フランス宮廷の華」と謳われる。
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7月10日
・塩尻峠の戦い。
諏訪湖西方に西方衆(地侍)と諏訪神家一族の矢島・花岡の兵、小笠原長時に通じ諏訪乱入。18日、武田晴信6千、上原城発。19日未明、塩尻着。塩尻峠(勝弦峠)の小笠原本陣を急襲。小笠原氏は壊滅、戦死1千余。諏訪の残敵掃蕩。25日、上原城引上げ。松本平制圧。
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この頃、筑摩郡の松本平と伊那郡域で勢力を温存している信濃守護小笠原長時が、信玄の上田原合戦敗北後、諏訪郡へ攻勢、4月に下諏訪に乱入。6月、再度諏訪下社に討ち入り、御柱引き祭りを妨害し、同社地下人(有力地主層)らに撃退される(「神使御頭之日記」)。
7月の西方衆の反乱も小笠原氏の調略によるもで、小笠原勢は西方衆支援の為に塩尻峠(塩尻市)まで出陣。そこを19日未明、武田勢に急襲され、戦死1千余を出す大敗北。
諏訪社神長官守矢家の記録によると、小笠原勢の「峠の御陣には、武具を致す人は一人もなく、過半は起き合わさざる体に候」とあり、その急襲ぶりを伝える。
この背景には、敵の動きについての正確な情報が必要である。この合戦は塩尻峠の戦いといわれ、信玄の戦略の中でも際だったもので、その後の信濃経略に与えた影響も大きい。
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8月
・フランス、後の宰相ミシェル・ド・ロピタル、新旧両派の調節のためのトレント(トリエンテ)公会議にフランス使節として派遣。公会議は1545~63年迄続く。。
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8月11日
・武田晴信(信玄)、長坂虎房を上原城代とする。
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8月12日
・三好長慶、細川晴元の奉行人垪和(ハカ)道祐、田井源介、波々伯部(ハウカベ)左衛門尉、高畠伊豆守、平井丹後守に宛てて三好政長の非を批判する書状を送り、政長排除を晴元と六角定頼に求めることを内外に宣言。晴元はこれを無視。
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9月6日
・武田晴信(信玄)、諏訪上原城出陣。11日、佐久郡前山城攻撃、再度陥落。付近の13城、戦わず開城・降伏。上田原戦での失地回復。27日、晴信、 望月に在陣。翌天文18年にも再出陣、村上氏に従った望月一族の信雅、大井信常・伴野左衛門尉・平林氏らが降伏して出仕、信玄の北佐久郡支配は安定化に向う。
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「合力に成らる佐久郡大将を悉く打ち殺す。さる程に打取るその数五千ばかり、男女生取り数を知らず」(「勝山記」)。
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9月20日
・フランシスコ・ザビエル(42)、ゴア聖パウロ学院でヤジロウほか2名の日本人を洗礼。
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9月23日
・ディアンヌ・ド・ポワチエ(アンリ2世寵姫)、「ヴァランチノワ公爵夫人」に任ぜられ王族の1人に列せられる。
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10月4日
・武田晴信(信玄)、筑摩郡村井城(松本市芳川)普請開始。小笠原長時の林城(同里山辺)の南2里。
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10月28日
・三好長慶、晴元に叛旗。
長慶、岳父遊佐長教と謀議の上細川氏綱と手を組み細川晴元・政長に謀叛。長慶の弟十河一存(讃岐十川城主)、三好政長の子政勝の榎並城(摂津欠郡、大阪市都島区毛馬町付近)包囲。晴元は長慶以前の越水城主河原林対馬守(牢人)を榎並城救援に派遣。
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長慶は、細川氏家督候補として尹賢の遺子氏綱を擁す。
一方、晴元方では晴元の舅近江守護六角定頼が後詰の中心となり、細川晴賢・同元常の和泉両守護、紀伊根来寺の衆徒らに微を飛ばして長慶軍を挟撃させる態勢をとる。しかし、伊丹氏を除いて摂津の有力国衆の殆どが長慶方についた今回の戦局では、晴元方の勝算は客観的に見て殆どない。
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こうして、晴元と氏綱は三好家家督争いに巻き込まれ、全面的な戦争状態となる。
10月末迄に、芥川・三宅・入江・安威・池田など、茨木長隆と伊丹親輿を除く摂津国衆は全て氏綱方に回り、丹波守護代内藤国貞、和泉の松浦隆信、大和の筒井順昭等が長慶に款を通じ、晴元は危機的状況に追い込まれる。
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11月
・この頃、織田信秀と美濃の斎藤道三の間に和睦が成立。
傅役の平手政秀の才覚により、信長(15)と斎藤道三の娘濃姫との婚姻成立(「土岐累代記」「信長公記」)。
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11月9日
・松平広忠(家康父、岡崎城主)、織田方に通じて岡崎城攻撃をもくろむ三河山中城主松平重弘を攻める。
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11月20日
・清須の守護代織田信友の家臣・坂井大膳ら、信秀留守中の古渡城に攻め寄せる。
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「信長公記」首巻では、この秋、平手政秀が、織田信秀に敵対した清洲おとな衆(坂井大膳・坂井甚介・河尻与一ら)と「屈睦」。平手政秀は、和睦締結書札に「古今和歌集」巻1所収の紀貫之の古歌を添える。
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12月30日
・長尾景虎(19、上杉謙信)、越後守護上杉定実の調停により兄の晴景に代って家督を継ぎ、栃尾城より越前国春日山城入り。兄晴景と「父子の義」を結び、越後守護代長尾家を相続。
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