治承4(1180)年5月26日
宇治川の戦いにおいて、源頼政・以仁王は敗死し、叛乱は終結。
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今回(次回も)は、「平家物語」によってこの戦いを見てゆく。
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前回も書きましたが、この戦いの参加人数は下記ですので要注意です。
「山槐記」著者中山忠親は平維盛自身に取材して、三井寺に赴いた頼政の軍勢は50余、追討に向かい馬筏を組み宇治川渡河したの「飛騨守景家・上総守忠清ら」は200余とする。
「玉葉」では、平家方は「検非違使景高・忠綱以下士卒三百余騎」となっており、対岸の宮方の軍勢も僅かに50余人。
これに反して、「平家物語」「源平盛衰記」は追討軍2万8千、頼政軍(頼政以下の渡辺党武士と三井寺僧兵)1~2千とする。
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(概要)
落馬を繰り返す以仁王を見かね、頼政一行は、宇治橋の橋板を引きはがし、平等院で休息。
六波羅の追討軍、大将軍左兵衛知盛、頭中将重衡、左馬頭行盛、薩摩守忠度、侍大将上総守忠清、その子総太郎判官忠綱、飛騨守景高、高橋判官長綱、河内判官秀国、武蔵三郎左衛門有国、越中次郎兵衛尉盛継、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、2万8千余。
橋板のないのを知らぬ後陣に押され、先陣200余騎は河中に没す。
宇治橋両側から両軍矢合わせ。
高倉宮方の五智院の但馬は、大長刀を持って橋の上に進み、向かってくる矢を切り落とし、それ以来、「矢切の但馬」と呼ばれる。
浄妙坊明秀は、細い橋桁を進み、長刀で5人、太刀で8人を斬り、そこで太刀が折れる。後に続く法師が、肩を飛び越して戦うが討死。明秀は白衣に着替え、念仏しつつ奈良へ去る。
激戦の中、関東武士足利又太郎忠綱の300余が渡河に成功。
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①宮の落馬。
「さる程に、宮は、宇治と寺との間にて、六度まで御落馬ありけり。これは去んぬる夜、御寝(ギョシン)ならざりし故なりとて、宇治橋三間引きはなし、平等院に入れ奉り、暫く御休息ありけり。
六波羅には、
「すはや、宮こそ南都へ落ちさせ給ふなれ。追っかけて討ち奉れや」
とて、大将軍には、左兵衛督知盛・頭中将重衡・薩摩守忠度、侍大将には、上総守忠清・其の子上総太郎判官忠綱・飛騨守景家・其の子飛騨太郎判官景高・高橋判官長綱・河内判官秀国・武蔵三郎左衛門有国・越中次郎兵衛盛嗣・上総五郎兵衛忠光・悪七兵衛景清を先として、都合その勢二万八千余騎、木幡山打越えて、宇治橋の爪にぞ押寄せたる。
敵(カタキ)平等院にと見てければ、鬨を作る事三箇度なり。宮の御方にも、同じう鬨の声をぞ合せたる。先陣が、
「橋を引いたるぞ、過すな。橋を引いたるぞ、過すな」
と、どよみけれども、後陣は此れを聞きつけず、我先に我先にと進む程に、先陣二百余騎押落され、水に溺れて失せにけり。」
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高倉宮一行は、逢坂の関を経る大関越えから山科に出て、大塚・大宅・小野を経て醍醐路へ、更に六地蔵から木幡の里を通って宇治に出る、山背路を通ったと想定されるが、距離は、「宇治と寺との間、行程わづかに三里計なり」(「源平盛衰記」)とあり、約3里(12km)程度。この間に馬上居眠りにより6度落馬したという。
宮の疲労を見かねた頼政は、やむなく宇治橋の橋板を3間(間=柱と柱の間。3間=21~24m)ばかり引きはずし、宮を平等院に入れて暫く休息をとることにする。
追手の平家の大将軍は、左兵衛督知盛(清盛の第4子、母は時子、小松殿重盛の異母弟)、頭中将重衡(知盛の同母弟)、薩摩守忠度(清盛の一番末の異母弟、知盛・重衡らの叔父)。
侍大将の越中次郎兵衛盛嗣・高橋判官長綱は「家の子」で、長綱は主馬判官盛国の子盛俊の嫡男、盛嗣はその弟。「郎党」の上総守忠清は、伊勢国古市出身の武士で伊藤武者景綱の第5子、若い頃は伊藤五と呼ばれる。忠清の子が、忠綱・忠光・景清で、忠清の弟が景家、景高はその子。
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②川を隔てた矢いくさ。
「さる程に、橋の両方の爪に打立って突合せす。宮の御方より、大矢俊長・五智院但馬・渡辺省・授・続源太が射ける矢ぞ、楯もたまらず、鎧もかけず通りけり。
源三位入道頼政は、今日を最後とや思はれけん、長絹の鎧直垂に、科皮縅(シナガワオドシ)の鎧着て、わざと甲をば着給はず。嫡子伊豆守仲綱は、赤地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧なり。弓を強う引かんが為に、これも甲をば着ざりけり。
こゝに、五智院但馬、大長刀の鞘をはづいて、唯一人橋の上にぞ進んだる。
平家の方には、これを見て、
「唯射取れや射取れ」
とて、差攻め引攻めさんざんに射けれども、但馬少しも騒がず、揚がる矢をばつい潜り、降る矢をば跳り越え、向つて来るをば長刀にて切つて落す。敵も御方も見物す。其れよりしてこそ、矢切の但馬とは云はれけれ。」
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この頃の合戦は、両軍がまず弓矢の射程距離「矢ごろ」まで接近し、そこに楯を並べて対峙し、互に3度鬨の声をあげ「鬨を合わ」せた、箙(エビラ)の外側に差してある上差しの鏑矢をそれぞれ敵陣に射込む。
この「矢合わせ」で交叉する矢音を開戦の合図として失いくさが続く。
その後、打物をかざして敵陣に突っ込む「駆け込みのいくさ」で雌雄を決するというのがだいたいの手順。
「矢いくさ」の花形は、弓矢の名手たちで、軍記では「強弓精兵の手だれ」がその手並みを披露する。
平家物語では、宮方から大矢の俊長以下の5人のつわものがめざましい活躍を見せる。
次に、宮方総帥の頼政と嫡男仲綱の装束と、五智院の但馬の奮戦ぶりを描写する。
老齢の頼政は、「今日を最後とや思はれけん」とあり、これを最後の合戦と考え存分に指揮をとるために、仲綱は、兜の側面の「吹き返し」が弓を強く引く妨げとなるので、あえて兜をかぶらなかったし、この一戦にかけた2人のはげしい戦意が読みとれる。
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③浄妙房明秀の奮戦。
「又堂衆の中に、筒井浄妙明秀は、褐の直垂に、黒革縅の鎧着て、五枚甲の緒をしめ、黒漆の太刀を帯き、二十四指いたる黒ほろの矢負ひ、塗篭籐の弓に、好む白柄の大長刀取り副へて、これも唯一人橋の上にぞ進んだる。大音声を揚げて、
「遠からん者は音にも聞け、近からん人は目にも見給へ。三井寺には隠れなし、堂衆の中に筒井浄妙明秀とて、一人当千の兵ぞや。我と恩はん人々は、寄り合へや、見参せん」
とて、二十四指いたる矢を、差攻め引攻め散々に射る。やにはに敵十二人射殺し、十一人に手負うせたれば、箙に一つぞ残つたる。
其の後、弓をばからと投捨てて、箙も解いて捨ててけり。貫脱いで跣(ハダシ)になり、橋の行桁を、さらさらと走りける。人は恐れて渡らねども、浄妙房が心地には、一条・二条の大路とこそ振舞うたれ。長刀にて、向ふ敵五人薙ぎふせ、六人に当る敵に逢うて、長刀中より打折れて捨ててけり。其の後太刀を抜いて戦ふに、敵は大勢なり、蜘蛛手・かく縄・十文字・蜻蛉返り・水車、八方すかさず切ったりけり。向ふ敵八人切りふせ、九人に当る敵が甲の鉢に、余りに強う打当てて、目貫の元よりちやうと折れ、くつと抜けて、河へざつぷとぞ入りにける。頼む所は腰刀、死なんとのみぞ狂ひける。」
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一説によると、明秀は常陸国鹿島郡神栖の人で、宇治の戦い後、仲間の衆徒30余人とともに流罪となるが、のち許されて故郷に帰り、極楽寺という寺を開き、そこで没すという(62歳)。
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④一来法師の捨身の救援。
「こゝに乗円房阿闇梨慶秀が召使ひける一来法師といふ大力の剛の者、浄妙房が後に続いて戦ひけるが、行桁は狭し、側通るべき様はなし。浄妙房が甲の錣(シコロ)に手を置いて、
「悪しう候、浄妙房」
とて、肩をづんど跳り越えてぞ戦ひける。一乗法師、討死してけり。
浄妙房は、這ふ這ふ帰つて、平等院の門の前なる芝の上に、物の具脱ぎ捨て、鎧に立つたる矢目を数へたれば六十三、裏かく矢五所、されども痛手ならねば、所々灸治し、頭からげ浄衣着、弓切折り杖に突き、平履はき、阿弥陀仏申して、奈良の方へぞ罷りける。
其の後は、浄妙房が渡つたるを手本として、三井寺の大衆、三位入道の一類、渡辺党、我先にと走り続き走り続き、橋の行桁をこそ渡りけれ。或は分捕して帰る者もあり、或は痛手負うて、腹かき切り川へ飛入る者もあり。橋の上の軍、火出づる程にぞ見えたりける。」
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以降は、平家側の反撃に移りますが、長いので一旦ここで切ります。
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