天文18(1549)年 [信長16歳]
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この年
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・戦国大名の楽市令の初見。この年の六角氏による近江石寺の楽市令。
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・この頃(天文18(1549)16歳~天文20(1551)18歳)の信長。
乗馬・水練の稽古、武具・兵法の稽古に励み、弓を市川大介に、鉄砲を橋本一巴に、兵法を平田三位に学ぶ。
日頃から鷹狩を行い、大名の跡継ぎらしからぬ出で立ち無頼の如く町中を闊歩すると伝えられる(「信長公記」)。
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・この頃、雑賀では12歳の佐武伊賀守は鉄砲を習い始めたという(佐武伊賀守の覚書)。
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この年、鉄砲に関する記事多い。
3月5日、近衛稙家は、将軍義輝の命を受けて、種子島時堯に、南蛮人直伝の火薬調合の秘伝の伝授方を依頼(「種子島家譜」)。
4月18日、・鉄砲が初めて京都に入る。細川晴元、種子島銃のことを聞き、本能寺の僧侶を通じて入手し試作させる。翌年7月の洛中の戦いに実戦使用。
7月、信長、6匁玉の鉄砲500挺の製作を、国友村の鍛冶らに命じる。国友鍛冶にとって初めての大量注文で、彼らは、それを翌年(天文19)10月迄に作りあげたという(「国友鉄砲記」)。
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通常、天文12年(1543)の種子島へのポルトガル人漂着が「鉄砲伝来」とされているが、それよりはるか以前に沖縄に「火矢」と称す粗製の小銃(手砲)が入っている。また、この小銃は、文正元年(1466)には本土に持ち込まれ、都人の目に触れている(「蔭涼軒日録」)。更に、翌年に始まる応仁の乱には、手砲の類が使用されたと見られている(「碧山日録」)。他にも、いわゆる「鉄砲伝来」前に、粗製の小銃が本土で戦闘に供されたことを示す史料はあるという。
天文12年の「種子島初渡来説」は、この前後に、種子島への伝来を契機として国内生産が始まったことを意味していると推測される。鈴木真哉「戦国鉄砲・傭兵隊」(「平凡社新書」)。
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・フランス、タドゥサックの加工基地、毛皮の主要市場になる
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・イングランド、コーンウォールの反乱。6ヶ条法復活を求めて、コーンウォールとデボンシャーで反乱。
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1月
・備前砥石城の浮田国定(宇喜多直家の祖父能家の異母弟)、備中の三村政親と組んで毛利方につき、主家浦上宗景を討つ企み。宇喜多直家(21)は砥石城を落とす。
砥石城は祖父能家の城であるが、高取山城島村観阿弥を警戒して、砥石城を受取らず、上道郡竹原の奈良部(新庄山城)を与えられる。
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1月7日
・ポルトガル国王ジョアン3世、ブラジルに総督制施行。
トメ・デ・ソウザ(マルティン・アフォンソ・デ・ソウザ)、ブラジル植民地総督に任命。
この年、入植者1千以上を送りこみ、サルヴァドールに首都を建設し砂糖産業を奨励。
16世紀後半から、ブラジルは世界最大の奴隷輸入地となり、後300年にわたりアフリカ人奴隷を吸収、アメリカ系アフリカ人の国となる。大西洋の奴隷貿易はポルトガルの独占。
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1月17日
・犬山城の織田信清(信秀次弟信康の嫡男)、楽田城主織田寛貞と共謀して1千余率い春日井原を経由し竜泉寺周辺を放火。末盛城(名古屋市千種区)より信秀出陣、撃退。信秀弟孫三郎信光(守山城)が活躍。(「信長公記」首巻)
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1月20日
・後奈良天皇、本願寺証如(光教)に三十六人歌集を与える。
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1月21日
・英、急進的プロテスタントのエドワード6世、礼拝統一法制定。共通祈祷書を唯一の礼拝洋式と定める。
カトリックの中心的存在のヨークやリンカーン教会ではなく、英国国教会総本山カンタベリー大主教に中心的役割を任せ、英国・ウェールズ全教区をその管理下に置く。
そして「一般信者と聖礼式の管理、及び英国国教会使用後の他の教会のセレモニーに関する著書」なる指導書に沿うミサを行うよう命じる。従わない者は、陪審人12人の評決により有罪の場合、初犯は10ポンド、再犯は20ポンド、それ以降は家屋財産没収、投獄。英語の祈祷書を使用するが、説教礼拝等はラテン語ヘブライ語の使用を認めるなど、カトリック的要素も残る。
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1月24日
・三好政長、摂津池田市場一帯焼き討ち。三好長慶の弟十河一存により榎並城を包囲され孤立無援の息子政勝支援のため。
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晴元は、近江守護(観音寺城主)六角定頼、和泉守護細川元常を頼りとし、和泉国人岸和田某、紀伊の根来寺衆、伊賀の仁木氏らを招く。
定頼(近江南半をほぼ押さえ、北半の浅井氏に対抗)は、晴元の岳父でもあり、政長の援軍派遣要求に、渋々応ずる腹を固めるが、先に長教・晴元の和議を整えたばかりで、事態の深刻さに気づいていない。この定頼の認識不足が晴元政権の命取りになる。
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三好政長は、摂津国衆の大半が長慶方へ回り、榎並に接近することができず、焦慮。
政長は、長慶方の諸城を避け、丹波桑田郡より摂津脇往還を通り、摂津能勢郡枳根・多田両庄(現、亀岡市加舎から大阪豊能郡能勢町倉垣、兵庫県川西市一庫を経由する道)を通過、一庫城で塩川氏の兵力を借り、摂津池田市場へ出る。池田まで出れば、伊丹親興は無二の晴元党であるから、摂津欠郡へあと一歩手前まで接近できる。
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2月
・今川義元、従四位下に叙任。礼銭、天皇20貫。
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2月18日
・三好長慶、堺で遊佐氏と榎並城攻略の最終打合せ。この間、安宅冬康が淡路水軍を率い到着。長慶は伊丹城への押さえとして尼崎に出陣、長教は再び十七箇所を占領。
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両軍は、神崎川を挟んで次第に接近するが、2月下旬、政長は伊丹親興の掩護で神崎川を強行渡河、首尾よく部兵を柴島城(東淀川区柴島町)に入れる。
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2月24日
・織田信長(16)と斎藤道三と明智光継の娘濃姫(15、帰蝶)の婚儀(「美濃国諸旧記」)。
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父信秀は、「一ケ月は美濃国へ御働き、又翌月は三川の国へ御出勢」と、三河・美濃両国に侵攻する両面作戦を行う(「信長公記」首巻)が、天文13年9月の美濃稲葉山城攻撃、17年3月の第2次小豆坂合戦で敗北し、国内でも守護代織田彦五郎と戦うなど内憂外患の渦中にある。
信長に宿老として付属させている重臣平手政秀は、織田・斎藤両氏の縁組みを調整し同盟を成立させ、信秀の窮地を救う。
「平手中務才覚にて、織田三郎信長を斎藤山城道三聟に取結び、道三が息女尾州へ呼取り候き、然る間何方も静謐なり、」(「信長公記」首巻)。
「天文十八年の春に至り、信秀病気に取結びける故に、早く存命の内、結縁たるべしと、催促あるに付きて婚礼を急ぎ、則ち明智入道宗寂を媒として、同年二月廿四日尾州古渡城に入興し、上総介信長の北の方とそ相なりぬ」
「天文十八年二月廿四日、尾州古渡の城主織田上総介信長に嫁す。帰蝶の方といふ。又鷺山殿ともいふ」(「美濃国諸旧記」)。
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その後の濃姫:
「信長公記」は入興の記事以外に濃姫の記述はなく、輿入直後の死亡説や、離縁され美濃に帰されたとの説、本能寺で信長と共に没したとの説などがある。
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「言継卿記」が濃姫の消息を伝える。
①永禄12年7月27日条:信長が故斎藤義龍(道三の息子)の後家が所持している壷を強引に所望したところ、彼女は戦乱によって壷は紛失してしまったと申し立て、これ以上の詮議に及べば自害するほか道はないと答える。このとき、「信長本妻兄弟女子十六人自害たるべし、国衆大なる衆十七人、女子の男卅(サンジュウ)余人切腹すべし」といい、もし義龍の後家が自害すれば、信長本妻と斎藤一族さらに斎藤氏旧臣の有力な国人が一致結束して自害・切腹に及ぶといって、信長に抵抗。結局、信長がこれを断念することで決着。
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②永禄12年8月1日条:「早朝、信長へ礼に赴いたところ、岐阜城麓の居館の門前で会い礼を申した。信長は姑の所へ礼に訪れるというので、彼女の屋敷の門前まで同道した」。信長の姑というは、「信長本妻」の姑ということであり、このことは濃姫の生存を意味する。
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天正10年(1582)6月2日巳刻(午前10時頃)、本能寺の変報が当日のに安土に届くと、二の丸留守居番衆のひとり蒲生賢秀の指示で、「御上﨟衆・御子様達」は蒲生氏居城の日野に逃れたとあり(「信長公記」)、蒲生氏郷の事績を記す「氏郷記」では、日野城に避難した者の中に「信長公御台・君達」とある。
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また、秀吉が御伽衆の大村由己に記録させ、天正10年10月15日の奥書きがある「惟任謀反記」にも、安土城から退避した女性のうちに「北の方」とある。「北の方」は、当時の用法から正室と同義語であり濃姫の存在を示すものと推測できる。
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天正13年成立の「織田信雄分限帳」(尾張に入部した信長次男信雄の血族や家臣団の知行形態を登録する史料)に、
「五百貫文 小牧の内中村郷 御内様 此外六百貫南伊勢の分相違
七百貫文 おばり 岡崎殿
六百貫文 むつし あづち(安土)殿
六百四拾貫文 如意之郷 大方殿様
百八拾貫文 弥勘寺郷 犬山殿
百三拾貫文 石橋の郷内落合新八分 小林殿」とある。
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「御内様」は信雄の正室、「岡崎殿」は信長の息女で松平信康の正室、「大方殿様」は文禄3年まで生存する信長の生母、「犬山殿」は信長の姉で犬山城主織田信清の室、「小林殿」は信長の妹で小林城主牧与三右衛門長清の室である。
残る「あつち(安土)殿」と呼ばれる女性は、以前に安土城で信長と居を共にしていた女性、信長の室、つまり正室濃姫と推測できる(彼女は夫信長の没後は「安土殿」と呼ばれていた)。
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安土町の摠見寺所蔵の「泰巌相公縁会名簿」(江戸中期の寛延3年(1750)成立の織田家の過去帳)に、「養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七壬子七月九日 信長公御台」とあり、信長正室「濃姫・安土殿」は享年78歳で没したと推測できる。
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2月26日
・三好長慶、摂津中島に向い柴島の三好政長攻撃。淡路水軍率い弟安宅冬康が支援。三好政長、榎並城へ逃亡。長慶・長教合流し榎並城攻撃。
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しかし榎並城は、十七箇所城とも称され、応仁の両畠山の合戦以来幾度か修築を加えられてきた堅城で、兵糧も豊富で、前年10月以来龍城5ヶ月、尚陥落の気配はない。
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2月27日
・ロシア、イヴァン4世(雷帝)、ロシア初の身分制議会のゼムスキー・ソボル(全国会議)召集。
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2月28日
・北畠具教、正五位下に昇進。
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戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆 (平凡社新書)
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