治承4(1180)年5月26日
宇治川の戦いにおいて、源頼政・以仁王は敗死し、叛乱は終結。
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今回は、「平家物語」巻4の「橋合戦」後半部分によってこの戦いを見てゆく。
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前回、前々回も書きましたが、この戦いの参加人数は下記ですので要注意です。
「山槐記」著者中山忠親は平維盛自身に取材して、三井寺に赴いた頼政の軍勢は50余、追討に向かい馬筏を組み宇治川渡河したの「飛騨守景家・上総守忠清ら」は200余とする。
「玉葉」では、平家方は「検非違使景高・忠綱以下士卒三百余騎」となっており、対岸の宮方の軍勢も僅かに50余人。
これに反して、「平家物語」「源平盛衰記」は追討軍2万8千、頼政軍(頼政以下の渡辺党武士と三井寺僧兵)1~2千とする。
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⑤平家の反撃(上総守忠清の迂回提議と足利又太郎忠綱の馬筏による渡河揚言)。
「平家の方の侍大将上総守忠清、大将軍の御前に参り、
「あれ御覧候へ、橋の上の戦、手痛う候。今は川を渡すべきにて候ふが、折節五月雨の比(コロ)、水まさつて候へば、渡さば馬・人多く亡び候ひなん。淀・一口(イモアラヒ)へや向かふべき、又河内路へや廻るべき、如何せん」
と申しければ、下野国の住人、足利又太郎忠綱、生年十七歳にてありけるが、進み出でて申しけるは、
「淀・一口・河内路へは、天竺・震旦の武士を召して向はれ候はんずるか。それも我らこそ承つて向ひ候はんずれ。目にかけたる敵を討たずして、宮を南都へ入れ参らせなば、吉野・十津川の勢ども馳集まつて、禰(イヨイヨ)御大事でこそ候はんずらめ。
武蔵と上野の境に、利根川と申す大河候。秩父、足利、中違うて常は合戦を仕り候ひしに、大手は長井渡、搦手は故我杉渡より、寄せ候ひしに、こゝに上野国の住人、新田入道、足利に語らはれて、杉渡より寄せんとて、設けたりける舟どもを、秩父が方より皆破られて申しけるは、
『唯今こゝを渡さずば、長き弓箭の疵なるべし。水に溺れて死なば死ね、いざ渡さう』
とて、馬筏を作って渡せばこそ渡しけめ。坂東武者の習ひ、敵を目にかけ、川を隔てたる軍に、淵瀬嫌ふ様やある。此の河の深さ早さ、利根河に幾程の劣り優りはよもあらじ、続けや殿ばら」
とて、真先にこそ打入れたれ。」
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平家方の軍議で、味方の苦戦を見た侍大将上総守忠清は、大将軍に迂回作戦を進言。
橋上の戦いはは手痛く、川は五月雨の時期で水嵩が増しており、忠清は、淀か一口か河内路への迂回を提案。
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この時、足利又太郎忠綱(17)が進み出て、戦機を失えば大事に及ぶ恐れがあると反論し、即刻渡河強行を主張。
忠綱は、下野国足利郡足利庄の住人、俵藤太秀郷の末裔、足利太郎俊綱の子。秀郷から6代の後胤の成行が下野国足利郡足利庄を開発して足利太夫を称し、その子の成綱がこれを継承して足利太郎と名乗り、以降、嫡流が足利の地を拠点として活躍、同じく秀郷流の小山氏と並び下野一国の竜虎と称せられるようになる。忠綱は、その成綱の孫足利太郎俊綱の子。
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「吾妻鏡」養和元年(1181)閏2月25日の条に、
「是末代無双の勇士なり。三事人に越ゆ。所謂一は其の力百人に対するなり。二は其の声十里に響くなり。三は其の歯一寸なり」とある。
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また、同書養和元年9月7日条に、
「従五位下藤原俊綱(字足利太郎)ハ、武蔵守秀剛朝臣ノ後胤、鎮守府将軍兼阿波守兼光六代ノ、散位家綱ノ男ナリ。数千町ヲ領掌シ、郡内ノ棟梁タルナリ。而ルニ去ル仁安年中、或ル女性ノ凶害こヨリ、下野国足利庄ノ領主職ヲ得替。仍テ本家小松内府此ノ所ヲ新田冠者義重ニ賜ウノ間、俊綱上洛セシメ、愁ヒ申スノ時返サレ畢ンヌ。尓(シカ)シテヨリ以降、其ノ恩ニ酬インガタメ、近年平家ニ属セシムルノ上、云々。」とあり、女性を殺害して罪を得た俊綱の所領を小松殿重盛が安堵したことから、それに報いるため平氏に仕えるようになったという。その縁から子の忠綱も平家に属したものと推測される。
忠綱は、いま目の前の敵を討たず、宮を奈良に逃げ込ませたなら、宮には吉野や十津川から加勢が集まり、一層手がつけられない一大事になるだろうと言う。
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この渡河戦に実際に馬筏による戦法が採用されたことは、「山槐記」治承4年5月26日条に、
「彼方の甲兵橋を引く。景家橋上に責め寄せ合戦の間、忠景(綱か)又追ひ来り、伴頼千余騎時を作る。馬を河中に打入る。橋の上の方に歩(カチ)渡りの瀬あり。或は深淵と雖も、馬筏を以て郎党二百余河を渡り、平等院の前に於て合戦す」
とあり確認できる。
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また、西行が宇治の戦いの噂を聞いて、その「聞書集」に、
「武者のかぎりむれて死出の山こゆらん。山だちと申す恐れはあらじかしと、この世ならば頼もしくもや。宇治のいくさかとよ。馬筏とかやにて渡りたりけりときこえしこと思ひいでられて、
沈むなる死出の山川みなぎりて馬筏もやかなはざるらん」
と書き留めている。
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⑥馬筏による強行渡河。関東武士団が足利忠綱に続く。
「続く人々、大胡・大室・深須・山上・那波太郎・佐貫広綱四郎大夫・小野寺禅師太郎・部屋子四郎、郎党には宇夫方次郎・切生六郎・田中宗太を始めとして、三百余騎ぞ続きける。
足利大音声(オンジヤウ)を揚げて、
「弱き馬をば下手に立てよ。強き馬をば上手になせ」
「馬の足の及ばう程は、手綱をくれて歩ませよ。撥(ハヅ)まば、かい繰つて泳がせよ」
「下らう者をば弓の弭(ハズ)に取付かせよ。手に手を取組み、肩を並べて渡すべし」
「馬の頭沈まば、引揚げよ。痛う引いて引つ被(カヅ)くな」
「鞍壷によく乗り定まつて、鐙(アブミ)を強う踏め。水浸まば、三頭(サンヅ)の上に乗りかゝれ」
「河中にて弓引くな。敵射るとも相引すな」
「常に錣(シコロ)を傾けよ。いたう傾けて天辺(テヘン)射さすな」/「馬には弱う、水には強くあたるべし」/「かねに渡いて推(オシ)落さるな。水にしなうて渡せや渡せ」
と掟(オキ)てて、三百余騎、一騎も流さず、向かひの岸へさつとぞ打ち上げたる。」
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足利氏配下の上野・下野など北関東在地の土豪・地方武士たち
(11世紀後半~12世紀、在地領主として成長をとげた足利氏一族は、下野南西部の足利郡・安蘇郡を嫡流家の地盤として、下野国都賀郡の一部や上野国一帯に分布し、勢威をふるう)。
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足利氏一門(①~⑧)、
①「大胡」:又太郎忠綱より4代前の足利大夫成行の子成家の末裔で、赤城山南麓の上野国勢多郡大胡(群馬県勢多郡大胡町)の住人で、大胡太郎のこと。
②「大室」:勢多郡荒砥村大室(群馬県前橋市大室)の住人。
③「深須」:忠綱の父俊綱の弟で、勢多郡深須郷(群馬県勢多郡粕川村深津)の住人で、深須三郎郷綱。
④「山上」:俊綱の弟山上五郎高綱の子で、勢多郡山上郷(群馬県勢多郡里村山上)の住人、山上太郎高光。
⑤「那波太郎」:足利大夫成行の弟行房の孫で、勢多郡那波郷(群馬県伊勢崎市)の住人、那波太郎弘澄。
⑥「佐貫の広綱四郎大夫」:おなじく行房の末裔で、上野国邑楽郡佐貫庄(群馬県邑楽郡明和村大佐貰)の住人、佐貫弥太郎広光の子佐貫四郎大夫広綱。
⑦「小野寺禅師太郎」:秀郷の末裔で首藤刑部丞道義の第3子の小野寺禅師太郎義寛の子で、下野国都賀郡小野寺保(栃木県下都賀郡岩舟町小野寺)の住人、小野寺禅師太郎道綱。
⑧「辺屋子の四郎」は、忠綱の祖父足利孫太郎家綱の第7子で、下野国寒川郡戸矢古保(栃木県下都賀郡藤岡町部屋)の住人、部屋古七郎太郎基綱。
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足利氏配下の郎等。
⑨「宇夫方次郎」:下野国安蘇郡意部郷(栃木県佐野市植野)の住人。
⑩「切生六郎」:上野国山田郡桐生(群馬県桐生市)の住人。
⑪「田中の宗太」:上野国新田郡綿打村田中の住人。
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その後足利氏:
平家との関係がわざわいし、同族の小山氏が源頼朝の下にいち早く参向するのと対照的に、源氏への帰属をためらい、治承5年(1181)に頼朝に反抗した志田三郎義広に加担して頼朝の怒りを買い、その討伐をうける。
その結果、父の俊綱は郎等の桐生六郎に殺害され、忠網も失踪し、足利氏は滅亡したといわれる。
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足利又太郎忠綱の強行渡河成功~源頼政自害、以仁王敗死は、次回「宮御最期(みやのごさいご)で・・・。
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