昭和39年、東京オリンピック。
渋滞を回避するための即効手段として採用されたのが、この日本橋川の上に高速道路を作ること。
以来、この川は「日の目」を見ることなく、「繁栄」メガロポリスTOKIOに見捨てられたまま、沈黙を守る。
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家康の江戸入府は小田原戦争後の天正18年(1590)。
家康は、入府直後に、江戸城への物資運搬ために、本丸前の低湿地である日比谷入江の東側(現在の銀座・日本橋辺り)にある砂州(江戸前島)の付け根を横切り、本丸前に繋がる舟入堀(道三堀)を構築する。
次に、神田川開削前に、日比谷入江に注ぐ平川が、道三堀が江戸湾に出る辺りに付け替えられ日本橋川の元となる。河口近くに橋が架けられ、浅草方面に繋がる町人地の中心的大通り(「本町」)が作られる。
慶長8年(1603)、家康が将軍になると、道三堀は延長され堀川と名付けられる。江戸前島周辺を大々的に埋め立てて町人地を拡張し、埋め立て地に排水・舟運のための掘割を縦横に巡し、日本橋も架けられる。
長さ37間4尺5寸(約68m)、幅4間2尺5寸(約7m)という。
この様に、日本橋川は殆どが人工の水路で、呉服橋~堀留橋は江戸城外堀の位置づけとなっている。
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日本橋建築の翌年、日本橋は東海道・奥州街道の起点とされ、江戸のシンボルとなってゆく。
当時の橋上からは、西に富土山と天守閣が望め、絶景の地として有名で、また、北側には魚市場が作られる(関東大震災で築地に移転するまで続く)。
一心太助ってご存知かな。
魚河岸跡はコチラ。← 三浦按針屋敷跡も
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江戸時代の高札場跡にある由来の説明板
この高札場跡の向いが、「日本橋晒し場」
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江戸時代の高札場跡にある由来の説明板
この高札場跡の向いが、「日本橋晒し場」
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