明治17(1884)年11月4日
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・甲大隊長新井周三郎、長楽寺本営で青木与一巡査(1日吉田で捕えられ甲隊に属す)に斬られ頭部に重傷、村竹茂市らにより自村・西ノ入村明善寺に運ばれる。青木巡査は斬殺。坂本宗作を大隊長にして皆野に戻る。
田代・加藤ら幹部に大きな衝撃。これを契機に困民党の崩壊始まる。
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4日早朝、新井周三郎は、官兵が國神を襲うと聞き、自ら手兵を率いてそこに向うが、官兵は見当らず(この官兵は、前夜ここに進出し、困民軍優勢を聞いて引き返した群馬・埼玉県警合同隊のことと思われる)。
新井周三郎らが國神で朝食中、皆野村の田代栄助から「皆野ニ退去スベシ」との命令が届き、長楽寺に引返す。
寺門前で部隊を整列させていると、日野沢方面を騎馬で偵察した甲隊の大隊長飯塚森蔵が、赤旗を振り回しながらこちらに向って来る。
「官軍ナリ、司令ノ任アル警部ナリ」という者があり、部隊は動揺。
この時、先に下吉田村戸長役場の戦いで捕虜となり、新井周三郎の書記として従っていた青木巡査が、突如刀を抜いて新井周三郎の頭部に斬りつけて重傷を負わせる。
また、これを助けようとした菅沼鍋吉(贅川村、竹細工職人、26歳)らも傷つけるが、周囲の反撃でその手に銃撃を受け、ひるんだところを、よってたかって斬殺される。
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「四日午前十一時頃、大淵村ニテ巡査青木与市氏戦死ス」(田中千弥「秩父暴動雑録」)。
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新井周三郎は、
「彼ノ巡査ハ之ヲ官軍ノ来リシモノト思ヒ違ヒ、勢ヲ得タルト見へ、忽チ後ロヨリ自分へ斬り掛ケ、自分ハ其儘顛倒シタリシガ、自分ノ隊ノ者等数十人ニテ遂ニ右ノ巡査ヲ切殺シタルモノニ有之、自分ハ負傷ノ為メ一刀モ其巡査ヲ斬ル事出来ザリシナリ(「新井周三郎訊問調書」)と云う。
しかし、裁判言渡書には、周三郎は、「憤怒ニ堪へズ、重傷ヲ力メテ(青木巡査の)胸部ヲ刺シ」たとある
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この後、周三郎は坂本宗作に後事を托し、大隊長の指揮旗を同人に渡す。
加藤織平・坂本宗作は、負傷した周三郎らを戸板に乗せて送り出し、部下を纏めて皆野村の本営に引き揚げるが、そこには既に田代栄助らの姿はない。
負傷した新井周三郎の看護に当ったのは、上日野沢村の村竹茂市(45)と男衾郡三品村の門松庄右衛門(53)。
茂市は荒川の栗谷瀬の渡し場の警備についているところで、周三郎負傷を聞き、15名程で駈けつけ周三郎を看護する。茂市らが周三郎を皆野村の本営角屋に運んだ時には、既に総理田代栄助らは逃亡しており、茂市はそこで信州転戦組に加わる。
その後の周三郎看護に当ったのは門松庄右衛門。庄右衛門は、この年9月、周三郎の勧誘で困民党運動に加わり、周三郎と共に奔走、蜂起後は火薬運搬方を勤める。庄右衛門は、周三郎を介抱し、美濃山(蓑山)に隠して逃亡。
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菅沼鍋吉:
2日、「袴ヲ穿チ、陣笠ヲ冠り」荒川上流諸村の狩りだし隊に加る。
裁判言渡書には、「長楽寺門前ニテ衆列ヲ正シ、日野沢村ニ向ツテ出発セントスルニ方テ、其伍中ニ在ル青木与市ガ奮然刀ヲ握ッテ周三郎ニ斬り懸りタル際、被告進デ之ニ抗敵シ、為メニ右肩及ビ左頬其外両手ニ刃傷ヲ負ヒ現場ニ転倒」とあり、重傷のため周三郎と共に皆野の角屋に護送される。
その直後、幹部逃亡・潰乱状態の中で見捨てられ、翌5日、官兵の一斉進攻の時もそこに横臥したままであった。裁判の結果、軽懲役6年6ヶ月に処せられ服役中獄死。
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田代栄助は、1日夜、小鹿野町で、捕虜の青木巡査の「首ヲ切り、火ノ中ニ入レテ仕舞へ」と新井周三郎に命じるが、周三郎は、「降参セシモノヲ殺スハ甚ダ宜シカラズ、且ツケ様ノモノヲ厚ク用ヒタレバ、此后官軍卜雖ドモ危キニ臨マバ皆降参シテ、当方ノ用ヲ為ス様ニナレバ、殺スハ甚ダ得策ニアラズ」と言い、自分の書記として使用していた(「小柏常次郎訊問調書」)。
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幹部の受けた衝撃。
「コノ時ニ当ツテ大宮郷ノ人民背後ヲ襲フノ飛報アリ、マタ諸方ノ暴徒急ヲ告ゲ応援ヲ求ムルモ衆阻喪シテ之ニ備フル能ハズ。マタ嶋田清三郎来り大淵村ニ屯在スル甲隊中叛者アリテ大隊長新井周三郎外数名ヲ傷ツケ・・・凶報相ツイデ至リ到底事ノ成ラザルヲ悟リ・・・」(「田代栄助判決文」)。
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「四日朝警官襲撃アリト聞キ大隊長新井周三郎隊伍ヲ整列スルニ臨ミ、伍中ノ一人即チ先日擒トナリタル巡査青木与一ガ突然奮闘、周三郎外二名ニ重傷ヲ負ハシメ大イニ紛擾シ、タメニ衆心疑懼ヲ生ジ暴勢ニハカニ挫折スルヲモツテ、倉皇部下ヲ収メテ皆野村ニ赴ムク・・・」(「加藤織平判決文」)。
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□その後の周三郎。
一時は瀕死の重傷と伝えられるが、西ノ入村の妙善寺に運ばれる。
現場の秩父郡国神村から男衾郡西ノ入村へ行くには荒川を渡る必要があるが、4日、皆野の困民軍本営が解体し、秩父地方には新鋭村田銃の援護のもとに東京鎮台・高崎鎮台兵が到着し、警官隊は「第二の暴徒」(神官田中千弥の言葉)の如く検問捜索に残忍を極め、豪農商に組織された自警団も活躍し始め、容易ではない。
更に、荒川を渡った後も、厳しい検問のある定峰峠か粥仁田峠あるいは釜伏峠のいずれかを越えねばならず、これもまた至難のこと。11月9日夜、村民の密告により逮捕。一晩中歩かされ、10日寄居警察署に留置。夜、熊谷監獄支署に移され13日より取調べ。
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13日の取調べ。
「問 甲乙二部ノ隊長ハ何人ナルカ
答 存ゼズ
問 コレニ覚アルナラン(此時証処物件トシテ押収シタル木綿白旗〔甲ノ字ノ記載アルモノ〕ヲ垂示ス
答 更ニ覚へ無之候
問 汝等ガ各所ニ乱入シテ或ハ官舎ヲ破壊シ、或ハ民屋ニ放火スル等ノ所為ヲ為セシハ如何ナル目的カアル
答 何モ目的トテハ無之、早ク申セハ当時気違ヒ居リシナラン
問 十月三十一日金時村永保社ニ闖入シテ地券又ハ書類ヲ焼棄テ、尚ホ金円ヲ奪ヒ取リタル事アルへシ
答 左様ノ覚無之候」(「新井周三郎訊問調書」)。
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翌14日の第2回訊問。加藤織平も既に逮捕され事実を陳述していると追及され、「是ヨリ真実ヲ申上ベシ」と、困民党参加の動機から、負傷までの経過を述べ、最後に、
「問 汝ハ此ノ如キ暴挙ヲナシ、果シテ何等ノ事ヲ為シ課(わりあて)セル考へナリシヤ」との問に、
「答 自分ハ大総督ニデモナル積リナリシ
問 大総督トハ如何
答 日本陸軍ノ大総督ヲ云フナリ
問 汝等ノ境界ヲ出デ、能ク我国ノ大総督トナリ得ル事アランヤ
答(黙シテ語ラズ)」(「新井周三郎訊問詞書」)、と答える。
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○新井周三郎:
男衾郡西ノ入村、資産家の次男。妙善寺小学校を優秀な成績で卒業。
明治14年上京(18)、本郷真砂町の切偲塾に入り雨宮春譚に和漢洋を学ぶ。また春譚の剣道道場で道を修める。
後、故郷に帰り鬼石(浄法寺)小学校教員となる。
「初メ秩父郡ノ村民等借金ヲナシヲル者往々コレアリ、コノ不景気ニ際シ頗ル困難ヲキハメ、債主ニ種々返済延期方等頼談致シタルモ承諾致ス者優カニ五六名ニスギズソノ他ハコレヲ承諾セザルニヨリ、村民等ハ益々困窮ニ迫リタリ。元来自分ノ借銭アルニ非ザレドモ、村民ノ困窮ヲ目ノアタリ傍観スルニ忍ビズ・・・」。
当時の末端教員は反権力的にならざるを得ない環境。師範学校卒1等訓導の俸給30円、5等は13円、1級訓導補10円、5級訓導補2円50銭。末端教員は労働力となっている不就学児童の駆出し(就学督促)により勤務評定される。
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蜂起に参加した教員:
①新井周三郎、
②飯塚森蔵(群馬県南甘楽郡平原村学校、8月山林集会の段階から参加、大隊長、事件後行方不明)、
③引間元吉(椋宮小学校の分校・上日野沢学校授業生、金屋村の戦闘で負傷)、
④天沼要(23、皆谷村三益学校長、3日坂本村に進出した警官隊の不当に抗議して解職)。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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