2010年1月31日日曜日

天文20(1551)年3月~5月 ザビエル、山口入り 日本人修道士ロレンソ誕生 三好長慶暗殺未遂事件 遊佐長教暗殺 真田幸綱、戸石城を攻略  [信長18歳]

天文20(1551)年 [信長18歳]
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ザビエル、山口入り
後の日本人修道士ロレンソ、山口でフランシスコ・ザビエルの説教を聴き熱心なキリシタンとなる
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ザビエルは山口入りに際しては、威儀を正し、インド総督の手紙、日本人が見たことのない進物、豪華な挿絵入り聖書、注釈書などの贈り物も持って大内義隆を訪問。
京都では、着の身着のままで贈り物もない事の不利さを思い知らされていた。内裏や延暦寺でも取り次いで貰えなかったのは進物がなかったからで、日本では清く貧しい伝道者であるよりも外見が立派でなければならないことを知った。
大内義隆は、珍しい物品に満足し、ザビエルが携帯する金襴の祭服を着せてみせて手を叩いて喜び、すぐに宣教許可を与えた。日本人は好奇心が強く、うるさく質問し、知識欲が旺盛で、質問に限りがなく、昼夜を分かたず質問し、尽きることがなかったという。
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「彼らは地球が円いことを知りませんでしたし、太陽の軌道についても知りませんでした。彼らはこれらのことやその他、たとえば、流星、稲妻、降雨や雪、そのほかこれに類した事について質問しました。それらの質問に私たちが答え、よく説明しましたところ、大変満足して喜び、私たちを学識のある者だと思ったようです。」
このような答えに満足した人たち500人余が洗礼を受ける。中には、僧侶として学問を極めた人もいて、その教理の欺瞞、僧侶たちが犯している罪(男色)を暴露。
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ロレンソ:
年齢25~26歳、琵琶を片手に「平家物語」などを語って暮らしを立てている琵琶法師。
「全能なるデウスは、光栄ある使徒パウロが言っているとおり、強い者を辱めるために、最も低いもの、最も卑しいものを選びたもうたように、同じ御主は、彼が日本で入会することを許されたイエズス会の最初のいるまんとなるように、ほとんど全く視力を欠き、生まれながらに甚だおかしな容貌をしたこの男を選びたもうた。」(フロイス「日本史」)。
抜群の記憶力と、語り部としての優れた話術、生来の優れた知能、彼なくして僧侶や身分の高い人たちとの討論は不可能で、彼の不退転の熱意は、キリスト教国で教育された者でもこれ以上でなかったであろうとフロイスは賞賛。
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3月3日
・三好長慶、京都市中に地子銭を課す。松永久秀はこれを厳しく取り立てる。
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3月8日
・三好長慶暗殺未遂事件。
近江朽木で幽居の将軍義輝、刺客を放つ。
4日、京都吉祥院(下京区吉祥院)の長慶屋敷に忍び込む稚児風の刺客が侵入。連累は60余名という。14日、伊勢貞孝の屋敷でで進士(シンジ)九郎賢光に襲われ負傷。賢光はその場で自害。
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「伊勢守(伊勢貞孝)昨日三好(吉祥院、長慶)所へ罷り向かう。大飲に及ぶと云々。
然る処去夜小童忍び入る。焼討ちすべきの造意と云々。彼の小童召し取り強(拷)問す。
今朝近所の物(者)これを取る。但し他行と云々。下京に於いて両人召し取る。晩天三人生害すと云々。六十人計り同類これありと云々。」(「言継卿記」3月8日条)。
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3月14日
・香西元成・三好政勝(政長の子)・柳本・宇津ら丹波勢、洛中に乱入。ゲリラ活動。
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三好政勝は、天文18年6月、摂津榎並城を出奔し、丹波桑田郡の地侍宇津氏(北区宇津を本貫とする土豪)らに匿われていた。
この政勝・元成らの丹波山間部を根拠とするゲリラ軍は、義輝側の最強の精鋭部隊で、執拗に長慶に対し抵抗。政勝らは、千本通りを二条~五条まで南下し、東郊の郷村を焼き打ちして引揚げる。
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5月
・大内義隆の家臣陶隆房、大友晴英を大内家の養子に請うため、大友義鎮に要請。
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5月5日
・三好長慶岳父・河内守護代遊佐長教、高尾城内で将軍義輝(細川晴元)の放つ刺客(時宗僧侶)により暗殺。
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[遊佐長教暗殺の報復]
河内の富裕な国人の萱振某が河内上郡代(上半国守護代か?)に任ぜられ、高屋城城代となる。
河内守護は、畠山稙長・政国が相次いで没し、畠山高政が後嗣となっているが、若年のため実権は守護代層が掌握。
ところが、下郡代(下半国守護代)・飯盛城代安見直政が、河内上郡代萱振某が遊佐長教暗殺に関係しているらしいとの情報をかぎつける。
安見は、大和越智氏の中間であったといわれ、兵卒として働いているうち、鑓突きの術に優れているのが長教の目にとまり、長教のもとで下郡代に抜擢され、士卒5千を動かす大身となる。直政は、時宗僧侶の周辺を密かに調査しこの情報を入手する。
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天文20年12月、河内両郡代の不仲を心配した長慶は、安見の子を萱振方へ聟入り(養子縁組)させる仲介をとり、それが機縁で、直政も高屋城を訪れるようになり、両者は交流するようになる。
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天文21年2月10日、直政は、飯盛城下に「数奇の座敷」を造営し萱振を招待し、酒宴半ばで萱振主従10人を斬殺。
その後直ちに、直政は家臣を高屋城下に向かわせ萱振屋敷を襲撃させ、萱振一族の子女全てを殺害。城内の野尻・中小路氏ら萱振方の土豪は抵抗するが、安見側は大軍をくり出し全てを切腹に追いやる。
ただ萱振某の弟の萱振隆生だけは飯盛城を脱出し、大和生駒を経て奈良へ落ちるが、遊佐一族の筒井氏に捕らわれ高屋城に送られる。
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安見直政は、亡主遊佐長教の仇を討ったとして武名が上り、「弓取の上にては神妙なる働らき、比類なし。君忠の者なり」と、畿内に名を知られるようになる。
長教の弟の根来の松坊が萱振と一味していたことが発覚し、有馬温泉(神戸市北区)に湯治に出ているところを、長慶が派遣した兵により殺害される。
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こうして長教暗殺後、徹底した報復がなされ、結果的には畠山氏弱体化に拍車をかけ、河内の三好氏領国化をもたらす事になる。
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これら長教にまつわる事件の詳細は、賢忍房良尊(興福寺僧侶)が筆写していた大般若経六百帖の奥書に記した「天文間日次記」と称されている。「大日本伝皇代記」「長享年後畿内兵乱記」等にも一致し、大筋は史実を踏まえたものと見ることができる。
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5月9日
・大内義隆、宗養・寿慶らと「宮島千句」を行う。
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5月26日
・武田方の真田幸隆(幸綱、39、小県郡真田郷が拠点)の調略により、上田在の戸石城(上田市)落城。村上義清、本城葛尾城(坂城町)に後退。小県郡域でも武田氏が主導権を掌握。
その後の更科・埴科郡域の領主・地侍調略にも幸綱の働きによるところ大。
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[信濃真田氏]
真田氏は小県郡の古族滋野一族といわれる海野氏の分かれで、室町中期頃から真田郷の小領主としてみえる。
天文10(1541)年5月の海野平の合戦で一族の海野棟綱らと敗れて、上野平井城の上杉憲政を頼る。
天文16年閏7月の武田氏の志賀城攻めには、幸綱が武田方として出陣しており、それ以前での武田氏への帰属であろう。
天文18(1549)3月、幸綱が仲介して帰属した望月源三郎に知行700貫文を安堵しており(「高白斎記」)、既に信濃先方衆としての立場を確認できる。
翌19年7月、幸綱自身が上田で300貫文の知行宛行を約束され、後に真田氏が上田領に進出する契機になる。
翌年、戸石城を攻略。これは、信玄同様の調略をもって容易に占領したといわれて、その後の更級・埴科郡域の領主・地侍への調略も、幸綱の働きによるところが大きい。
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天文22(1553)年8月の村上義清信濃逃亡後は、上田領を与えられ、3男昌幸を人質として甲府に送る。
永禄4(1561)年11月以降の西上野攻略戦略では中心的働きをする。
永禄6年10月の岩櫃城(群馬県東吾妻町)攻略後は、城代として吾妻領支配に深く関与する。
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その後、嫡男信綱が信濃先方衆筆頭として幸綱の後を継承し、3男昌幸は、信玄膝下で奥近習衆から侍大将になる。
昌幸は甲斐旧族の武藤家を継ぎ、武藤喜兵衛と改称し、武田家臣団の中でも特異な働きをする。信玄最晩年の元亀3(1572)年、奉行人の1人になる(他国衆としては異例の処遇)。
天正3(1575)年5月の長篠の戦いでの兄信綱・昌輝戦死後は、復姓して真田家の家督を継ぐ。
勝頼時代、本領真田郷を中心とする上田領支配のかたわら、岩櫃城代として上野国吾妻郡域の地侍衆統率も担当し、重臣として甲府へも出仕。
天正6年6月の甲越同盟(武田・上杉間)成立後には、東上野侵攻戦略の先頭に立ち、同8年5月には、沼田城(群馬県沼田市)を攻略して城主となり、新たに沼田領も支配。
しかし、天正10(1582)年3月、武田家は滅亡し、以後、北条・上杉・徳川・織田・豊臣氏らの大大名や、統一政権との折衝の中で生き残り戦略を展開。
天正15年4月、秀吉の大坂城に出仕し、上田・沼田領を安堵され、大名としての地位を確立。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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