京都祇園、一力(いちりき)のある花見小路を南下すると、そこには京都最古の禅宗の古刹建仁寺がある。
順路から云えば、建仁寺の裏から表(勅使門)側に出ると、そこは六波羅と呼ばれる地域。
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2011年にも再訪し、六波羅密寺で清盛坐像と空也上人像を拝見した(コチラ)
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平家の拠点としての六波羅:
「最盛期には北は六波羅蜜寺のある五条末、つまり平安京五条大路(現松原通)を京外東方に延長したライン、南は同じく六条大路延長のラインで、南北約五〇〇メートルに及び、東西は現鴨川東岸約一〇〇メートルの地点から東に約六〇〇メートル以上、積算して「廿余町」の面積があった。この空間には一族親類から郎従眷族の家々が密集して立ち並び、細かく数えれば「屋数三千二百余宇」に達した・・・。」(高橋昌明「平家の群像」(岩波新書))。
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地図も本書から拝借しました。
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今回は、この六波羅辺り。
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四つ角にある六波羅密寺の碑
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もう一つ、六道之辻の碑
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松原通り(昔の五条大路)
六道之辻の碑を右(西)に行き、振り返る(東側を見る)
この道が六道之辻
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西福寺(この四つ角の西南角にある)
子育て地蔵と通称される浄土宗の寺。
弘法大師が六道の辻に自作の地蔵尊を安置した小堂を建てたことが始まりと云う。
嵯峨天皇の皇后が皇子の病気平癒をこの地蔵尊に祈願したところ、本復し無事に成長して仁明天皇となったということから俗世の信仰を集める。
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六原小学校(もとは六波羅密寺の敷地)の向こうに六波羅密寺がある。
応和3年(963)、空也上人が鴨川の東に仏堂を建て、これが後に西光寺となり、今の六波羅密寺になったという。
空也が西光寺で没した後、弟子の中信が仏教で涅槃の境地に至る六種の行い(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の行)である六波羅蜜にちなんで寺名を改める。
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空也上人は民衆に阿弥陀の名号を唱え、阿弥陀聖とか市聖(京の東市や西市で念仏をした為)とか呼ばれた伝道僧。
出自は不明。皇統の出身(醍醐天皇の子)とも云われる。
若い頃より優婆塞(うばそく、在俗の仏教信者)として五畿七道を巡り、20歳過ぎに尾張の国分寺で出家して空也と称す。
諸国進行中には、悪路を直し、橋を架け、井戸を掘り、屍をみれば火葬して、庶民のなかに身をおく。
天暦2年(948)、延暦寺で天台座主延昌(えんしょう)に師事して光勝の名を与えられるが、終生、沙弥として空也を名乗る。
天暦5年の京都の疫病では、村上天皇が空也に悪病退散を命じる。
空也は十一面観世音菩薩立像を刻み、荷車に安置して市中を巡り、歓喜踊躍する踊念仏を行い、青竹を八葉の蓮片のように割り、茶をたて、そのなかに小さな梅干と結昆布を入れて病人に飲ませ、そのことにより疫病は終息したという。
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宝物館には、空也上人立像、平清盛坐像、仏師運慶・湛慶の坐像などがある。
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六道の商店街
六道之辻のイメージを吹っ飛ばせ。
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六道珍皇寺
創建には諸説あり。
六道は、人間が善悪の業によって赴く六つの迷界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)のことを云い、珍皇寺辺りは、その六道へゆく辻になり「六道の辻」と呼ばれる。
(詳しくは下の看板をご参照下さい)
毎年8月7日~10日、孟蘭盆会「六道詣り」の精霊迎えがあり、大勢の参詣客で賑わう。
平成22年(2010)のビラはこんな感じです(コチラ)
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境内には、小野篁像、閻魔大王像を安置した堂があり、小さな覗き窓からそれを拝むことができる。
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六道之辻を抜け、八坂の塔に向う。
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「★京都インデックス」 「★寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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平家の群像 物語から史実へ (岩波新書)
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