天文20(1551)年 [信長18歳]
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この年(日付けなし)
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・宇喜多直家、上道郡沼(岡山市沼)亀山城主中山備中守信正の娘を妻に迎える。
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・北条氏康、武蔵市宿新田に移住する者の諸役を免除し、新田開発に務めさせる。
戦国大名による宿駅設定の代表的例。
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・春、木下藤吉郎(15)、亡父の形見、永楽銭1貫文を持ち、清洲で木綿針を買い遠州へ向う。曳馬(浜松)で松下加兵衛尉之綱に仕える(太閤素生記)。
この間、草かり、炭焼、草履売、蔵まわり、鍛冶、研、魚屋など38種類の職業を転々とする。
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・この年、三国湊に明の船が入津と伝える(「朝倉始末記」)。
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・蝦夷地、蠣崎氏とアイヌと講和、夷役(いやく)や領土を確定
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この年、蠣崎季広と東西のアイヌ酋長と講和。
蠣崎氏は、勢田内(瀬棚)酋長ハシタインを上ノ国において西部の酋長、志利内(知内)酋長チコモタインを東部の酋長とし、「夷狄の商舶往還の法度を定め」て、諸国から往来の商船から役銭を徴し、その一部を「夷役(いやく)」と称し両酋長に与え、また、東西蝦夷地から来るアイヌ船の停泊地を一定し、それによってアイヌ産物を自家の手に独占する方策をとる。
同時に、このことにより和人の自由な蝦夷地侵略に歯止めをかけ、渡島半島知内川の以西天ノ川までの境域を、正式に和人地と定め、アイヌ人側もこれを承認。
明確なかたちで「和人地」が確立。
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蠣崎氏は各館主を臣下につけ、アイヌと地域協定を結び「和人地」を確定、渡島半島西部の一角を領土とし、その政治権力を掌握するが、身分は東北(出羽)の豪族安東氏の1代官に過ぎない。
しかも、権力は和人地における和人に限定されたもので、アイヌ民族にはその商品流通機構の一部を把握しただけで、蝦夷地の土地・人民支配には遠く及ばず。
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・ロベール・エティエンヌ、ギリシア語新約聖書出版、今日の区分を始めて導入。
ロベール・エティエンヌ(48):
1503~1559、フランスの出版業者、ギリシア、ラテン、ヘブライ、フランス各語の聖書を出版、後、プロテスタントに改宗。
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1月
・三好長逸(長慶の祖父長秀の甥、のち三好三人衆)、禁苑の観覧を願出て許される。長慶は参内せず、宝剣下賜などもない。
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長慶(畿内近国を押えた)の場合、遠国大名の様に綸旨・受領・官途による天皇利用よりも、幕府・朝廷・興福寺の権威自体が克服の対象(信長が後に格闘する同じ課題を先駆けて背負う)。
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1月1日
・神谷宗湛、筑前に誕生。
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1月24日
・京都、禁裏六町と室町との間で喧嘩。中分に入った小幡入道と六町側町人1人が討死(「言継卿記」24日条)。
小幡入道は山科家雑掌大沢掃部の伯父婿にあたる人で、言継は、安禅寺殿、広橋・鳥丸・中御門・一条等近隣の諸公家を来訪して善処方を相談、夜になって上京中の宿老の仲裁で落着。
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町衆が仲裁した最後の紛争(京都町組の自検断=在地裁判権の終末)。
以後、洛中における紛争は全て幕府か三好氏が干与したもの。
信長入京のはるか以前に町衆自治の伝統は殆ど圧縮されている。
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1月30日
・幕府政所執事伊勢貞孝、三好長慶に内応し足利義輝の帰京を企てるが発覚、近江より帰京(「言継卿記」)。
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井勢貞孝は、義輝を見限り、京都に帰って、長慶との和睦を考える。
政所の業務は、京中の商工業者に対するものが殆どで、堅田・坂本では遂行できる仕事ではなく、貞孝は長慶と協力して京都市民の利害をある程度弁護しようという考える。
この計画は、堅田で未然に発覚し、幕府にいたたまれなくなった貞孝は、僅かの雑掌・吏僚を率い、京都に逃れる。
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長慶は、京都支配と諸権門宣撫の為に、幕府政所執事伊勢貞孝一行の復帰を歓迎。
以降、長慶の帷幄では、軍事は松永長頼、公事(訴訟)は伊勢貞孝、とおおよその分担がなされる。
貞孝の行政は、急激な変革を恐れる荘園領主や公家社会、大社寺等に安心感を与える。
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2月3日
・三好長慶、竹内季治へ、洛中の春日西洞院~久我家旧跡にかけての4町の件で泉原将監の申請を却下して久我家に安堵する旨通達(「久我家文書」)。
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2月7日
・三好長慶、山城石原城(南区吉祥院石原町の西光寺西方)に陣を進め松永甚介長頼・久秀に出陣命ず。
松永勢、湖東進出。
足利義輝・細川晴元、琵琶湖対岸観音寺城へ逃亡。
観音寺城からは六角義賢の大軍が上陸、志賀里(大津市)付近で交戦し、近江軍が勝利。松永勢は退却。
10日、足利義輝ら、堅田より竜華・葛川谷を越え、奉公衆朽木氏を頼り、朽木館(滋賀県高島郡朽木村)に移る。
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「三好(長慶)江州へ打ち入るべきの由治定す。諸勢悉く罷り上る。三好は石原城まで罷り上ると云々」(「厳助往年記」2月7日条)。
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2月23日
・ロシア、第3回宗教会議。質問状と提案「ストグラーフ」(100章)起草。
僧侶・修道僧の勢力拡張に歯止め。⇒次に貴族階級の再組織。ツァーリ親衛隊「千人隊」結成。
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2月28日
・細川晴元・六角義賢連合軍、京都鹿ヶ谷に放火して三好長慶軍と交戦(「言継卿記」)。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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