明治17(1884)年11月4日(3)
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・風布の宮下沢五郎(31、重禁錮2年)ら、粥新田峠で花火を打ち上げる。
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「大沢逸作の陳述によれば客月二日暴徒乱入のさい、桜沢村木島善一郎の依頼をうけて大宮郷薬店塩ノ谷其方においてエンサンカリ、ケイカンセキを購求いたし、これをもって横瀬村町田代蔵宅へ持ちゆき、この家において木島善一郎および風布村の宮下沢五郎両名が破烈薬を製したりという。」(大官郷警察署長斎藤勤書の復命書)。
大沢逸作・町田代蔵は銃砲鍛冶職人、風布の宮下沢五郎は農の傍ら学務委員を勤める花火師。
「横瀬村町田代造ヲ訪ヒ木製ノ烟火筒ヲ借受ケ破烈丸ヲ製造シ大野原村ニ進ミ該姻火筒ヲ要所ニ据へ官兵ノ襲撃ニ備へ、四日善一郎ニ属シ百五十六名ト小川ロヲ衝カント欲シテ路ヲ三沢村ニ取り村境粥新田峠ニ於テ善一郎等卜共ニ烟火筒ヲ放チ砲声卜共ニ鯨波ヲ作り阪本村ニ進入シ・・・」(沢五郎判決文)。
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・昼、石間の戦い。
島崎嘉四郎のゲリラ隊、群馬の警官隊を攻撃。前川巡査捕虜。2日の蜂起で参加した「酉蔵」と呼ばれる大工と若い娘2人が警官隊を誘導。
午後10時、嘉四郎は分散したゲリラ隊を下吉田で統合。
5日朝2時頃、児玉に押し出そうとする時、金屋の敗報を聞く。椋神社で休息し、信州行きを部下に告げ、30余で信州進出。貫平軍の幹部として活躍。
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甲大隊の加藤織平・新井周三郎は、群馬県からの警官隊迎撃の為、別働隊として「千鹿谷の大将」島崎嘉四郎に銃砲隊長新井悌次郎ら銃手5~6名、「玉川の子分」小林酉蔵、石間村の柿崎義藤らの猛者に約200人をつけて日野沢谷へ進発させる。
3日夜、別動隊は、上日野沢村小前耕地に分宿し、翌4日早朝から奈良尾峠を越えて矢納村(児玉郡神泉村)に向う。
峠へ半里(約2km)のところで、峠上から警官隊(群馬県警大竹警部ら10余)の発砲を受ける。これに恐れ、一部は逃げるが、嘉四郎や酉蔵ら「強気ノ者」20人は峠に攻め上り、逃げる警官を追って、矢納村鳥羽~神流川吊橋辺に進出し、午後4時頃、高牛で逃げおくれた前川巡査を捕縛。
その後、別働隊は重木耕地へ入り、夜は幹部は村上泰治留守宅に宿泊し、残りは近くの民家に分宿。
村上泰治の妻ハンは、自ら進んで本陣提出を申し出、近隣の女衆を励まして焚出を行う。
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事件鎮定後、本野上分署は所轄内村々に被害届を出させ、これをもとに「暴徒被害者調」を作成するが、その中に村上泰治名義で、「一、脇差四本、倭銃(ヤマトジュウ)一挺、男綿入一枚、外二品」の被害物件がある。協力を偽装する為の被害届提出であろう。
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重木耕地では殆どが蜂起に参加。
警官隊が泰治宅を急襲した際、妨害したとして逮捕された加藤善蔵は、拷問によって健康を害していて参加できなかったが、長男九蔵(19)は参加して重禁錮1年6ヶ月の刑に処せられる。
泰治の一族の中庭柳太郎家では、入聟駒吉が参加し、児玉進撃隊に選ばれ4日深夜の東京鎮台1中隊・警官隊との金屋の夜戦で、拇指に銃創を負う。山野を這いずりまわって逃亡するが、群馬側で捕われ、前橋軽罪裁判所において罰金4円を申し渡される。
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・午後、半納の戦い。
城蜂山の西の山麓で、偵察の群馬県警警官隊、待ち伏せ攻撃を加えられる。警官隊隊長柱野警部補、戦死。
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鬼石町に現地警察本部を設けた群馬県河野警部長は、2日、秩父郡太駄口に警部3名・巡査30名を、南甘楽郡保美ノ山口に警部2名・巡査25名を派遣。保美ノ山口に向った警官隊は、秩父郡矢納村に向う隊と秩父郡太田部村に向う隊とに分かれる。
3日朝には、大宮郷の困民軍本営に、憲兵が矢納村から大宮郷に向うと伝えられている。
4日午前3時、万場分署長佐藤警部補は巡査1名と万場村を出発、神流川を越えて秩父郡太田部村に進出し、村の戸島宅で休憩中に柱野警部補の10余名が到着。柱野警部補は鬼石町の警備本部宛て、「太田部ニ着、一賊ヲ見ズ、賊ハ凡半納ニアリト聞ク、里程一里」と報告、午前7時、佐藤警部補の隊と合同して出発、11時太田部峠に到達。斥候の報告で、「兇徒ハ峠下ノ石問村ニ退キ布陣」と知り、中食を得るため柱野・佐藤警部補は巡査の半数を峠に残置し、半数を率い峠を下り半納に向う。
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この地区における困民党の動き:
石間村加藤織平は、1日の出陣に先立ち、地元の火縄製造経験者に、焼き火縄の製造を指示。
火縄を製造した農民の供述。
「自分ハ素ヨリ火縄ヲ拵(コシラ)ヘル事ヲ知り居ルニ付、今度ノ事件ニ付鉄砲へ用ユル火縄ガ入用ニテ、村方賊魁加藤織平ナル者ニ頼マレ、自宅裡(ウラ)ノ山ニテ本月二日ヨリ三日ノ昼過迄火縄ヲ拵へ、某日午後二時頃、賊ノ頭分ラシキ者取ニ来りタルニ依リスグ渡シタ」(「石間村新井保之松訊問調書」)。
困民軍主力が小鹿野町から大宮郷に進撃後、その背後にあたる城峯山・群馬県方面の官憲の動きに対しては、石間村加藤織平の兄嘉市が中心になって警戒にあたる。近村に呼びかけ、人足狩りだしを行い、神流川近くの太田部村にも、3日午後3時頃抜刀の14名ほどが入り、人足を集め半納に向わせる。
こうして集められた40名ほどは、4日午前8時頃半、納耕地の寄合蔵のある辻に勢揃いする。この中には矢納村に出現した官兵に対処するため、前夜大淵村の甲隊から派遣された別動隊の一部も合流しており、それらの「惣(スベ)テノ指図役」には、上吉田村島崎弥十郎(24、大工、島崎嘉四郎の弟)があたる。弥十郎は、鬼石町や矢納村方面からの官憲の動きを見張るため、城峯山の「権現の尾根」の配置につく。
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「漆木ノ亀番」(金丸亀五郎)は、馬喰風を装って、峠を越え太田部村に出ていたので、群馬県警のこの方面における動きは、「警部巡査方半納へ向フ」の注進となって届いている。
この時、加藤嘉市(副総理加藤織平の兄)は、太田部村に出現の警官隊に対抗するため、皆野の本隊に応援を求める特使を出すが、その本隊は潰滅寸前の混乱で、結局応援は得られず。
警官隊出現の報を聞いた城峯山の見張組は、「道ヲドタドタ飛下り」、半納の横道という山の斜面の6戸程の集落の裏山に潜み、指図役の弥十郎は酉番に対し「警部・巡査ヲ誘ヒ、何処ナリト尾根ヲ下ラスベシ、左スレバ此方ヨリ鉄砲隊ヲ指図シ、其ノ場所ニ赴キ宜シキ様ニ打出ス」と言い含める。
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酉番:
本名は強矢徳次郎、48歳、家は日尾村の合角。幼名を「酉之助」といい、大工をしていたので「酉番」とか「合角ノ酉」と呼ばれる。
「顔ハ丸ク、色ハ白キ方、鼻ハ高ク、髯ハ少々アリ、ロハ並、目ハクリクリ致シ居り」(「石間村加藤栄造訊問調書」)。
自分の女房を寝取ったことがあるという男が自分の家に立寄ると、斧を持って追いかけ臀に斬りつけ、そのあげく自分の家に火をつけ、この男が火付けをしたと言いふらし、7年も訴訟を続けたという話題の持主で、「飛込サヘスルト、如何ナル悪事ニテモ為ス、中中曲者ノ軍師」とみられている。
彼は、2日午前5時頃、村役場から、「暴徒等上吉田村ノ塚越辺迄押寄せタルニ付、村役場へ詰ロ」の触れで、和田耕地の戸長役場に出ると、坂本宗作指揮の別動隊によって、既に役場は帳簿を焼かれ、脊戸の関口清三郎方では、.母屋の戸障子を表に持ち出して火をつけ、土蔵から時計や繭袋を持ち出し、時計は打毀し繭を焼いているところであった。
彼は、ここで困民党に加わり、小鹿野に向う途中塚越の民家で脇差1本を奪い、小鹿野町では前夜本隊が打毀した高利賃を再び打毀し、日暮近く大宮郷の妙見の森(秩父神社)に入り、ここで栄助の顔を見る。暫くの休憩後、秩父郡役所に行き、整列して総理・副総理の入所式に立ち会う。夕食後休憩してよいと言われ、大宮郷の中央にある高利賃の刀屋(稲葉貞助)の隣の家に入って「トロリトロリ」していると、深夜鉄砲の音で目を覚し「スハ討手ニ向ハレシ事」と早合点して裏口から逃げ出す。一晩中山中を走り、石間村の沢口で2人の女に呼び止められる。「逃ゲ通ス事モ六ケ敷カラン」と加藤織平の兄嘉市の組に入り、その夜は近くの実家で休み、この日は朝から地元の組に加る。
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弥十郎から秘命を受けた「酉番」は、「堂ノ尾根」で警官隊の手前10間ばかりのところで、「御願ヒデ御座リマス」と声をかける。
「此地へ来イ」と呼ばれて近寄ると、「使ヒニ通ル人ヲ頼ミ度」というので、承知して近くの「横道」という、山の斜面の6軒ほどの部落の京蔵の家に警官隊を案内すると、警官がここでは「不都合」だというので、役場の筆生岩城福松の家へ案内し縁側に警官を腰かけさせる。
そこで、近所の婦人2人がお茶を出してもてなす。警官隊の隊長は峠に残留の警官を呼び寄せるため手紙を書き、それを婦人1人に持たせて使に出し、ついで中食として鶏1羽の料理を所望し、途中で捕え老人の縄を解いて手伝わせる。
「酉番」はかねて打ち合せ通り、その家の子供と共に薪を取りに行く風をして裏手に回る。
すると、これを合図に裏山に隠れていた弥十郎らが、一斉に鉄砲で警官隊を襲う。警官隊隊長柱野警部補は、6発を発射しながら福蔵宅前の崖下に向うところを狙い撃ちされ、投石でひるんだところを、石間村の高岸団作と加藤太次郎が斬り込んで顔を切り腹を突いて殺害。
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警官隊の逃亡後、弥十郎は、「酉番」と新井伊十郎と共に警部の死体のそばの土に突き立ててあるサーベルを抜き、警部の腰の鞘を取ってそれに身を収める。
「酉番」が、弥十郎に、「御前ハ其刀ガ在レバ壱本ハ余ルニ付、自分ニ呉レヨ」と言うと、弥十郎は自分の腰の刀を「酉番」に渡す。
弥十郎は、警部の懐中を捜すと、手帳とその中に絵図面と10円60銭が見つかる。弥十郎は、「此金ハ大将ニ出シ、其褒美トシテ金五円貰受クルニ付、其時ハ一緒ニ酒ヲ飲モウ」と言う。
「酉番」は「刀ガ出来タル上ハ首ヲ切リ試シタシ」と言い、刀で切り始めるが、初めはよく切れず、「上ヨリモコスリ、下ヨリモコスリ」してようやく首を切断し、竹鎗に突き刺して堂の尾根へ持って行く。この時、太田部の方から大勢の警部巡査が来ると聞き、そこに首を捨てて逃げる。
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この時の困民党の人数は、地元組に前日大淵村から派遣された別動隊の一部が加わり、40~60名程度とみられ、「石間村字漆木ノ剣術遣ヒ柿崎平角、字中郷新井伊十郎、字沢戸新井広吉、日野沢ノ鉄砲打ガ五、六人、藤倉村ノ鉄砲打ガ拾人斗、川原沢村ノ鉄砲打ガ二、三人、三山村ノ者ニテ弐人ガ刀ヲ差シ居タリ」と、かなりの人数が鉄砲を持っている。
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この戦いで困民党側は、石間村半納の城口定吉(55歳)が警官の短銃で右股貫通銃創を受け、石間村漆木の柿崎丑十郎は「頭ニ二ヶ所、掌ニ壱ヶ所、背ニ壱ヶ所ハ太刀傷、足部踝骨ノ上ニ弾丸傷壱ヶ所」を負う。
また、島崎弥十郎は、警部巡査にたち向ったのは「皆剣道ヲ心得タル者」であったと云う。石間村は、加藤繊平はじめ、上州自由党員小柏常次郎らによって、柔術が盛んであり、石間村の諏訪神社に現在もある甲源一刀流の献額には、加藤太次郎、城口定吉、柿崎丑十郎、高岸団作らこの時の戦士の名前がある。
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一方の警官隊は隊長柱野安次郎警部補が殺され、巡査西川弥七郎・吉田彦逸2人が重傷(刀創と銃創)を負う。
吉田彦逸巡査の報告。
「太田部村ヲ経テ石間村へ出張シ、処々巡回ノ末同村筆生岩城福蔵方ニ於テ暫時休憩中、四日午後二時頃兇徒凡ソ四、五〇名、各銃器刀剣ヲ携へ、突然右福蔵宅裏山ヨリ襲来、連(シキ)リニ発砲又ハ石礫等ヲ抛チ掛ケ候ニ付、本職等之ニ応ジ発砲、防禦罷有候処、暴徒益々猖獗ニシテ其勢益々加ハリ、然ルニ同行ノ警官巡査西川弥七郎ヲ除クノ外悉ク見失ヒ候ニ付、其場ヲ引揚ントスルニ、兇徒己ニ四方ヲ囲ミ、益々発砲致スニヨリ、不得己西川巡査卜共ニ一時息ヲ休メン為メ、福蔵宅前面、空家ニ立入候処、暴徒益々集ヒ来り「何ンデモ此辺ニ巡査ガ居ル筈ナリ」と云ヒツツ、該家ニ踏込マントスル勢ヒニ付、西川巡査卜申合セ、同巡査ハ抜剣、本職ハ七連発馬上銃ヲ以テ、将サニ打出ントスル際、兇徒忽チ同家障子ヲ明ケ放ツニ斉シク、本職等両名ガ在ルヲ認メ、大声ニ鉄砲方々々と呼ビ、槍ヲ突キ人参ルニ付、一発ノ下ニ打斃シ、其虚ニ乗ジテ橡側ヨリ庭前へ駈ケ出シタル処、左ノ方ヨリ抜刀ヲ以テ進ミ来ルヲ、尚ホ一発其場ニ斃シ、夫ヨリ右ノ方ニアル暴徒三名槍ヲ以テ突掛ケ来りタルニ付、西川巡査共々之ヲ追駈ケ一名ヲ斃シ、尚ホ巨魁卜覚シキヲ(鉢金ヲ着ケ、義経袴ヲ穿チ、白布ヲ襷トシ、俗ニカツサイ袋ヲ着ケ、年三十四、五、大ナル方)追討セシ処、忽チ振返り、抜刀ニテ本職ノ頭部へ斬付ケ、帽子左方へ傷ケ、其太刀余リテ左手ニ傷ケタリ、此時本職弾丸尽キタルニ付(弾薬ハアリタレドモ玉込ニ暇アラズ)、銃ヲ抛ゲ付直ニ兇徒ニ組付、暴徒ハ組付キナガラ西川巡査ヲ傷付ケタリ、頬及ビ咽へ負傷シナガラ西川斬レト云ヒツツ組討中、同巡査背部へ二夕太刀斬付ケ、暴徒ノ力衰フルニ乗ジ、刀ヲ振ヒテ本職又背ヨリ肩へカケ一刀斬付ケ、(西川巡査モ尚ホ一刀腰部ヲ斬ル)、其場ニ斃ルルヲ認メツツ引揚ゲ申候、此際弾丸裂シク、遂ニ左手へカスリ創ヲ負ヒ、夫ヨリ刀ヲ杖テ退ク事二町余ニシテ警官十二、三名ノ遥ニ引揚ゲ行クヲ認メタルニ付呼返シ、巡査柴田庚吉外四名ノ扶助ヲ受ケ、午後九時頃漸ク鬼石町へ引揚ゲ(「巡査吉田彦逸始末書」)。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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