2010年3月7日日曜日

治承4(1180)年6月7日~19日 三善康信、頼朝に頼政挙兵の顛末を報告

治承4(1180)年6月
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6月7日
・「興福寺の衆徒和平しをはんぬ。逃げ籠もる所の者等、上下相併せ二十余人、仰せに随い早く召し進すべきの由申せしむと。」(「玉葉」同日条)。
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6月9日 
・大納言藤原実定・参議源通親・左中弁藤原経房ら、福原遷都の下見に差遣される。
「輪田において、遷都の地を点定す。左京条里足らず、また右京なしと云々。」(「百錬抄」同日条)。
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6月10日
・平清盛(63)に准三宮(太皇太后・皇太后・皇后に準ずる)の宣下。武家では初めて。
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6月11日
・頼盛の家で議定。
遷都が議され、輪田をあてることになるが、その場では決まらず、兼実を呼んで意見を聞くよう清盛が求め、14日の兼実到着を待つ。
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6月11日
・「女院の御方に参る。伝聞、遷都の事、大略一定たりと雖も、下官の参入を待たるると。この事敢えて定め申すべきの趣無し。ただ形勢に随うべきなり。万人此の如し。」(「玉葉」同日条)。
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6月12日
・藤原定家(19)、高松院御忌日仏事の参仕。
17日、父俊成の供をして好子内親王に参る。
「六月十七日。晴天。入道殿ノ御供ニテ、前斎宮ニ参ズ。又右少将ノ許ニ渡ラシメ給フ。七条坊門ニ留マリ了ンヌ」(「明月記」)。
27日、高倉院の七瀬御祓の使を勤める。
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6月14日
・右大臣九条兼実、福原に参向。同月20日に帰洛。
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8日、清盛は「遷都の間の事」について意見を聴取するため、邦綱を通じて兼実に下向を要請。
13日、兼実は女房4人、季長朝臣以下供人を伴い京都を出立、翌日邦綱の寺江山荘に到着し、福原に参向。

輪田は都を造るのには狭いが、どうしたものかとの諮問に対し、兼実は狭くても仕方がないと答える。
厳島の内侍が小屋野に造都の地を改めるべしとの託宣を語り、播磨の印南野(イナミノ)に都を造る案も出る。
結局、福原を暫定的皇居となし、宅地を人々に配分することで落ち着く。

兼実が諮問された項目は、
「一、左京、条里不足の事 
一、右京、平地幾(イクバク)ならざるの事 
一、大嘗会の事」の3ヶ条。
前2条(福原(和田)の地は狭小で宮城や京城(条里)を十分確保できない)について、兼実は、地形の広狭によって定めればよい、不足ならば宮城を縮めても差支えないと述べる。

鴨長明「方丈記」は、
「所の有様を見るに、その地(福原)、ほど狭くて、条里を割るに足らず。北は山に沿ひて高く、南は海近くて下れり。波の音つねにかまびすく、潮風ことにはげし」と述べている。
そんな中で、和田郡をやめて摂津国の小屋野(昆陽野、現伊丹市)にすべきとの意見もあり、清盛も一旦そのように定めるが、厳島内侍の託宣は播磨国印南野にすべきであったりで、都地選定は思うにまかせない状況となる。
7月になって結局、福原に落着し、そこに内裏を造ることとし諸人への宅地班給や道路開通に取りかかる。
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6月16日
・以仁王の乱鎮定祈願の功で石清水別当慶清、弥勒寺講師喜多院院司に還任、権別当成清は弥勒寺の修理を完成したところでその職を解かれる。
成清は失脚し、秋頃には石清水を去り、都の西郊・仁和寺の寺域内の近衛紙屋川の旧居に住むことになり、姉の出家した小侍従も同行
(小侍従の大宮御所への再出仕の契機となる)。
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元暦元年(1184)11月24日成清は5年前の宇佐の殿堂修理の労をねぎらわれ、頼朝の尽力により弥勒寺講師喜多院院司に返り咲く。
成清は、仁和寺の閑居を出て高野山随心院に隠遁するが、隠遁中の文治4年(1188)正月10日石清水別当に補任、私財を投じ随心院を再建寄進し、文治5年(1189)3月高野山を出て石清水のに帰る。
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6月19日
三善康信(頼朝乳母の甥、頼朝ブレーン)の使者(弟康清)、蛭ヶ小島に近い伊豆北条に到着。源頼政・仲綱挙兵と結果、平清盛の源頼朝誅殺命令を報告。22日、頼朝の書状を携えて帰洛。(「吾妻鏡」)。尚、康信は、寿永3(1184)年4月鎌倉下向。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「庚子。散位(三善)康信の使者が北条に到着した。武衛(源頼朝)は人目のないところで対面された。
使者は次のような康信の考えを申し上げた。
「先月二十六日に高倉宮(以仁王)が討ち死にされた後、以仁王の令旨を受けた源氏は、すべて追討せよという命令が出されています。あなた様は源氏の正統ですから、特に御注意が必要です。早く奥州の方にお逃げ下さい」。
この康信の母は、頼朝の乳母の妹である。その縁により康信の志は完全に源家にあり、さまざまな障害をかいくぐり、十日に一度、毎月三回使者を送って、洛中の情勢を伝えてきていた。そして今、源氏を追討する命令が出されたという重大事なので、弟の(三善)康清と相談し、病気と称して朝廷への出仕を休ませ、使者として遣わしたという。」。
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三善康信:
鎌倉幕府の初代問注所執事。法名善信。
明法家三善家に生まれ、「中宮大夫属康信」(「吾妻鏡」治承5年閏2月19日条)が通称であり、太政官弁官局および二条天皇中宮(藤原育子)の中宮職に出仕する官僚と想定され、朝廷内で裁判訴訟に熟知した官僚としての才能が、後に頼朝の期待するところとなる。
三善康光の男。
右少史を経て応保2年2月19日、中宮属に任ぜられ、同年10月28日、従五位下に叙せられる。その後出家。
母が頼朝の乳母の妹であったところから流罪中の頼朝に京都の情報を提供。頼朝に請われて鎌倉に下向し、寿永3年(1184)初代問注所執事となり幕府の基礎を固める。
特に奥州征伐の際には頼朝から鎌倉留守役を拝命される(「吾」文治5年7月17日条)。
また幕府政治の基礎を固める上で有益な記録類を保持していたと思われ、承元2年(1208)康信の名越の邸宅の文庫が火災で全焼し、「散位倫兼日記」等累代の文書が灰燼に帰し、茫然自失し落涙したという(「吾」正月16日条)。
承久の乱勃発に際し、病身ながら、御家人たちの人心が動揺せぬ内に軍を即時進発させることを主張し、幕府方の電撃的勝利をもたらす(「吾」承久3年5月21日条)。
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「★治承4年記インデックス」をご参照下さい
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