天正10年(1582)6月2日
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□「信長公記」の描写(段落を施す)
「六月朔日、夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国の皆道なり。左へ下れば、京へ出づる道なり。ここを左へ下り、桂川打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり候。
既に、信長公御座所、本能寺取り巻きの勢衆、五方より乱れ入るなり。
信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を、下々の者ども仕出し候と、おぼしめされ候のところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄砲を打ち入れ候。
是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。
透をあらせず、御殿へ乗入れ、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候て、御厩より、矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正林、村田吉五、切って出で、森乱・森力・森坊、兄弟三人。(26人名前略)討死。
御台所の口にては、高橋虎松、暫く支へ合わせ、比類なき働きなり。
信長、初めには、御弓を取り合ひ、二・三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の弦切れ、その後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、これまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。
御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か。殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めさる」(「信長公記」)
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(概略)
光秀の兵、信長の宿舎・本能寺を取り囲み、四方より乱入。
信長も小姓衆も下々の者達が喧嘩を始めたのだろうと思うが、ときの声を上げながら、鉄砲を撃ちかける音。
信長「これは謀反か、いかなる者の企てぞ」。
森成利「明智が者と見え申し候」と報告。
信長「是非に及ばず」。
「透(すき)をあらせず、御殿へ乗入り、両御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候」(何が起きたか知るや、御堂に手勢を集め臨戦体制をとる。是非を論ずるまでもない、戦うのみ、という意味)。
信長は初めは弓で、弦が切れてからは槍で応戦、肘に槍傷を受けたため退き、殿中奥深く入り、内側から閉ざし自害。(「信長公記」)
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新暦7月1日の蒸し暑い京都の夜、小姓たちは素肌同然の出で立ち.。
甲宵を着用し、鉄砲、弓、槍で武装した圧倒的な人数の明智軍とでは勝負にならなず、戦闘は短時間で決着。
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本能寺の防備体制
①「湯殿」(信長の御殿)では信長の側に小姓衆、
②「表御堂」(寺の本堂)では寝ずの番をする小姓衆、
③「御厩」では厩番の武士・中間衆。
表御堂の小姓衆はすぐに信長の側に駆けつけ主君を守る体制。
厩にいた武士(矢代勝介・伴太郎左衛門・伴正林・村田吉五)・中間衆24人が最初に敵に向い討死。
「御殿の内にて討死の衆」27人(森乱丸・力丸・坊丸の3兄弟(可成の345男)を始めとする小姓衆、町屋にいた馬廻衆の湯浅甚介・小倉松寿など)。
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○森成利(乱丸):
森可成の3男。元亀元年(1570)、近江坂本で浅井・朝倉軍と戦い、父可成と長兄が討死し、次兄長可(ナガヨシ)が家督を相続、成利と4男坊九・5男力丸は信長の小姓となる。
成利のエピソード。信長が側近に佩刀を示し、鞘の刻み目の数を言い当てた者にこの刀を与えようと戯れた。皆は推測して答えるが、成利だけは数を言わない。信長が理由を尋ねると、前に刀を預かった際に数えておいたと返答したという。成利の明敏で、注意力に優れた人物である事を示すエピソードである。
兄の長可が武田攻めの功労によって信濃川中島に移封されると、18歳の小姓の身分で兄の旧領である美濃兼山城(可児市)を拝領する。
尚、長可は本能寺の変の2年後、長久手の戦いで徳川軍と戦い討死。3ヶ所の戦場で父子兄弟5人が討死したことになる。森家は6男忠政が継ぐ。
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○矢代勝介:
東国出身の馬術家。信長が集めた名馬の調教役を努め、馬揃えなどに際しては、信長は愛馬を勝介に貸し与え、巧みな馬術を披露させたという。
明智勢の突入の際、同輩が勝介に対して、「お主は当家に仕えて日が浅いから、ここで死ぬことはない。早く逃げよ」と呼びかけるが、勝介は敵の中に斬り込んで討死。
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○松野平介:
かつて美濃三人衆安藤守就に仕え、文武兼備で名高い。天正8年、安藤家改易の際、その才を惜しんだ信長に召し出され馬廻衆に加わる。
平介は、洛外に宿泊していた為、変を知って急行するが間に合わず、やむなく妙顕寺に駆け込む。そこに、かつて美濃三人衆稲葉家に仕え、平介の人物をよく知る斎藤利三の使者が来て、降参して明智家の家臣となるよう勧める。平介は、「忝(カタジケナ)くも過分の御知行下され、御用にも罷り立たず。剰(アマツサ)へ御敵へ降参申し、主と崇むべき事無念なる」と申し述べて切腹。
「誠に誠に命は義に依って軽しと申す本文、此の節に候なり」と、「信長公記」は平介を絶賛。
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○脱出した人:
①島井宗叱(室)・神谷宗湛ら、床の間の絵、弘法大師筆の千字文の軸を持って本能寺を脱出。
②信長の身辺に付添っていた女性たちも生還。「女共比時まで居り候て、様躰見申候と物語り候」(池田家文庫本「信長公記」)。
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島井宗叱:
博多の豪商。天正8年(1580)8月、上方に進出しこれ以後常駐。
津田宗及の茶会記録「宗及自会記」同年8月25日条に、「同八月廿五日朝 はかた嶋井宗叱」とある。
堺の多くの豪商と茶会を通じて頻繁に交渉し、10年正月25日には坂本城での光秀の茶会に津田宗及と共に招かれる。
また、この年正月28日、信長は上洛して自慢の茶湯道具を宗叱に見させることを、松井友閑を通じて宗及ら堺衆に指示していた(「島井文書」)が、信長が甲州征伐準備に謀殺され、上洛が延期されて茶会は実現せず。
しかし、5月29日の上洛は中国出陣の為であると同時に、延期されていた秘蔵の茶器を披露する茶会を開く目的も兼ねていた。
6月1日、信長は本能寺で38種の名物開きの茶会を催す。そして、宗叱はそのまま本能寺に一宿。
翌2日早朝、本能寺は兵火に包まれるが、宗叱は書院の床にあった弘法大師真筆の千字文の掛け軸を持ち去り、同伴した神谷宗湛も遠浦帰帆の図一軸を持ち帰ったという(「島井家由緒書」)。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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