2010年3月20日土曜日

本能寺の変(7) 天正10年(1582)6月2日 明智軍に従軍した武士が記録する本能寺の変 「寛永十七年本城惣右衛門自筆覚書」

天正10年(1582)6月2日
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■「寛永十七年本城惣右衛門自筆覚書」(天理大学附属天理図書館所蔵):
覚書の所蔵者で書誌学者の林若樹が「日本及日本人」(昭和5年2月号)に発表、その後、随筆集「集古随筆」にも収録。
「覚書」は巻子本1巻として伝わる。
題箋はなく、奥に「(寛永)十七年八月吉日 本城惣右衛門有介(花押)」と署名されるところから便宜的にこの名が付けられる。
本文は20ヶ条。
血縁者と思われる本城藤左衛門・同金左衛門・同勘之丞の3人に宛てたもの。
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「覚書」の内容から判断できる惣右衛門の履歴:
丹波に生まれて育った武士。
天正6年(1578)頃、光秀の丹波侵攻時に、籾井城主荒木山城守氏綱の側で明智軍と戦い、光秀の丹波平定後は光秀に仕えるようになる。
本能寺の変で光秀軍に従軍。本目城(京都府園部町)の野々口西蔵坊の配下として本能寺に一番乗り。
後に豊臣秀長に、次いで秀吉の奉行増田長盛に仕え、関ケ原の戦いでは西軍として伏見城攻撃に加わる。更に、大坂の陣では藤堂高虎の一族に属して戦う。
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惣右衛門は、
「我等は悪しく育ち候て、昔は山たち(山賊)・かんとう(好盗)にて暮らし、殺し申し候女・子供」の数は知れずと語り、若き頃の丹波での生活は好賊の類同然であったと回顧し、
最後に 
「地獄へは定まり申し候。臆病は致し申まじく候。ただ願ひ申候儀は比丘に祈り申すべく候」と晩年の心境を吐露する。
「覚書」を記録した寛永17年(1640)、惣右衛門は80~90歳に達していると語っており、天文20年(1551)或~永禄4年(1561)の生まれで、天正10年の「変」時には22~32歳の青・壮年期と推測される。
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□光秀の兵士達は家康襲撃と理解していた

(概略)
「信長に切腹させるなど、夢にも思っていなかった。その頃、秀吉は備中で毛利と対陣中であり、光秀はその援軍に行くということだった。それで山崎のほうへ進出する筈のところ、京都に向かうという。私らは、家康様が上洛していたので、目標は家康とばかり思っていた。本能寺という所についても、何も知らなかった。」
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「・・・のぶながさまニはらされ申す事ハ、ゆめ(夢)ともし(知)り申さず候、
その折ふし、たいこう(太閤)さまぶつちう(備中) ニ、てるもと(輝元)殿 御とり相(取合)ニて、それへ、すけ(助け)ニ、あけち(明智)こし申し候、山さき(崎)のかたへとこころざし候へバ、おもいのほか、京へと申し候、
我 等ハもその折ふし、いえやす(家康)さま御じやらく(上洛)にて候まま、いえやすさまとばかり存し候、ほんのふ寺といふところも申さず候、・・・」  *
フロイスの1582年11月5日付け報告(「イエズス会日本年報』)にも、入京に先立って火縄銃発射準備を命ぜられた明智軍兵士たちは、「これが何のためか疑ひ、或は信長の命により明智が信長の義弟三河の王(家康)を殺すのであろうと考えた」とある。

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□本能寺突入。
(概要)「部隊から騎馬武者(斎藤内蔵介の子息と小姓の二騎)が出てきて、彼らが本能寺のほうへ馬を進めたので、私らも後に続き、かたはら町に入った。
二人は北のほうへ向かった。私らは南の堀際へ東向きに進んで本道へ出た。橋際に一人いたので、私らが首を取った。内へ入ると門は開いて、鼠一匹いなかった。首を持って内へ入った。」
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「北のから入った弥平次(明智秀満)の母衣衆二人が、首は捨てよと命じたので、堂の下へ投げ入れた。
表へ入ると、広間には誰もおらず、蚊帳が吊られているだけだった。庫裏のほうから出てきた、下げ髪で白い着物を着た女一人を捕らえた。侍は一人もいなかった。女は、上様は白い着物を着ていると言ったが、それが信長のこととは思わなかった。その女は内蔵介(斎藤利三)へ引き渡した。そこには鼠一匹いなかった。」
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「信長の奉公衆二、三人、肩衣姿で袴の股立ちを取り、堂の内へ入ってきたので、首をもう一つ取った。その者は浅葱(アサギ、水色)の帷子姿で帯も締めずに刀を抜き、奥の間から一人で出てきが、味方が大勢堂に入ってきたので、それを見て退いた。
私らは蚊帳の陰に入り、この男が通りすぎるところを、後ろから切った。これで首は二つ取った。褒美として槍を頂戴した。」
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斎藤(内蔵助)利三勢が南側から、明智秀満勢が北側から本能寺内に突入。
「本城惣右衛門覚書」によると・・・、
「人じゆの中より、馬のり二人いで申候。たれぞと存候へバ、さいたうくら介殿しそく、こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、我等其あとにつき、かたはらまちへ入申候。それ二人ハきたのかたへこし申候。我等ハミなみはりぎわへ、ひがしむきニ参候」
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「橋の際に人一人い申し侯を、そのまゝ我等首取り申し侯、それより内へ入り侯へば、門は開いて、ねずみほどなる物なく侯つる、
・・・表へ入り侯へは、広間にも一人も人なく侯、蚊帳ばかりつり侯て人なく侯」
(本能寺の堀に架けられた橋のところで門番1人を討ち取り、開け放たれた寺門から突入。寺の中はネズミ1匹もいないほど閑散としていた。寺の本堂に入っても人影がなく、蚊帳がいくつも吊られていた。---本堂は小姓の宿泊場所となっており、朝の支度のために全員が起き出していたと思われる)。
「ご奉公の衆は、袴、肩衣にて、股立(モモダ)ちとり、二三人堂の内へ入り申し侯、そこにて首又一つとり申し侯」
(異変に気が付いて、小姓2、3人が御堂に入ってくるが、惣右衛門たちに討たれる。小姓たちは肩衣姿で、動き易いように袴をまくり上げて帯に挟む股立の格好をしていた。信長の世話をしていた小姓たちが慌てて駆けつけてきた様子)。
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「その者は、一人奥の間より出、帯も致し申さず、刀ぬき、浅黄帷子(アサギカタビラ)にて出申し侯、
その折りふしは、もはや人数入り申し候、それを見、くずれ申し侯、我等は蚊帳吊り申し侯かげへ入り侯へは、かの者いで、過ぎ侯まゝ後より斬り申し侯」
(次に小姓1人が出て来るが、(着替えの途中だったか)、帷子姿で帯もせずにいた。この小姓は、明智勢が御堂に乗り込んできたのを見て逃げ出すが、蚊帳の陰に隠れていた明智勢が背後から斬りつける)。
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圧倒的多数で完全装備の軍団が少人数で無警戒の信長一行を奇襲。
御堂を制圧した明智勢は、信長宿所の御殿へ進む。
「既に信長公御座所本能寺取巻き、勢衆四方より乱れ入るなり。・・・」と、「信長公記」では描写している場面に続く。
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惣右衛門が殿舎の広間に至ると、
「かやばかりつり侯て、人なく候つる。くりのかたより、さげがミいたし、しろききたる物き候て、我等女一人とらへ申候へバ、さむらいハ一人もなく候。
うへさましろききる物めし候ハん由申候へ共、のぶながさまとハ不存候、」。
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惣右衛門は、「上様」が信長とは理解できず(この時まで襲撃の標的が信長とは知らない)、また不意を襲われた信長が夜着姿であった思われる。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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