平家物語の舞台、祇王寺
静かなたたずまいのこじんまりとしたお寺である。
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近くには、滝口寺というこれも平家物語の舞台になっているお寺もある。
残念ながら時間の余裕がなく、滝口寺参拝は断念。
ずっと昔、滝口寺では正調京ことばを話す女性がお寺の由来を話してくれていました。
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説話(虚構)であっても、現在まで語り継がれ、伝承されてきている事実を大事にしたい。
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お寺のパンフレットによるこのお寺の由来。
「現在の祇王寺は、昔の往生院の境内である。往生院は法然上人の門弟良鎮に依って創められたと伝えられ、山上山下に亘って広い地域を占めていたが、いつの間にか荒廃して、ささやかを尼寺として残り、後に祇王寺と呼ばれる様になった。
祇王寺墓地入口にある碑には「妓王妓女仏刀自の旧跡明和八年辛卯正当六百年忌、往生院現住、法専建之」とあって、此の碑の右側に「性如禅尼承安二年(一一七二年)壬辰八月十五日寂」と刻んであるのは、祇王の事らしい。安永の祇王寺は明治初年になって、廃寺となり残った墓と木像は、旧地頭大覚寺によって保管された。大覚寺門跡楠玉諦師は、これを惜しみ、再建を計画していた時に、明治二十八年、元の京都府知事北垣国道氏が、祇王の話を聞き、嵯峨にある別荘の一棟を寄附され、此が現在の祇王寺の建物である。・・・」
とある。
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「祇王」は「平家物語」巻1にある物語。
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祇王は清盛が寵愛する白拍子。
祇王は、清盛の力により、白拍子であった母、妹(祇女)共に富貴な暮らしをしている。祇王を羨む者も妬ましく思う者がいるが、羨む者は、祇王にあやかり「祇」の字を自身の名に用いたりしている。
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ある日、加賀出身の白拍子、仏が清盛の西八条邸に芸を披露するためにやってくる。清盛は会おうとしないが、同じ芸能者として同情した祇王の進言で、仏は館に入ることを許される。
見事な今様と声と舞いに、清盛は仏に心を移し、祇王は館から追い出されてしまう。
祇王は館を出ていく際、「もえ出るも枯るるも同じ野辺の草いづれか秋にあはではつべき」と障子に書き付ける。「萌え出る草」を仏御前に、「枯草」を祇王自身になぞらえ、ともに結局は清盛に飽きられて捨てられる運命にあるのだと詠んだのである。
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その後、母の許に戻り悲嘆の日々を送っていた祇王のもとに、清盛から館に来るよう依頼がある。仏御前が退屈そうにしているので、慰めに来てくれという。
祇王は返事をしないでいたが、母親に説得され清盛邸に赴く。
祇王は、「仏も昔は凡夫であった。私たちもついには仏となる。とすれば、私たち凡夫も仏もどちらも仏性のある身であるのに、気が付かないで隔てられているのは残念ことだ」という今様を歌う。「仏」には「仏御前」の名が掛けられ、白身も同じ白拍子の身であるのに…と嘆いた内容である。
だが、清盛はそんな祇王の気持ちも意に解さず、「この後は召さずともやって来ては、仏をなぐさめてやってくれ」と、無神経に告げる。
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祇王は、このような憂き目は二度と見たくないから身を投げると母に訴えるが、親に先立つことは五逆罪にあたるなどと説得され、思い留まる。そして、母、妹とともに出家。嵯峨の奥の山里に庵を結んで念仏修行をすることとなる。
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ある日、庵の竹の網戸を叩く音がする。祇王は修行を迷わせる魔縁かと思うが、戸を開けてみると、仏御前が清盛邸を抜け出してやってきた。すでに出家の身で、かつて祇王が無常の世をうたい、障子に書き残してきた和歌を見て、世のはかなさを知り仏道に入る決心をしたという。
彼女は、「日頃の罪科を許してください、許してくださるなら一緒に念仏を唱えたいのです」と涙を流して訴える。
祇王は、「あなたは私にとってはうれしい善知識です。さあともに念仏を唱えましょう」と答え、四人はともに仏道修行に励み往生を遂げたのである。
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清盛が天下を思うままにして、人の非難も気にしないで非常識え横暴な振る舞いをしていたことの例話であるとともに、権力や宿縁に翻弄された女たちが恩讐を越えて、仏道に専念する姿を描き、仏法世界の魂の救済と平安を述べている。
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