2010年3月7日日曜日

本能寺の変(5) 天正10年(1582)6月1日~2日 光秀謀叛 本能寺襲撃

天正10年(1582)6月
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6月1日
・安国寺恵瓊、毛利方に無断で清水宗治と面会し、切腹を促す。
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6月1日
・光秀の先発隊、三草越え(篠山盆地~経由で兵庫県加東市に通じる道)ルートをとって出立。
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・午後4時頃、丹波亀山城の明智光秀のもとへ、中国出陣準備ができ次第閲兵を受けるため上京せよ、との信長命が飛脚で届く(「川角太閤記」)。
光秀軍1万3千、丹波亀山城発。
午後6時頃、光秀軍、亀山の東、柴野に着。
夜、光秀は謀反を決意し、重臣の明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐に打明ける(謀反決行直前に限られた重臣にのみ打明ける)。
亀山から中国へは三草山を越えるが、引き返し東に向きを変え、兵には老の山へ上り山崎~摂津へ向かうよう伝え、先に相談した武将達に先鋒を命ず。
老の山へ上り、右の道は山崎天神馬場~摂津国の街道へ、左へ下れば京に出る道。左に下り、夜明けに桂川を越える。
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□「信長公記」(概略)
「六月一日夜、丹波国亀山で惟任日向守が逆心を企てた。
彼は明智左馬助(光秀の娘婿、弥平次秀満)・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐(斎藤利三)等と相談して、信長を討ち果たして天下の主となる計画を決めた。
亀山から中国方面へは三草越えをするのが、これを引返して東向きに馬首を並べ、老の山へ上った。山崎から摂津方面に向かうと兵士たちに伝えた。そして、謀反の相談をした人々に先陣を命じた。
六月一日夜、老の山へ上った。ここから右へ行けば山崎・天神馬場を通って、摂津国の街道に続く道である。左へ下れば京へ出る道である。ここを左へ下り、桂川を打越した頃には、漸く明方になった。」
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①明智左馬助:光秀の娘婿、「弥平次秀満」、福知山城主。
②斎藤内蔵佐:内蔵助利三、もと稲葉一鉄(良通)に属し後に光秀に仕える。「今度謀叛随一也」(「言継卿記」天正10年6月17日)と記され、謀反における役割の大きさがうかがえる。義妹は長宗我部元親に嫁ぐ。末娘は徳川家光の乳母の春日局。
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□起請文をとる。
「信長公記」では、光秀は6月1日、まず重臣4人と謀反の相談をする。
フロイスの11月5日付け報告書(「イエズス会日本年報」)で、5月29日(後に「日本史」では6月1日とする)に「軍隊が(亀山)城内に集まった時、彼(光秀)は四人の部将を招いて、密に信長とその子を殺して天下の主とならんことを告げた」と記す。
打ち明けた重臣の数は、現在では、甫庵「信長記」が広めて、溝尾勝兵衛を加えた5人ということになっている。また、甫庵「信長記」には、重臣たちが謀反に同意すると「牛王(ゴオウ)」の裏に起請文を書かせ、人質を取ったとある。「牛王」は、寺社発行の護符の紙で、裏に約束事を記し、それに違背した場合は神仏の罰を甘んじて受けると書く。起請文のこと。
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□京都に向う口実。
「川角太閤記」には、6月1日申刻(午後3時~5時)、光秀が物頭たちに、京都の森乱から「信長の命令で閲兵のために上洛せよ」との指示が来た、と伝えたとある。
フロイスの報告(「イエズス会日本年報」)でも、「都に入るに先立ち、都に入って信長に己の率いた軍兵の優秀なることを示す必要上、十分の武装をなすことを全軍に命じた」とある。
甫庵「信長記」にも、中国へ出陣する軍勢を信長公にお目にかけると称して出発したとある。
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女婿明智秀満が、「駟馬(シバ、4頭立ての馬車)も舌には不及。五人は他言不可仕といへ共、天知る地知る事必可顕。只々急に京都へ仕侯はゝ大事成就可仕。」(噂が伝わるのは馬車よりも速い。五人が他言しなくても、いずれは露見することになる。急いで京都に兵を進めれば、大事は成就する)(「武辺咄聞書」)と言い、他の者もそれに賛同。
光秀は軍勢を呼び戻し、明朝、上様が直々に閲兵されることになったと説明し、改めて京都に向けて進発。
翌2日未明、桂川を渡河した光秀は、「馬の藁沓(長行軍の際に馬の蹄を保護するためのもの)を切り捨てよ、草鞋は新しいものに履き替えよ、鉄砲足軽は火縄に点火せよ」と戦闘準備を命じる。
訝しむ士卒には、京都に滞在している家康を討ち取ると申し渡す。
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□「敵は本能寺にあり」:
江戸期の俗書「明智軍記」が出典と思われる頼山陽の詩「わが敵はまさに本能寺にあり」の一節。
「川角太閤記」は、「今日よりして天下様に御成りなされ候」。
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6月2日
本能寺の変
明智光秀の謀反。本能寺の信長(49)・二条城の信忠、光秀の急襲により没。
信忠、父信長を救出しようとするが果たせず、自刃。次男織田勝長は戦死。
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本能寺の位置:
「四条坊門西洞院の本能寺」と呼ばれ、北は六角堂、南は四条坊門通、東は西洞院通、西は油小路通に区切られる位置。周囲4町(約436m)と云われる。現在の本能寺(寺町御池)からは西1km・南300m。
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時間経過:
「言経卿記」では、本能寺襲撃は「卯刻」(午前6時頃)で、誠仁親王が二条御所から内裏に避難したのが「辰刻」(午前8時頃)とある。
「信長公記」では、二条御所陥落は「辰の剋(刻)」とある。
フロイスの報告では、本能寺包囲は「天明前」で、二条御所の戦いは「一時間以上」続いたという。
「晴豊公記」では、事件の一報が届いた時、晴豊はまだ寝ていたという。
本能寺の戦いは明け方に始まって短時間で終わり、二条御所の戦いは午前8時頃から1時間ほどで終わったことになる。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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