2014年1月6日月曜日

天喜4年(1056) 前九年の役の第二段階:陸奥守頼義と安倍氏との争乱 阿久利河事件 藤原経清の寝返り

江戸城(皇居)乾門横の小公園に咲いている蝋梅 2014-01-06
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天喜4年(1056)
この年
・前九年の役の第二段階:陸奥守頼義と安倍氏との争乱。

【概観】
頼義の陸奥国での任終直前、この年(天喜4年)の阿久利川事件をかわきりに頼義と安倍氏の関係が悪化、安倍氏側は衣川関を閉じ国司軍の迎撃態勢を整え、本格的戦闘状態へ突入。
この間、頼時の女婿藤原経清の離反もあり戦線は膠着化する。

その後、頼義は陸奥守に再任され、天喜5年7月の頼時の歿で安倍氏側の抵抗の主体は、貞任・宗住へ引き継がれる。
同年11月、貞任の安倍軍4千余を攻略するため頼義軍1,800余は、黄海(東磐井郡藤沢町)の合戦で大敗し、数百人の犠牲を出す。
「騎射神のごとし」といわれた八幡太郎義家の活躍をはじめ、頼義主従(藤原景通・大宅光任・清原貞広・藤原範季・藤原則明)らの活躍の様子を『陸奥話記』は格調高く語る。
頼義は官軍の劣勢を挽回すべく諸国に兵糧・兵士の増派を要請するがはかどらず、隣国出羽にあっても源兼長から源斉頼(ただより)に国司を交替させ支援態勢を整えるが、不調に終る。

阿久利(あくり)河事件
前年(天喜3年)冬から、頼義は任終年の府務(鎮守府管内の官物収納)を行うため数十日間も奥六郡内を巡検。
その間頼時は郡司としてひたすら平身低頭して協力し、接待饗応に努め、駿馬や金を頼義に献じ、郎等たちにまで贈り物をした。
頼義は府務を済ませ、頼時に見送られ、即等・在庁官人らを率いて国府への帰途についた。
その途中、阿久利(あくり)河付近で野営中、権守(在庁官人)藤原説貞(ときさだ)の子光貞の従者や馬が何者かに殺傷された。
「妹を俘囚に嫁がせることができるかと断ったことを、頼時の長男貞任(さだとう)は深く怨んでいる。彼の仕業に違いない」という光貞の訴えに、頼義は貞任を呼び出して処罰しようとしたが、頼時は貞任の引き渡しを拒絶し、衣川関を封鎖する。

事件は、陸奥守の重任を望んでいた頼義が、陸奥国に逗留し続ける口実に仕組んだ謀略であった。頼義は合戦を起こす機会を窺っていた。

また、頼義配下の藤原光貞らの国府官人たちによる頼義の武威を利用しての安倍氏制肘という説もある。
権守藤原説貞・光貞父子は、安倍氏と婚姻関係で結びつこうとして不調に終っていた。
同じく国衙官人の亘理権守藤原経清の場合は安倍氏との結びつきが強い。

藤原説貞・経清はともに「権守」の地位にあったが、彼らはまた中央の藤原一門に列した人物。
『造興福寺記』に氏長者頼通から興福寺修理の参加を命ぜられた「藤氏諸大夫」(五位以上の者)の「陸奥国」の部分にこの両名がみえる。
両人ともに安倍氏との競合は宿命的なものでもあったと推測できる。
奥六郡での領域統治の権は、「共同」から「競争」へ移ることは容易に推測され、婚姻関係に基づく共同性が意味を持たない状況では、対立性が顕著となる。
従って安倍氏と利害を異にした説貞・光貞に代表される国衙官人グループが、国守の権威と鎮守府将軍の武威を利用しようとしたことは、充分にあり得る。
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・ジェノヴァに皇帝特許状授与。市場に関するジェノヴァ市民の慣習的諸権利を確認。
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・パタリア運動、ミラノで発生。
ロンバルディア諸都市に広まった宗教的・政治的・社会的運動、改革後は異端の名称。

パタリア:
「ぼろを着た者」「くず拾い」の意味。
初め、ミラノのアンセルムス(後の教皇アレクサンデル2世)ら3聖職者による「シモニア・ニコライスムの改革運動」。
後にミラノ大司教の専制的支配に対する「市民の反抗運動」に発展。
教皇は、皇帝のロンバルディア教会支配打破の観点からこの運動を支持。
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・アキテーヌ公ギョーム8世、誕生(1056~1086、アリエノール曾祖父)。
この頃、南フランスは事実上の4王国(キテーヌ公、ガスコーニュ公、トゥールーズ伯、バルセロナ伯)に分割。
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・シエナ、アッティナ、ファーノの司教座聖堂に「聖堂参事会」が導入(1051年ルッカで導入)。
フランスでは、南フランスが中心(アヴィニョン、アルル、エクス、アプト)、1060年代パリ、ランス、サンリスに及び、12世紀初め頃50を超える聖堂参事会が誕生。
ドイツでは、パッサウ司教とザルツブルク大司教がこの運動の推進者、フライジンク司教区内ロッテンブッフ聖堂とザルツブルク大司教座聖堂が二大中心、1150年頃50に達する。
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・アッバス朝アル・カーイム、トグリル・ベクに「アル・スルタン(権力を持つ者)」の称号授与。
トグリル・ベクの首都はマルウ(メルヴ)、バグダードには駐剳武将を置いて支配。
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・ムラビトゥーン、スース地方征服。
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2月22日
・ 一条院、落成、天皇が移る。
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6月17日
・グラスベリの戦い。イングランド、ヘリフォード付近。ヘリフォード司教、反撃。グウィネッズ王グリフィズ・アプ・ルウェリン、グラスベリでイングランド軍に大勝。ヘリフォード司教戦死。エドワード証聖王、形式的な臣従礼と引き替えにディー川以西のグリフィズの領土を承認。エルフガル復権。
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8月3日
・前陸奥守兼鎮守府将軍源頼義から安倍頼時「謀反」の報告を受け、政府は頼義に対し安倍頼時追討を任じる宣旨を下す。
9月中旬、使者が多賀城に到着。
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8月4日
・東方に彗星。
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8月15日
・内大臣藤原頼宗が越前権守某らを東大寺領山城国玉井荘に派遣し押領しようとしていると、玉井荘から東大寺に言上。
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8月17日
・主計頭兼備中介中原朝臣、天文勘文を奏す。
26日、陰陽頭安部章親、天文勘文を奏す。
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9月中旬
・頼義に頼時追討宣旨を下るや、坂東武士たちは「雲のごとく集まり雨のごとく来た」。
頼時が籠もる衣川関を目指す頼義の軍勢の中には、平永衡(頼時の女婿、伊具郡領主)平永衡と藤原経清(秀郷子孫、亘理郡領主、亘理権大夫、奥州藤原氏の祖)もいた。
しかし、進軍途中、頼義が配下の讒言によって永衡を斬ったことから、経清は国府が危ないという流言を流し、手兵800余を率い頼時のもとに逃れた。
急ぎ国府に引き返した頼義は兵糧不足を理由にいったん追討を停止し、軍勢を解散する。

平永衡は伊具郡領主であった安倍頼時娘を室とし、頼時から贈られた銀の兜を身に着けている事で嫌疑をかけられた。
永衡は、「前司登任朝臣が郎従と為りて、当国に下向」した人物であり、伊具十郎の通称が与えられていた。
鬼切部の戦いでは国司側の人間にもかかわらず舅の安倍頼時に加勢したことにより、恨まれていたか、またも裏切ると疑われていた。
藤原経清は、鬼切部の戦いで安倍氏側に加勢、またその娘を娶っていたこともある。

藤原経清の寝返り:
経清は、衣川柵攻撃に固執する源頼義に対し、流言(安倍別働隊が守備手薄の多賀城を攻撃、武将の妻子達を略奪するとの)を飛ばす。
全軍後退は安倍軍の追撃招くと懸念した頼義は、気仙郡司の金為時ら在地勢力に衣川柵を攻撃させ、自らは多賀城に退く。
藤原経清は衣川柵攻めの国府軍から安倍氏側へ寝返る。
永衝や経清、あるいは阿久利川の一件での説貞のような有力在庁グループは、在地側の安倍氏と中央下向の国司との仲介役として機能していたが、こうした中間層の旗色を選別させたことからも、争乱は拡大した。

源頼義・義家と安倍・清原・藤原三代
頼信から武家の棟梁の地位を受け継いだ頼義とその子の義家は、俘囚の自治的世界を統御する使命を帯びて陸奥守・鎮守府将軍となるが、政府の意図を超えて俘囚世界に対して二代にわたって侵略戦争を企てた。この激烈な戦闘を通じて、頼義・義家と東国武士との軍事的主従関係の絆は強化していく。
同時に、俘囚の自治的世界は二度の侵略に強靭に耐え抜き、安倍氏から清原氏、そして奥州藤原三代へと発展していく。
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