2014年8月23日土曜日

1783年(天明3年) この年、天明の大飢饉 「四月下旬より八月まで、なが雨やまず、秋の如し。凡そ一年間快晴の日十日ばかり、大悪作なり。」 【モーツアルト27歳】

北の丸公園 2014-08-20
*
1783年(天明3年)
この年
・天明の大飢饉

天明2年~3年の冬は暖冬。
天明3年の年が明けても南風が吹き、豪雪地帯でも殆ど雪が降らず、28年前の宝暦の大飢饉を体験した老人たちは、凶作の前兆ではないかと語り合った。

5月中旬の田植えの頃から逆に冷気が続き、土用のさなかにも年寄は綿入れを着なければ過ごせないほどの低温。
これに東風(やませ)や大霜が加わったため、麦はくさり、稲は青立となり、その他の作物もほとんど結実せず、完全な凶作になった。
とくに関東から奥羽にかけて、北へゆくほど被害は深刻。

「四月下旬より八月まで、なが雨やまず、秋の如し。凡そ一年間快晴の日十日ばかり、大悪作なり。」

「この秋七月二四日に出穂しはじめ、八月のはじめ晩稲の出穂少しばかり、寒くして綿入れを着る。いまだ刈らざる稲に雪たびたび降る。」とある。

農民の大多数は、平年でも端境期になると食料が欠乏し、領主や地主の救済をうけて急場をしのぐ状態だったので、こうした未曾有の凶作に直面すると手のほどこしようがない。
餓死者、栄養失調にともなう伝染病の死者、これに離村者を加えれば、耕地の荒廃、労働入口の激減がもたらす領主の損害は甚大なものであった。
とくに岩木川流域の米どころをかかえながら、米以外に特産品らしいものをなに一つもたない津軽地方や、山間部の多い南部藩領の窮状は惨憺たるものであった。

津軽藩では天明3年9月から翌4年6月までの餓死者は、男女合計8万1,702人、斃馬1万7,211頭、荒田1万3,997町5畝25歩、荒畑6,931町8反5畝24歩と記録され、領内田畑の約2/3が荒廃に帰したという。

南部藩では、餓死・病死者合計6万4,690人、これに他領への流浪者3,330人を加えると、ふだんなら10郡、35、6万人もある領内人口は2割近い数を失ったことになる。

仙台藩でも餓死者40万にのぼり、総高の90%に達する56万5千石の大減収と報告されている。

八戸藩(南部家)では6万人の人口が半減。佐竹領は領内人口40万の中約16万が飢えと病のため没。

秋田矢島藩では、他領の飢人が矢島領内に入り込む。藩は、他領に米を送り出すこと、酒造を固く禁ずる等の策をとる。
農民は、「食全くなく、人々飢餓におちいり、或は居村を離れ、号泣して救助を願うもの日にますます多きを加う。」という有様。
また、「夏冷え侯故か、雨気当り侯故か、痢疫の病時行にて7月20日頃より諸方に病者多く、御家中両町(館町田中町)新町、七日町村にて死人40余、8月中在方に右病気にて死人多し。」の状況。赤痢か腸チフスかの流行。

「天明の飢饉
・・・その前年(天明2年)から六、七年頃に掛けて有名な天明の飢饉が起った。中にも天明三(一七八三)年というのが最も激しかった。殊には東北地方が最も激しかったのである。津軽辺では弘前が最も激しく、郡内の死亡が八万千七百二人に及んだ。下野黒羽藩士の鈴木武助という人の書いた『農喩』の中にこの年の飢饉の状況をしるした一節がある。その文に、

卯(天明三年)のききんもこの近国関東のうちは、まだ大ききんとはいうにいたらず。・・・奥州等の他国にては、うえ死にせしが多くありけり。わけて大ききんの所にては、食物の類とては、一色もなかりければ、牛や馬の肉はいうに及ばず、犬猪までも喰い尽しけれども、ついに命をたもち得ずして、うえ死にけり。その甚しき所にては、家数の二、三十もありし村々、或は竈(かまど)の四、五十もありし里々にて人皆死に尽し、ひとりとして命をたもちしはなきもありけり。そのなき跡を弔う者なければ、命の終りし日も知れず。死骸は埋めざれは鳥けだものの餌食となれり。庭も門もくさむらも荒れて、一村一里すべて亡所となりしもあり。

この飢饉の時に高山彦九郎が奥州に往って、山路へかかったところ、道を失うて、とある人家を見つけて、尋ねて入って見れば、中には白骨累々たりし様は目も当られず。大に驚いて物凄くおぼえ、ようように路を求めて人里に馳ついたという話も、また右の書にしるしてある。

飢饉の惨状
はげしい処では食う物がないので、春になると草木から食物を採るために、山野に出て草を摘んだり、或は藤の葉その他の草葉を採って以て食物に充て、また草木の根を食い或は松皮餅、藁餅など食った。中にはまた食う可きことの出来る限りは食ってしまって食物は一切なくなった。終には前の死んだ者の屍を切取って、その肉を食った者もある。或は子供の首を切って、その頭の皮を剥ぎ去って、それを火の上で炙り焼いて、頭蓋骨の破目に匙を差入れて、中の脳漿を抜き出して、これに草葉などを入れて食ったという。陸奥の方で或人が何とかいう橋を通ったところが、その下に飢えて死んだ者の屍骸が一つあった。それを切って股の肉を銘々の籠の中に入れて持って行った者があった。それを何にするかと聞いたところがこれに草葉を混ぜて犬の肉だと欺いて売るのだと答えたという事がある。実に思いやるだに酸鼻の極である。江戸府内においても地方から来る食料が段々滞って、食物が乏しくなったのである。

飢饉に伴う疫病
飢饉に伴うて疫病が流行った。幕府では出来るだけの事をやった、この疫病の流行を防ぐがためには、薬の方を町触れにして知らした。これは幼稚な方ではあるけれども、当時に在って最善の方法と考えられておったことである。それは享保十八(一七三三)年の飢饉の時に幕府の医者望月三共、丹羽正伯が作った救療方をさらに広く示したのである。・・・(略)・・・」
(辻善之助『田沼時代』)

「扨此の後に至り御府内は五穀の価少し賎く成しか共、他国はさして替りなく、次第に食尽て、果は草木の根葉までもかてに成るべき程の物くらはずといふ事なし。或ひは松の皮をはぎ餅に作りて喰ふの由、公にも聞召し、飢を凌ぐの為なれば藁餅といふ物を作り喰へと触られたり。其の製法は、能わらのあくをぬき粉にはたきて、一升あらば米粉三合まぜ合わせ、蒸し搗て餅となし是を喰ふ事なりき。其の中にも、出羽、陸奥の両国は、常は豊饒の国なりしが、此年はそれに引きかへて取わけの不熟にて、南部、津軽に至りては、余所よりは甚しく、銭三百文に米一升、雑穀も夫に准じ、後々は銀拾弐匁に狗壱疋、銀五拾匁に馬一疋と価を定め侍りし由。然ありしにより元より貧き者共は生産の手だてなく、父子兄弟を見棄て我一にと他領に出さまよひ、なげき食を乞ふ。されど行く先々も同じ飢饉の折からなれば・・・日々に千人二千人流民共は餓死せし由、又出で行く事のかなはずして残り留る者共は、食ふべきものの限りは食ひたれど後には尽果て、先に死したる屍を切取ては食ひし由、或は小児の首を切、頭面の皮を剥去りて焼火の中にて焙り焼、頭蓋のわれめに箆さし入、脳味噌を引出し、草木の根葉をまぜたきて食ひし人も有しと也。

又或人の語りしは、其ころ陸奥にて何がしとかいへる橋打通り侍りしに、其下に餓たる人の死骸あり、是を切割、股の肉、籃に盛行人有し故、何になすとぞと問侍れば、是を草木の葉に交て犬の肉と欺て商ふなりと答へし由。かく浅間しき年なれば、国々の大小名皆々心を痛ましめ饑を救はせ玉へ共、天災の致す所人力にては及がたく、凡そ去年今年の間に五畿七道にて餓死せし人、何万人と云数知れず、おそろしかりし年なりし。・・・夏も過ぎ漸く秋に至りぬれば新穀も出来り世の中少し隠なり。されども昔より人の申伝へし如く、飢饉の後はいつとても疫癘必ず行はるとかや。今年も又其の如く此の病災にかかりては死亡する者多かりき。遥か程過侍れて後、陸奥国松前かたに罷りし人帰り来て語りしは、南部の五戸、六戸より東の方の村里は飢饉疫癘両災にて人種も尽けるにや、田畠は皆荒はてて渺々たる原野の如く、郷里は猶有ながら行通ふ人もなく、民屋は立並べど更に人語の響もなく、窓や戸ぼそを窺へば天災にかかりし人葬り弔ふ者もなく、筋肉爛れ臥もあり、或ひは白骨と成はてて煩ひ寐し其の侭に、夜の物着て転もあり。又路々の草間には餓死せし人の骸骨ども累々と重なり相合ひ、幾らともなく有けるを見過ごし侍ると申たり。かかる無慙の有様如何に乱離の後にても及ぶまじとぞ聞へしなり。此の躰に侍れば何時何の年耕作むかしに立帰り、五穀の実のり出来ぬべし、苦々敷世のさまなりとぞ申けり。又或人の語りしは、白河より東の方、此の一両年の凶作にて、婦人の月経めぐり来らず、鶏玉子を産ざる由、是も一つの異事なるべし」(「後見草」)。
*
・中沢道二、江戸参前舎設立。その後、慎行舎・圭明舎などが設立され、江戸心学講舎として活躍。
町民層だけでなく、農民層・武士層に普及し、支配イデオロギーに組み込まれ、幕府・各藩の教科政策の前面に出される。1790(寛政2)年2月設置の人足寄場の人足教諭方など。
*
・大槻玄沢『蘭学階梯』
*
・藩校設立:福島藩の東西学館
*

0 件のコメント: