2014年9月3日水曜日

1783年(天明3年)2月~3月 ヨーゼフ2世臨席でブルク劇場でのモーツアルトの音楽会大成功 モーツアルト自身もハフナー・シンフォニー(交響曲第35番)の新しさに驚く 【モーツアルト27歳】

江戸城(皇居)平川橋 2014-09-02
*
1783年(天明3年)
2月
・月初、モーツアルト、アリア「千匹もの竜を目の前にするとも」(K.435(416b))(未完)、「男たちはいつでもつまみ食いしたがる」(K.433(416c))作曲。
家主の都合で、一時コールマルクト1179番地(現7番地)に引っ越す。
パントマイムのための音楽(K.446(416d))(断片)作曲。
*
2月4日
・ロシア化学アカデミー総裁ドマシネフ解任。エカテリーナ2世女官ダシュコワ夫人が新総裁に任命。
この年、キリル・ラクスマンはバイカル湖付近でラピス・ラズリ(青金石)を発見。
ラクスマン、政府直属「鉱物探検家」の称号と年金200ルーブルを与えられ、ネルチンスクよりイルクーツクに移る。
*
2月14日
・イギリス、アメリカへの敵対中止を宣言。
20日、アメリカ、イギリスへの敵対中止を宣言。
*
2月15日
・モーツアルト、フォン・ヴァルトシュテッテン男爵夫人に経済的援助を請う手紙を出す。
モーツアルトはフォン・トラットナーに金を借りていた。モーツアルトが返済を2週間延ばしてくれないかと頼むが、フォン・トラットナーは絶対に待てない、今日明日中に返してくれないならば、自分は訴えるという。
結局、この負債は男爵夫人が肩代わりしたのかどうかは不詳。
*
2月17日
・イギリス、シェルバーン首相の講和条約承認を国王に求める奏上文、下院で否決。
24日、シャルバーン首相、辞職。フォックス、ノースの連立政権へ(名目上の首相はポートランド)。
*
2月25日
・スウェーデン、デンマーク、アメリカ独立を承認。
*
3月
・鯖江藩各村、飢人の吟味をし、領内人口の約10%の2856人の救米を願い出る。
4月、「飢米代」として稗代銀が30日分下される。飢人1人1日当たり稗1合5勺~4合5勺まで5段階の支給基準。また同月、領内へ1300俵の作食米が貸与。
*
・モーツアルト、この月、パイジェッロのオペラ「哲学者気取り、または星占い師たち」の「主よ、幸いあれ」によるクラヴィーアのための6つの変奏曲ヘ長調(K.398(416e))作曲。
*
3月2日
・「音楽雑誌」(クラマー主宰)、宮廷オルガニストのネーフェ、ベートーベン(13)を高く評価する紹介文掲載。
*
3月3日
・モーツアルト、宮廷内の仮面舞踏会で、パントマイムのための音楽(K.446(416d))演奏。
アロイジアがコロンビーナ役を、モーツァルトはアルルカン、義兄ランゲがピエロ、ダンス教師のメルクがパンタローネ、画家のグラッシが医者を演じる。

3月11日
・アロイジアの演奏会。
アロイジアの為に書いたアリア(K.294『アルカンドロよ、わしはそれを告白する - わしは知らぬ、このやさしい愛情がどこからやってくるのか』)が歌われ、モーツァルトも「クラヴィーア協奏曲(13番)ハ長調」(K.415(387b))演奏。また、ニ長調の『クラヴィーアのためのロンド』(K382)をアンコールされ、「パリ交響曲」(K.297(300a))も演奏される。
演奏会に来ていたグルックは、交響曲とアリアをいくら誉めても誉め足りない様子で、モーツァルトを次の日曜に食事に招待。

モーツアルトの手紙「劇場はまったく満員でした。そしてぼくはまことに素晴らしいかたちで当地の聴衆に再び迎えられたので、これにはほんとに満足しないわけにはいきません。 - ぼくはもう退場していました。 - しかし拍手は鳴りやみません。 - そこでぼくはもう一度ロンドーを弾かなければなりませんでした。 - まさに篠突く雨でした」(3月12日付)。

3月23日
・皇帝ヨーゼフ2世臨席の下、ブルク劇場で音楽会。
交響曲(第35番)ニ長調(ハフナー・シンフォニー)(K.385)が演奏。六つの変奏曲へ長調(K398)演奏。客席にいたグルックを前に、彼の「メッカの巡礼」から「愚民の思うは」を主題にした変奏曲(K.445)を即興演奏。

この音楽会は大成功。
「劇場はもうこれ以上人が入らないくらいいっぱいでした。しかもロージュというロージュも満員でした。 - しかも一番嬉しかったのは皇帝陛下もご出席下さったことです。それにこの御方はどんなにご満悦であったことでしょうか、またどんなに高らかに拍手喝采をして下さったことでしょうか。」皇帝ヨーゼフ二世は、モーツァルトに二十五ドゥカーテンを贈った。

当日のプログラム
「一 - 新しいハフナー・ジンフォニー、 二 ー ランゲ夫人の独唱で、ぼくのミュンヒェンのオペラ〔『イドメネーオ』〕から四つの楽器の伴奏によるアリア『もし私が父上を失い』、三 - ぼくの独奏で予約協奏曲の第三番〔K415=K6-387b〕、四 - アーダムベルガーの独唱でバウムガルテンのためのシェーナ〔K369〕、五 - ぼくの最新のフィナルムジークの小コンセルタント・ジンフォニー〔K320(第三楽章)〕、六 - ぼくの独奏で当地で評判のニ長調協奏曲、これにぼくは変奏曲によるロンドーをつけた〔K175とK382〕、七 - タイバー嬢独唱でぼくの最後のミラーノのオペラ〔『ルーチョ・シッラ』〕からのシェーナ『私はゆく、私は急ぐ』、八 - ぼくの独奏で小フーガ〔おそらくは即興演奏〕、と『哲学者たち』と題するオペラからの主題による変奏曲〔K398=K6-416eの即興のかたち〕、それに『メッカの巡礼』からの『愚民の思うは』の主題による変奏〔K455の即興のかたち〕、九 - ランゲ夫人独唱でぼくの新作のロンド - 〔K416〕、十 - 最初のジンフォニー〔『ハフナー』〕の終楽章。」

「新しいハフナージンフォニー」:交響曲(第35番)ニ長調(ハフナー・シンフォニー)(K.385)
前年夏、モーツァルトはザルツブルクのハフナー家のために、あわただしく祝典シンフォニーを書き送った。
この年、ウィーンの音楽会で自作を披露する必要上、この曲の総譜を送り返してもらった。
「曲を送っていただいて心から感謝しています。(中略)新しいハフナー・ジンフォニーにはぼくはまったくびっくりさせられました。 - これについてはまったく忘れてしまっていました。これはきっと素晴らしい効果をあげるに相違ありません。」(2月15日付手紙)

海老沢敏さんの解説
「この作品は形の上では音楽会の幕開けとフィナーレを受け持つべく両端に置かれているとはいえ、メヌエットを一つ落としたりして、祝宴用のジンフォニーから祝祭的な交響曲へと完全に変身し、ヴィーンの聴衆の前にその姿を初めてあらわとしたのであった。そこには古い時代の社交的な消費財としてのジンフォニーの性格を超え出た、古典派の正統な、しかし形づくられたばかりの独立した交響曲いわゆる<カンマージンフォニー>の世界がみずみずしいかたちで立ち現われているのだ。これは解放された自由な音楽家モーツァルトが、その自由な心情と精神とによって、またすでに獲得された音楽的な技法と知識とによって、その音楽的創造をおしすすめる時、旧世界としてのザルツブルクから、旧習のかたちで注文された旧来の祝宴用音楽の作品までが質的な変容をとげざるを得ないという重要な歴史的現象の象徴的な実例ともいうべきものであろう。モーツアルトがまことにあわただしく締切に間に合わせるべく、ばらばらに送ったこの作品が、再びその作曲者のもとにまとめられて戻された時、それを書き上げた当のモーツァルト自身が<まったくびっくりさせられました>とみずから驚嘆の声を挙げたことは、こうした不可思議な歴史的現象をまことに稀有なかたちであらわにしているといえるのである。
こうして獲得された地平の上を、モーツァルトは、爾後どのように歩み続け、そしてどこまで到達し、そしてどの地点で倒れるのであろうか? それを語ることが次の課題であろう。」

ハンブルクで刊行されているクラーマーの『音楽雑誌』5月9日号が報じる音楽会の模様。
「ヴィーン、一七八三年三月二十二日(!)発」(22日とあるのは23日の誤り)
「本日、名高い騎士モーツアルト氏は、国民劇場で音楽会を催し、たいへん愛好されている彼の作品が演奏された。音楽会はまことに好評であって、モーツァルト氏がフォルテピアノで弾いた二曲の新作協奏曲ならびにその他の即興演奏はこの上なく強い喝采をもって迎えられた。われらが君主は、いつものしきたりに反して、音楽会の間ずっとお立ち会いになられ、聴衆全員も当地では例のないほど一致した拍手喝采を送ったものだった。音楽会の収入は、総額で千六百グルデンともいわれている。」
*
3月10日
・アメリカ、軍隊の反乱未遂事件。給与未払いなど不満。ワシントンの説得。
*
*


0 件のコメント: