2014年9月18日木曜日

1783年(天明3年)7月 浅間山大噴火。死者1,411人。 翌日、火砕流で鎌原村が埋り、死者466人。 関東・甲信越~奥羽まで灰が降る。 【モーツアルト27歳】

北の丸公園 2014-09-16
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1783年(天明3年)
7月
・7月~10月。モーツアルト、「ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲ト長調」(K423)、変ロ長調(K.424)、「クラヴィーア・ソナタハ長調」(K.330(300h))、イ長調(トルコ行進曲付)(K.331(300i))、ヘ長調(K.332(300k))、「クラヴィーアのためのフーガ変ホ長調」(K153(375f))(断片)、ヘ長調(375h)(断片)、ハ短調(KAnh39(383d))(断片)、「オルガンのための変奏曲の主題ハ長調」(KAnh.38(383c))(断片)作曲。
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・北米、不満兵士数百人、フィラデルフィア州議会議事堂を包囲。ハウ将軍の正規軍の来援知り四散。
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7月7日
・浅間山大噴火。死者1,411人。
8日、浅間山、空前の大爆発。火砕流で鎌原村が埋り、死者466人。
関東・甲信越~奥羽まで灰が降る。 

7月7日、浅間山の噴火とくに著しく、南麓の中山道軽井沢宿では1尺四方位の焼け石が落ち、186軒中51軒が焼失し、70軒が潰れ、65軒が大破した。火石にあたって死者も出た。
さらに南の坂本宿でも噴出物により家が潰れたり、壊れたりした。
降灰は広範囲に及び、東北地方に及んだ。江戸でも大粒の砂や灰が降っている。
また火砕流が発生し、東北斜面を流れ下り、麓の林野に達したが、人家には到らなかった。

8日昼前、吹き上げた熱湯が土石を押し流し、一気に鎌原村などの北麓の村里を襲った。
土石流は吾妻川に流れ落ち、沿岸の村々を呑み込み、さらに下流の利根川沿いの村々に到った。
この日の土石の「押出し」を当時の人々は「山津波」とか「泥押」と呼んでいる。
被害は甚大で、多くの人や馬、家や田畑が土砂の下に埋もれ、あるいは流失した。
その日の晩から翌日にかけて人馬の死骸が下流の村に流れ着き、江戸湾や銚子まで流れ出たのもあった。

江戸では8月7日、幕府下勘定所に江戸留守居が呼び出され、泥入り・砂降りの私領(大名・旗本領)は早々に領主から村々へ泥・砂の取り除けを指図するようにと言いつけられた。また泥・砂をそのまま放置している村方もあると聞くが、いったいどうしたことか、と叱り、その内御料(幕領)見分の者を派遣するが、そのとき私領の村々も見るように言いつけるつもりであるとした。
私領村々の復旧は各領主が責任を持ってあたるべきであると幕府は考えていた。
川越藩は8月17日、詳細な被害届を月番老中へ提出。また20日に五料関所の現状を報告している。
これに対し幕府は被災地見分のため根岸鎮衛らを派遣するが、その折五料関所を見ると伝えた。
川越藩はさらに決壊した堤、泥で埋まった堰々を見てほしいと願い出ている。

根岸鎮衛(やすもり、幕府の勘定吟味役)の見分書(「根岸九郎左衛門被害状況見分上申書等」)による土石流による被害状況
(8月28日に江戸を発ち、9月2日に上州渋川に着き、渋川を拠点に被災村々をくまなく巡見)
一番大きな被害に遭ったのは上野国吾妻郡鎌原村で、村人の78%にあたる466人が「流死」し、名主・組頭も犠牲になった。
同郡小宿(こやど)村では、村人の約半分、149人が「流死」した。
川嶋村や長野原村や群馬郡北牧村でも多くの死者を出した。
(川縁の村の被害が大きく、山付きの祖母嶋村では犠牲者は出ていない)
「流死」人が出ている村は16ヶ村、「流死」人数は1,104人。
家屋の被害では、鎌原・芦生田(あしおだ)・小宿・大前・西久保(さいくぼ)・羽根尾・長野原の村々で全戸が流失。流された家の合計は990軒で、「泥埋」「泥入」家屋も多い。
田畑の被害は「泥砂火石入荒」と「泥入荒」の石高を合わせると5,919石となる。
また「見分書」には、寺社、関所・口留番所、高札、鉄砲、御林、橋、水車の流失、用水路、道路の不通等についても記載されている。

根岸の「見分書」に記載のない被害
翌年、善光寺大勧進が犠牲者のために行った施餓鬼供養で、各村は死者の数だけ経木を受取っており、その数を集計すると1,463人分となる(「浅間焼一件留」)。
また、流失した家1,194軒、死者1,373人とする記録(「浅間大変記」)もある。
『群馬県史』では吾妻川・利根川筋の被害を流失家屋1,151軒、流死人1,624人、田畑泥入地高5,055石余としている。

被害は主に吾妻郡側に流れ出した熔岩流によるもので、風聞では死者は利根川筋村々で2万余人ともいわれ、利根川の本流はもとより、新利根川・中利根川・中川から江戸の大川にまで首や手足のない人馬の屍体が無数に流れてきた。
降灰の範囲は十余国におよび、三十数里離れた江戸にも一寸ほどつもり、さらに百二、三十里もへだたった仙台地方にも6月28日から降灰がみられた。
当時この大噴火は、浅間山の根方にある硫黄を濫掘したせいだという噂が流布された。これまでも山師がたびたび幕府に採掘を願い出たが、硫黄を掘ると山がうつろになって変事がおきるというので幕府は許可を与えなかったのを、田沼意次がはじめて許可したのでこの大災害になったというのである。この流言のなかに民衆の政災観がはっきり反映されている。

幕府・領主の対応
被災地の上野国は幕領・私領(大名・旗本領)が錯綜していた。
吾妻川沿いの鎌原村や川嶋村・長野原村は信州中野代官原田清右衛門の支配地、芦生田村や小宿村は旗本古田大膳の知行所、利根川沿いの中村は武蔵国川越藩松平大和守(直恆)と旗本萩原鉄太郎の相給であった。
7月8日の大災害の報せは直ちにこれら代官・領主の許にもたらされた。

江戸にいた原田代官は、川嶋村と北牧村からの注進で、甚大な被害を知り、直ちに勘定奉行所へ報告し、村々見分のため早速手代を派遣するとした。さらに被害を受けた村から、また近所の村から被害の様子が次々と届き、それも報告している。

上州吾妻郡蒲原村(浅間山麓)名主清平から、幕府代官原田治右衛門へさしだされた届け
「信州浅間、六月末より少し宛(ずつ)焼出、近辺へ灰を吹飛し、七月五日夜亥刻(午後十時)計(ばかり)より、大地震之様(よう)に鳴動致し、麓近くハ勿論、上州高崎辺へ夥(おびただ)敷(しき)小石砂を降し、六日朝、五寸計降積る。六日朝より天気晴、又暮六時(午後六時)より降出、七日ハ一向暗夜の如く、家毎に火を灯し、往来ハ挑燈(ちようちん)を灯し申候。七日夜降通し、八日午前比(ころ)より泥雨に成、火石を飛し、高崎並松井田辺、殊に甚敷く小家抔(など)ハ崩れ、野辺之作物、石泥に埋り青葉一ツも見え不申候」

川越藩の場合は上野国前橋に駐留している家臣からの「御用状」が13日に届いた。
川越藩松平家は直恆の父朝矩(とものり)の代、1749年(寛延2)に播磨国姫路から前橋に転じたが、度重なる利根川の出水によって前橋城の破損が進んだため、1767年(明和4)に幕府に願って川越城に移転した。翌年直恆が家督を相続し、同年前橋城は廃城となった。ただしその後も前橋に陣屋を置き家臣を常駐させていた。
「御用状」の到着が遅れたのは、利根川の五料関所の通行が土砂により妨げられたからであった。
届いた「御用状」には8日昼前に利根川が満水し、土手を越えるばかりになったので、近辺の侍屋敷や町方の者が避難したこと、上流から多くの家や家財が流れ、家には沢山の人が取り付いていたこと、大きな火石も流れてきて、川面一面に煙が立ったこと、土手が決壊するとおおごとなので人足を出し土俵で防いだこと、夜に入って水は引いたことなどが記されてあった。

川越藩は14日この変事を幕府に報告し、同時に福島番所は流失したこと、五料関所の様子は知れないこと(後日泥に埋まったことが判明)、大波・真政の番所は別条ないことも届け出ている。これらの関所・番所の守衛は川越城主の役目であったからである。
同日高崎藩松平家も幕府に届けを出しており、高崎城主が管理する杢(もく)の関所が流されたと報告している。

川越藩は、城下の高松院に命じて国家万民安全の祈祷をさせ、守り札を江戸、町方・在方に配布した。
一方江戸にいる藩主は、被災者には随分心を配り、藩の外聞が悪くならないようにとの意向を川越と前橋の家臣に伝えている。
前橋では7月19日水難の11ヶ村へ麦70俵を貸与すると発表した。しかし麦では春(つ)き立てに手間が入り、半分は米で渡すことになった。また村々に「不穏」の動きがあると察知すると、あらためて手当の米金を与えている。

辻善之助『田沼時代』
「天明三年七月四日の頃から浅間の近傍震動夥しく、その辺りの人民はとてもこの家にいることは出来ぬ、或は林を楯とし、薦蓆(こもむしろ)などを屋根へ掛けまた地がさけるかも知れぬという事で竹林を切りすかしてここに居を移し、中に父母妻子を上州武州の方へ立退かしたのもある。翌日の夜九ツ刻から昼夜となく天地震動して小さな家はヒシヒシと仆れ、怪我人も多く出来た。老若男女は足に任せて二、三里も逃げて行ったけれども、此の如きことは二、三十里四方皆同じような調子であるので、もはやこれでは天地も崩るるかと泣き叫んでいる。何方にゆくとも助かりようはないと嘆き悲む声村々に響き渡って誠に目も当られぬ有様であった。かかるところに、川の近傍の村々では、六日の朝になって、俄かに洪水押寄せ来り、窪地の民家は崩れたまま押流された。この時小さい砂石の降ること夥しく、浅間の方を見れば満山黒雲黒烟、その間に青く赤いはそき火焔が立登って、震動ますます強く、遂に人々はどうなる事かと呆れ果ておったところに、何だか知れぬものが浅間の方からドウという音をなして流れて来たと思えば、今度は水ではなくて湯が流れて来た。あつやあつやと半死半生になって、小高い処へ逃げるのもあり、木の上へ、匐(は)い上って生命を助かったものもある。逃げ遅れた者はその湯に足を捲かれながら匍匐(はらばい)になって逃げたのもある。老人小供は多くこの湯に焼かれて死んだ。大木大石も炎にやけ、大木は根から抜けて二ツ三ツに折れて空中から降下る。四方一面に真暗であったけれども、大石大木の焼落る時はあたかも白昼の如くであったという。家々に飼ってあった牛馬は曳出すことも出来なくて捨てたまま放しておった故に、その牛馬が死物狂になって、当るを幸いと蹴散らしてそのために死する者も少くなかった。ところがまた深山幽谷から熊、猪、狼らが出て来てこれがためにかみ付かれて死する者数を知らぬ。その他三、四日の間は昼夜となく同じ事で、誠に末代にもあるまじき大変で目も当てられぬ有様であった。

この噴火のために縦二十五里、横七、八里の間は殆ど一物もなく焼失せた。また川の砂地が埋ったために泥を押寄せて損害を受けた場所が長さ三十五、六里、村数百二十三、流れ死んだ人が千四百十一人、死馬が六百五十二匹あった。(或は、流された家数は千七百八十三軒、人は三千七十八人死んだともいう。)

その頃次のような落書ができた。
砂毛歌
天明三卯年七月六日頃より、信州浅間山焼け侯由、六日暮時ころより、八日迄、震動、ならびに灰降ル毛降ル。
砂や降る神代も聞ぬ田沼川、米くれないに水野もうとは
浅間しや富士より高き米相場火の降る江戸に砂の降るとは」
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