「回顧録」を読み、ついで「評伝」を読んだ。
■逝去の知らせを纏めた記事
日系アメリカ人の人権活動家コチヤマ・ユリ(河内山百合)さん死去、93歳。 / 訃報 ユリ・コチヤマ R.I.P. #YuriKochiyama (togetter) / 「生涯を通じて、人種や国籍、ジェンダーを超えて幅広い人々を結びつけてきたユリさんの功績を語りつくすことは不可能ですが、その素晴らしい人生と気高い魂に心からの敬意を」(Shima Daigo)
■回顧録の読書ノート
『ユリ・コチヤマ回顧録-日系アメリカ人女性 人種・差別・連帯を語り継ぐ』を読む
その後、「評伝」を読んだあと、ユリ(・ビルご夫妻)に関する事蹟を年代順に並べ、いわば年譜のようなものをを作ってみることにした。
で、そうこうしているうちに、偶然、先週金曜日『朝日新聞』にユリさんに関する記事が掲載されたので、参考までに(下記)。
『朝日新聞』2014-09-19夕刊
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【日系二世人権活動家ユリ・コチヤマの年譜(1)】
1869年(明治2年) カリフォルニアへの日本人移民
「何千人もの中国人労働者の犠牲を払った末、大陸横断鉄道がユタ州のプロモントリーで初めてつながった翌年の一八六九年、最初の日本人移民がアメリカ本土のカリフォルニアに到着する。」(ユリ カリフォルニアの日々)
*1)日系アメリカ人の歴史という意味では、この前年の1868年(明治元年)4月25日に「元年者」と呼ばれる約150人の労働者がハワイの砂糖プランテーションに送られている。まだ「江戸城無血開城」といった事件があった同月である。
*2)明治2年のカリフォルニアへの日本人移民は会津からの40人で若松コロニーという農業定住地を設立するが、1年で失敗したという。
1882年(明治15年) 中国人排斥法
「一八七五年には、アメリカに住む中国人は十万人を突破した。雇い主たちは中国人を低賃金で雇って白人労働者に対抗させたため、中国人労働者への反発はさらに高まった。この排斥感情に火をそそいだのが”黄禍論”という人種差別的な扇動だ。一八八二年、カリフォルニアを中心とした西部諸州選出の議員は、中国人排斥法を強引に成立させた。」(ユリ カリフォルニアの日々)
*3)明治18年1月27日、ハワイ移民第1陣約1千が横浜を出帆し、その後の9年間で3万人近くが移民としてハワイに渡った、との記録あり。
「かわってアメリカは、日本、フィリピンなど、アジア諸国から安い労働力を受け入れた。日本が労働者の海外移住を合法化した一八八四(明治十七)年から一八九〇(明治二十三)年までにアメリカにやってきた日本人は約二千人、次の十年間にはそれが十倍の二万人以上になったという。その日本人の大部分が住みついたのがハワイとアメリカ本土の太平洋沿岸、なかでも私の生まれ育ったカリフォルニア州だった。」(ユリ カリフォルニアの日々)
1887年(明治20年) ユリの父中原正一の生まれ
「私の父中原正一は、一八八七(明治二十)年七月二十一日、岩手児盛岡市近くの遠野という小さな村に生まれている。父は八人きょうだいの末っ子で、両親は二人とも南部藩のサムライの家の出身だったそうだ。父の父、つまり私のお祖父さんは教師だったが、家族が多かったので、家計を支えるためにお祖母さんも小さな学校で教えたり、家で子供に書道を教えていた。」(ユリ カリフォルニアの日々)
1906年(明治39年) ユリの父の渡米
「父は、若いころから事業で成功しようという野心を持っていたらしい。しかし、東京の大学に進学することができなかったので、そのかわりに海外に希望を託したのだろうか。一九〇六(明治三十九)年、十九歳になった父は、二人の義兄を追ってアメリカにやってきた。」
「アメリカにやってきた父は、サンノゼの近くで農園を経営していた義兄のトオヤマのおじさんのもとにまず身を寄せた。」
「父は農園でオレンジをつんだり、ターミナル島の魚缶詰工場でしばらく働いたりしたあと、トオヤマのおじさんがロサンゼルスのダウンタウンで魚市場を開業したので、その全社の技師長として働くようになった。」
(ユリ カリフォルニアの日々)
「父がアメリカにやってきた一九〇六年は、サンフランシスコ大地震が起こった年だ。この地震で住む場所を失ったことに加え、日本人や中国人に対する嫌がらせや暴力沙汰が頻発したこともあって、地震を境に多くの日本人と中国人が、南カリフォルニアやシアトルに移っている。」(ユリ カリフォルニアの日々)
1910年(明治43年) 鮮魚卸問屋「太平洋沿岸魚市場」をサン・ペドロの魚市場に設立
「一足先に渡米した義兄のコンドウのおじさんと一緒に、父は一九一〇(明治四十三)年「太平洋沿岸魚市場」という鮮魚卸問屋を、サン・ペドロの魚市場に創立する。父が全社を始めたころは日本人排斥の嵐が吹き荒れていたので、会社のライセンスは白人の名義で取るしかなかった。魚市場には日本人の同業者はまだひとりもいず、その草分けだった父とコンドウのおじさんは、大変な苦労をしながら鮮魚卸問屋を起こしていったそうだ。
それから父は鮮魚卸問屋のかたわら「中原商会」という会社をつくり、サン・ペドロ港に寄港した日本郵船、大阪商船、川崎汽船の船舶や、日本の軍艦に物資や食料を調達する仕事を始めた。私が生まれたころには、日本の船が必要とする物資の八割を父の会社が扱っていたという。」(ユリ カリフォルニアの日々)
1914年(大正3年) ビルの父の渡米
「(河内山)豊(ビルの父)はまだ十代の少年のときに日本をあとにした。が、たいていの一世のように太平洋を横断するというありきたりのルートでの渡米ではなかった。第一次世界大戦の勃発(一九一四、七)直後、大西洋を横断してイギリスに直行し、六カ月に及ぶ滞英生活を送った。
資産家の生まれとはいえ、年端もゆかず未熟な外国人の豊がアメリカに着いたときは、心が安まらなかった。そのうえ、英語の片言もアメリカ文化のことも皆目知らなかった。ほんのつかのまのことだが、豊は医学校に通学して日本の父のように内科医になる夢にしがみついたものの、その夢はおよそ本人の運命にはならなかった。
アメリカでの本人の初期の消息については不明な点が多すぎる。わかっていることは、豊は結局はワシントンDCに行って、日本のある外交官の娘だと思われる日本国籍の女性と一緒になってから子どもを三人もうけたことである。三人の子どものうち真ん中の子どもマサヨシ(ビルの日本式の下の名前)だけが生きのびた。他の二人の姉と弟・・・は、第一次世界大戦終結の年(一九一八)から翌年にかけて世界的に大流行したインフルエンザ(通称スペイン風邪)で命を落とした。
・・・
・・・当時の東海岸在住の何百人もの一世と同様、豊も一見やすやすとありつける唯一の仕事、召使いの仕事にすぐありつき、ニュージャージー州とニューヨークの富裕な雇用主数人に雇ってもらった。」(回顧録 私のビルへの賛辞)
1917年(大正6年) ユリの父母の結婚
「仕事で成功したあと、父は結婚相手を探すために故郷の岩手県にいったん戻った。私の母 - 沢口艶子は、父の郷里の隣の福島県会津若松の出身で、東京の津田塾という専門学校を出たあと、父方の祖父が校長をしていた中学校で英語の教師をしていた。
昔のことだから、結婚は家同士で取り決められたのだろうが、英語を学んだ母にとってアメリカは憧れの地だったのかもしれない。」(ユリ カリフォルニアの日々)
「第一次世界大戦中の一九一七年のあるとき、二人は結婚、そのあと母は父とアメリカに移民した。ときあたかも、何千という日本人女性がアメリカにいる一世の男と一緒になったときのことである。二人はロサンゼルスから遠くないカリフォルニア州の漁港町サンビードロに、居を構えることにした。」(回顧録 両親のこと)
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評伝
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