2015年6月16日火曜日

【ブログ】官房長官による安保関連法案についての発言は「日本人の習性」か — ハフィントンポスト日本版 / 共同体についての意識の分裂と混乱



共同体についての意識の分裂と混乱
投稿日: 2015年06月15日 22時31分 JST 更新: 2015年06月15日 22時32分 JST

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著名な憲法学者の判断に対しての官房長官の回答は、「そうでない学者もたくさんいる」というものだった。自分の提案に反論されたことに対して、それを受け止めて論理的に反論をしようという意志は一切認められなかった。反対意見があれば、それに対抗する多数決という力を作り出せばよいと考えているのは明らかだった。そこから状況が進めば、「少数意見だから、そういうことを言ってみんなの輪を乱すのは、非国民だ」という非難が出現するまでの距離はとても近い。

今回の事件で、すぐに思い出したのは「砂川裁判」と、その経過についての信頼性に強い疑問を投げかけた吉田、新原、末浪による著書『検証・法治国家崩壊』だった。

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アメリカ国立公文書館に保管されていた、時間をへて秘密指定を解除された文書を調査した新原・末浪らは、砂川判決が出た直後から、アメリカ側の駐日アメリカ大使や駐日アメリカ主席公使・国務長官らと、日本側の外務大臣や最高裁長官らが頻回に会合を重ねて対応を検討していた記録を発見した。公開された秘密文書の中には、最高裁長官が、予想される判決の内容を1959年8月の段階で裁判の一方の当事者であるアメリカの大使に伝えていたことを証言するものも含まれていた。つまり、日本政府とアメリカ政府が当事者となった裁判で、日本における法の最高の権威を象徴する裁判所において、裁判官が一方の当事者に守秘義務に違反して職務の内容を伝えていたという大変スキャンダラスな事実が明らかになったのである。

もう一つ思い出されたのは、2011年の東京電力福島第一原子力発電所事故後に組織された、事故調査委員会の報告書である。そこでは、事故前の事業者と監督官庁との間の関係が問題とされた。本来対立する側面を持つはずの両者の間で、現場の技術格差を背景に東京電力による規制当局である原子力安全・保安院規制当局の「とり込み」が行われていたことが指摘されている。・・・本来ならば独立した存在であることが求められるはずの規制当局が、事業者と一体化してしまい、何らかの根拠があって設定された諸規則が、骨抜きにされていた。

戦後の日本の為政者の一部は、法を尊重する意志が乏しかった。

このような土壌がある中で、さらに現状のように行政の最上位の地位を任されている人々が、最も権威ある法である日本国憲法を軽んじていることを隠す必要もないと考えているのならば、国民の間に遵法意識を期待することはできない。・・・

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中根千枝の『タテ社会の人間関係』は1967年に刊行されたが、日本論についての名著として読み継がれている本である。この本の中には、中根の次のような指摘がある。私はこの中根の主張に、強く賛成している。

とにかく、痛感することは、「権威主義」が悪の源でもなく、「民主主義」が混乱を生むものでもなく、それよりも、もっと根底にある日本人の習性である、「人」には従ったり(人を従えたり)、影響され(影響を与え)ても、「ルール」を設定したり、それに従う、という伝統がない社会であるということが、最も大きなガンになっているようである

冒頭に述べた、現政権の官房長官による安保関連法案についての一連の発言のようなものこそ、中根がこの文章を書き記した時に念頭に置いていた事態だろう。

同じ1967年には法学者の川島武宜が『日本人の法意識』という書物で、日本における伝統的な紛争解決方法を典型的に示す事例として,河竹黙阿弥の歌舞伎狂言『三人吉三廓初買』における「庚申塚の場」を挙げた。

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このような調整方法が有効であるような社会の状況について川島は,「一人一人の個人が独立して相互のあいだに社会的な関係をとりむすぶ,という近代市民社会的な構造がない」と説明した。同時に川島は、当事者のあいだで「黒白」を争い裁判官がその「黒白を明らかにする」という方法(訴訟)が、日本人の法意識にいかに適していなかったのかも説明した。

日本人の意識の中で、社会や共同体への意識が分裂したままで混乱し、一貫した態度を示すことが困難な精神的な状況が出現している。

共同体についての意識の一つは、三人吉三に示されるような、個人が共同体の中に融解して渾然一体となっているものである。

もう一つの意識は、極端に孤立した個人の意識が、それぞれ直接的な接触を最小限にして、可能な限り制度や道具を媒介に、社会的な役割を果たすことを交換しているというもの。

この二つの意識の統合が果たされないでは、一貫した責任主体を担える自我を備えた個人という精神性は現れず、民主主義は機能不全に陥ってしまう。社会の中に生きる個人の義務と権利を保護する法への信頼と尊敬は生じない

しかし苦しい痛みを伴う統合のための精神的な営為は回避され、二つの意識を状況に応じて便利に使い分けることで安逸な生活を許容される状況が、社会の中に生じてしまっている。つまり、「法」や「個人の権利(人権)の尊重」は、タテマエはともかく、ホンネのところではほとんど価値がないと見なされている。その代わりに重要なのは、渾然一体とした共同体の内部の空気を読み間違わずに、力のあるところの近くにいて、その分け前に間違いなく与りつづけることと見なされるだろう。そのような共同体の内部では、理屈を語る人物はかえって軽蔑される。

このような精神性を国民全体の空気として継続することは、国際情勢が変化した現在では危険である。

日本的なナルシスズムを克服して、自我を確立することが目指されるべきだ。









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