2015年8月23日日曜日

夭折の画家 村山槐多『バラと少女』(1917年 大正6年) 関根正二『三星(さんせい)』(1919年 大正8年) (国立近代美術館 常設展) : 日本にもあなたに似た絵かきが居た 長谷川利行や佐伯祐三や村山槐多や さかのぼれば青木繁に至るまでの、 たくさんの天才たちが居た 今でも居る。 そういう絵かきたちを、 ひどい目にあわせたり それらの人々にふさわしいように遇さなかった 日本の男や女を私は憎む。 (三好十郎の戯曲『炎の人』より)

 村山槐多『バラと少女』(1917年 大正6年)

村山槐多(Wikipedhia)
村山 槐多(むらやま かいた、1896年9月15日 - 1919年2月20日)は、日本の洋画家。

生涯
横浜の小学校教師であった父村山谷助と母たまの長男として生まれた。母たまは結婚前に森鴎外家で女中奉公をしており、その縁で鴎外が名付け親となった。10代からボードレールやランボーに読み耽り、詩作もよくした。その早熟さ、デカダン的な生活、貧しさや失恋による心の痛みなどにより、結核性肺炎を患っていた。また、22歳で夭折した点まで同時代の関根正二とよく比較されるが、2人の作風はまったく異なっている。画家自身のほとばしる情念や不安を反映した槐多の人物像は、器用ではないが、一度見たら忘れられない強烈な印象を残すものである。画家の山本鼎は従兄。
1919年2月、そのころ猛威を振るっていたスペイン風邪にかかり、寝込んだ。2月19日夜9時ごろ、みぞれまじりの嵐のなかを外に飛び出し、午前2時ごろ畑のなかに倒れているのを発見された。取り押さえられた槐多は失恋した女性の名など、しきりにうわごとを言っていたが、2時30分に息をひきとった。

略歴
1896年 - 小学校教師村山谷助、たまの長男として、愛知県額田郡岡崎町(現:岡崎市)で生まれる[1]
1897年 - 愛知県額田郡岡崎町から高知県土佐郡小高坂村(現在の高知市)に移り住む
1900年 - 京都市上京区寺町通り荒神口上ル宮垣町58番地に住む
1903年 - 銅駝保育所(現京都市立銅駝幼稚園)卒業、京都市立春日小学校入学
1909年 - 京都府師範学校付属小学校(現在の京都教育大学付属小学校)卒業、京都府立第一中学校(現在の京都府立洛北高等学校)に入学
1914年 - 京都府立第一中学校を卒業し上京、日本美術院の研究生となる 第1回二科展に「庭園の少女」が入賞
1915年 - 第2回日本美術院展覧会で「カンナと少女」が院賞受賞
1917年 - 第4回日本美術院展覧会で「乞食と女」が院賞受賞
1918年 - 第4回日本美術院試作展覧会に「樹木」「自画像」「九十九里の浜」「男の習作」他2点を出品し、奨励賞受賞
1919年2月1日 - 第5回日本美術院試作展覧会に「松と榎」「雪の次の日」「松の郡」「自画像」「松と家」「大島風景」「某侯爵邸遠望」「代々木の一部」を出品し、美術院賞乙賞受賞
1919年2月20日 - 流行性感冒(スペイン風邪)による結核性肺炎で急死、戒名は「清光院浄譽槐多居士」
1920年 - 「槐多の歌へる」(アルス社)が出版される
1921年 - 「槐多の歌へる其の後」と「槐多画集」(アルス社)が出版される

作品
絵画
若年で病没した画家としては比較的多くの作品を残している。全体として、決して技巧的ではないものの、原色を多用した、けばけばしいとさえいえる筆致を特徴とする。『庭園の少女』『バラと少女』『湖水と女』などの女性像や、『朱の風景』『信州風景』『松の群』などの風景をモチーフとして好んだ。その他、托鉢に放尿する裸の僧侶を赤を主調として描いた『尿する裸僧』は、見る者に異様な情熱を感じさせる、もっとも村山槐多らしい作品として知られている。
とはいえ、実質的に画家として活動した期間が約5年足らずであるため絶対的な作品数は少ない。その関係から、現在残されている作品にはかなりの高値が付いており、過去に『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京)に槐多の作品が登場した際には3,000万円の評価額が付けられたこともある(しかもこれは「オークションでのスタート金額」としての評価であり、番組では「実際には億単位になる可能性もある」とのコメントも残された)

代表作
庭園の少女(1914年、福島県立美術館)
裸婦(1914-15年、久万美術館)
尿する裸僧(1915年、信濃デッサン館)
バラと少女(1917年、東京国立近代美術館)
湖水と女(1917年、ポーラ美術館)
自画像(1918年、大阪市立美術館)
松の群(1918年、中野美術館)


詩集『槐多の歌へる』は槐多の死後、友人たちによって編集、出版された。収録された作品は、絵と同様、技巧的というよりも若々しい情熱と率直さに満ちたものである。草野心平の詩人としての成り立ちに大きな影響をあたえているが、一般的には、その絵画と比べると一段低く評価されている。

小説
未完のものも多いが、短編「悪魔の舌」は幻想怪奇小説のアンソロジーなどに多く収載されている。

その他
両性愛者でもあり、少年に宛てたラブレターが信濃デッサン館に資料として残されている。
(Wikipediaおわり)


三好十郎の戯曲『炎の人』より

一八九〇年、明治二十三年七月、
オーヴェルの丘で自ら自分の腹に
ピストルの弾をうちこむまで
あなたは描きつづける。
・・・・・・・・・
そして、あなたの絵は
今われわれの前にある。
これらはわれわれに、いつも新しい美と
新らしい命への目を開いてくれ、
貧しく素朴なる人々に
けなげに生きる勇気を与える。
このような絵を
あなたが生きている間に
一枚も買おうとしなかった
フランス人やオランダ人やベルギイ人を
私はほとんど憎む。
ことには又、こんなに弱い、やさしい心と
こんなに可哀そうに傷きやすい魂を
あなたが生きている間に
愛そうとしなかったフランスの女とオランダの女とベルギイの女とを
私はほとんど憎む。
ほとんど憎む!

日本にもあなたに似た絵かきが居た
長谷川利行や佐伯祐三や村山槐多や
さかのぼれば青木繁に至るまでの、
たくさんの天才たちが居た
今でも居る。
そういう絵かきたちを、
ひどい目にあわせたり
それらの人々にふさわしいように遇さなかった
日本の男や女を私は憎む。

(宇佐美承『池袋モンパルナス』よりの引用おわり)


関根正二『三星(さんせい)』(1919年 大正8年)

近代美術館の説明板
「三星」とは冬の星座、オリオン座の中央に並ぶ星のこと。三人は左が姉、右が恋人、中央は席ね自信といわれています。関根が巻く白い布については、直前の手術跡を示す、耳を切ったファン・ゴッホへのあこがれを示すなど、諸説あります。ほぼ独学だった関根の絵は不器用で、決して巧みではありません。しかし大正期には、うまいことより切実な心情が表されていることを重視する風潮が生じていました。懸命にヨーロッパ絵画を学んだ明治とはだいぶ異なる美術の考え方が、社会に広まっていたのです。

NHK日曜美術館
2014年7月6日放送 再放送:7月13日よる
生きた、描いた、恋した~関根正二の青春

出演
酒井忠康さん(世田谷美術館館長)

VTR出演
窪島誠一郎さん(信濃デッサン館館主)ほか

二十歳という若さで夭折(ようせつ)した画家、関根正二。眼前に現れた幻影を描いた『信仰の悲しみ』、青と赤の鮮烈な色彩がほとばしる『子供』、いとしい女性に囲まれた自画像『三星』。これらの絵は、大正時代を代表する名作として100年後の今も輝きを放ち続けている。
関根の青春は、天才芸術家ならではのエピソードに覆われている。絵具も買えない貧乏生活。失恋に次ぐ失恋。そして狂気に彩られた創作への没頭。破天荒な青春を送りながら、関根はわずか二十歳にして、決して他人のまねではない自分独自の絵を描き出した。刃物で刻みつけるような線描デッサン、鮮やかなバーミリオン(朱)を駆使した色彩、そして“幻影の画家”と呼ばれる幻想の光景。番組では、日記や手紙などでその青春の日々を描きながら、デッサン、色彩、幻想という3つの角度から、関根正二がどのようにして独自性を切り開いたか、その代表作を読み解いていく。


関根正二(Wikipedhia)
関根 正二(せきね しょうじ、本名読み:まさじ[1]、1899年4月3日 - 1919年6月16日)は、日本の洋画家である。

経歴
1899年、福島県西白河郡大沼村(現白河市)に屋根葺き職人の父のもとに生まれた。1908年、前年に発った父を追い上京、深川に住む。小学校の同級生に伊東深水がおり、伊東の紹介で1914年に東京印刷株式会社に就職、そこでオスカー・ワイルドの作品を読み、ワイルドの思想に触れた。1915年、会社を辞めた関根は知人と共に長野県へ放浪、そこで洋画家の河野通勢と出会った影響などを受け、ほぼ独学で絵画を学んでいく。同年、16歳の時に描いた「死を思う日」が第2回二科展に入選。1918年、19歳の時に第5回二科展に出品した「信仰の悲しみ」が樗牛賞に選ばれたが、関根はこの頃より心身共に衰弱し、翌年結核により20歳で夭折した。絶筆となった「慰められつゝ悩む」は後に紛失し、現在は作品を写した絵葉書のみが残されている。関根の代表作である「信仰の悲しみ」は後に日本の近代洋画史を代表する傑作の一つと評され、2003年に重要文化財の指定を受けている。

代表作品
「村岡みんの肖像」(1917年、神奈川県立近代美術館蔵)
「信仰の悲しみ」(1918年、大原美術館蔵、重要文化財)
「姉弟」(1918年、福島県立美術館蔵)
「真田吉之助夫妻像」(1918年、福島県立美術館蔵)
「自画像」(1918年、福島県立美術館蔵)
「三星」(1919年、東京国立近代美術館蔵)
「子供」(1919年、ブリヂストン美術館蔵)



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