2015年8月27日木曜日
古沢岩美 『餓鬼』(1952) (国立近代美術館 常設展) : 「兵卒としての私の戦争への総決算的作品」と作者が呼ぶこの作品は、権威が失墜した山県有朋の銅像を背景に、痛ましい傷痍軍人の姿を描いています。・・・批評家からは、「動機は理解できる。しかし、出来上がったものは醜悪きわまるものだ」と酷評されました。
説明書
古沢岩美(1912-2000)
『餓鬼』 1952年昭和27年
「兵卒としての私の戦争への総決算的作品」と作者が呼ぶこの作品は、権威が失墜した山県有朋の銅像を背景に、痛ましい傷痍軍人の姿を描いています。
周囲には、古沢が見聞した戦地の日本軍の行為がちりばめられています。
この作品は、まだ戦争の記憶が生々しく残っていた朝鮮戦争の最中に発表されたこともあって、多くの観衆を集めたようですが、当時の批評家からは、「動機は理解できる。しかし、出来上がったものは醜悪きわまるものだ」と酷評されました。
練馬区立美術館
古沢岩美 略歴・解説
1912年(明治45)、佐賀県三養基郡に生まれる。
1927年(昭和2)、久留米商業学校を中退、朝鮮大邱に渡り、叔父の店で働きながら絵を描く。
翌年上京して岡田三郎助宅に寄宿しながら本郷絵画研究所に通う。
1934年(昭和9)、豊島区東長崎にあった「長崎アトリエ村」に移り、画家たちと交流。
1938年(昭和13)、「第8回独立美術協会展」にシュルレアリズムに学んだ作品を出品し、注目を集める。
1939年(昭和14)には福沢一郎、麻生三郎らと美術文化協会を結成、第1回展から出品を続けた(1954年に退会)。
1943年(昭和18)、応召。中国で従軍の後1年間の捕虜生活を送り、1946年(昭和21)、帰国。
翌年、日本アヴァンギャルド美術家クラブ発会に参加。
1948年(昭和23)、「第1回モダン・アートクラブ展」出品作《憑曲》など、戦争体験を反映しまた社会のありようを批判・告発しながら、濃密なエロティシズム漂う絵画を描いた。
1982年(昭和57)には板橋区立美術館にて回顧展が開催された。
■古沢岩美、朝日新聞懸賞小説の挿絵コンクールに当選し、シンデレラ・ボーイとなる
(宇佐美承『池袋モンパルナス』より)
古沢岩美が朝日新聞懸賞小説の挿絵コンクールに当選し、千円の賞金を手にしたのだった。東京朝日新聞社創立五十周年を諦念しての賞金一万円の小説と同千円の挿絵の募集があり、小説では、戦後に原爆作家と呼ばれるようになった大田洋子の『桜の国』が当選し、古沢はその挿絵画家に選ばれたのだった。千円は、古沢のひと月の生活費の五十倍であった。
三千人をこす応募者のなかから、古沢は二度の予選を通過し、十二月に入って十人ほどの絵かきとともに数寄屋橋の本社に呼ばれた。寒かったが、なじみの質屋の松坂屋からオーバーを出す金もなく、寝間着同様の和服で出かけていった。まずは本社ビル五階の窓からみおろす銀座の風景を三十分で描かされ、そのあと、豪華な応接室で豪華な幕の内弁当がでた。みんながおじ気づいているとき、古沢ひとりがむさぼり食った。古沢はそのときまで、このようにうまい弁当を食ったことがなかった。食事のあと、銀座へでて街頭風景を描かされた。あれこれ描いたがまとまらず、時間がせまってきたとき、腹を据えて喫茶店にはいり、なんとか画面をまとめた。社へもどったら時間がすぎていたが、品のいい社員が「道に迷われたのではないかと心配していました」といってくれて事なきをえた。
どうせだめだろうとあきらめ、美術文化の旗揚展の制作にもどった。大晦日が近づいたころ、年が越せるかどうか心配なほどに古沢は窮していた。ままよ、と質屋のおやじの古切着をりてセルパンへいき、すきなストラヴィンスキーを聴いていると、かつてその店のレコード係だった妻が駆けこんできて、唇をふるわせながら、来たわよ、来たわよと、わけのわからぬことを口走った。子どもに異変でもおきたかと思い、あわてて飛びだすと、妻は「朝日の旗を立てた高級車がうちのまえにきたのよ。あなた当選したのよ」といった。着物の裾をひるがえし、立教のキャンパスを駆けぬけると、路地の入口にまちがいなく黒塗りの高級車が軍艦旗のような社旗をつけてとまっていた。脇をすりぬけ、路地の奥のわが家にあがるなり、マグネシウムがたかれてなん枚も写真をとられた。
当選の社告と記事は、昭和十五年元旦の紙面に二面にわけて大きく出た。社会面には社告がのり、文化面には、
「前衛派の新人/苦学の栄冠/挿絵の古沢岩美氏」
の二段見出しに、紹介記事と、顎ひげをはやして笑っている写真と談話がのった。談話は長崎派の面目躍如であった。
故郷を出奔して十二年、古沢岩美は二十七歳であった。十枚の百円札を手にして古沢の脚はふるえた。すぐに質屋の松坂屋へ駆けこむと、利子もろくに払ってないのに本も洋服も、そのままにしておいてくれていた。主人はことのほか喜び、祝いの品をくれた。リヤカーを借りてきてうけだした品をつみ、古沢がまえを曳き、妻があとを押した。だれいうとなく、古沢はシンデレラ・ボーイと呼ばれるようになった。
画材屋のいづみ屋、米屋、炭屋、酒屋、そして大家に、たまりにたまった借金を払い、三越へいって、いちばん高い着物を妻に買ってやり、そのうえでキャンヴァスを幾巻きも買って仲間にわけた。幅一メートル、長さ五メートル余でひと巻きのキャンヴァスは仲間をよろこぼせた。寺田政明はそのことを、のちのちまで恩に着た。
「久しぶりに新品のキャンヴァスを手にしたときは涙がでたな。ながいあいだ古キヤンしか使ってなかったからな。古沢はいい奴だ。なかなかできないことだ。本当の話だ」
長崎派の面々は、古沢からもらったまっ白のキャンヴァスを使って、旗揚展にむけて描きつづげでいった。
■昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃の放送のときはどう思ったか
(『池袋モンパルナス』より)
「・・・昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃の放送のときはどう思いましたか」
「やった! と思いましたね。郷里の小学校の後輩が九軍神のひとりでな。そう、特殊潜航艇に乗って真珠湾攻撃に加わって戦死したんです。たのまれて想像で真珠湾攻撃の五十号の絵を描いて母校に寄付しましたよ。だけど、困った、負ける戦争だ、とも思ってましたよ。海軍から情報が入ってたから。ぼくは陸軍より、リベラルな海軍のほうがまだいいと思って、えのぐほしさに海軍の『くろがね会』に入ってたんだ。そこの平出大佐が”海軍は板割の浅太郎だ。陸軍の輸送船団という赤ん坊を背負ってチャンバラやってる。赤ん坊さえいなければ負けないのに”といってましたよ」
■鈴木庫三に斬られかけた話
(『池袋モンパルナス』より)
昭和十七年のある日、古沢は主婦之友社にたのまれて、その社の手帖に「靖国神社の歌」の挿絵を描いた。上部には満開の桜、前景には塹壕にさかさにつきさきった銃、そのうえには穴のあいた鉄兜、遠くぼかして靖国神社を描いたら、すぐに呼びつけられた。鈴木庫三は「陛下からおあずありした銃を土につきさすとは何事か、皇軍の鉄兜には穴はあかん」といった。古沢は「残念ながら鉄兜に穴があいたから死んだんでしょう。死にぎわに苦しまざれに銃をつきさしたんでしょう。それで靖国神社に配られたんでしょう」といった。鈴木は軍刀の柄に手をあけた。古沢はまたのちに鈴木の『国防国家と防空体制』という本の装幀をたのまれ、銀座に黒煙があがる絵を描いた。ふたたび呼びつけられ、「皇軍の護りは鉄壁である。敵機は一機たりとも入れぬ。そこへ直れ」といわれた。古沢があぐらをかいたら、鈴木はは軍刀を抜きかけ、しぶとい奴だ、と捨てぜりふを残して去った。
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