ゴヤ『気まぐれ』(37番)「弟子の方がもっと知っているんじゃないか」1797-99
ゴヤ『気まぐれ』(40番)「何の病気で死ぬのだろうか?』1797-99
ゴヤ『気まぐれ』(41番)「それ以上でも以下でもない」1797-99
たとえば三七番の驢馬が子驢馬にアルファベットを教えているものを見て、弱冠二五歳でスペインの宰相となったゴドイが、王妃の手で外務省の古手の官吏から政治外交の術を学ばせられた、というエピソードを人々は思い出さないであろうか。その前の三三番ですでに、医者は「何も学んだことがないのに何でも知っていて」人々に血を吐かせてい、四〇番は驢馬が瀕死の病人の脈をとっている。「何の病気で死ぬのだろうか?」・・・。治療は成功したが患者は死んだ、とでも言いたげである。宰相は国の脈をとる医者である。三八番、猿がギターの裏を弾いてメス驢馬(マリア・ルイーサを思い出さぬ人があるであろうか・・・)をたぶらかしている。三九番、驢馬が先祖の系図表を眺めて悦に入っている・・・。
そうして四一番では猿が驢馬の肖像を描いている。驢馬は肖像画でライオンに化けているのである。そこに人々は、貴顕大官の肖像を描く、宮廷画家としての画家自身の自嘲を見ないであろうか。「それ以上でも以下でもない」と題して、「画家は彼の肖像を描こうとつとめた。かくてこのモデルを知りもしなければ見たこともない人は、これが誰であるかを知るであろう」と・・・。
ゴヤ『気まぐれ』(75番)「誰も離すことは出来ないのか?」1797-99
「・・・おそらく新しい教育をうけた、自由な女性としてのアルバ公爵夫人との愛のなかに、ある理想的な、あるいは新しい理念的な愛のかたち、双方ともが人間として、男として女として、貴族と平民、主人と召使といった封建的関係を越える愛のかたちを夢想したとしても不思議はなかった筈である。
夢想もまた、やはり夢想にすぎなかった。
しかもなお、七五番に見られるように男と女は、性によって、愛によって、また憎しみによってさえも、眼鏡をかけた蝙蝠の化物のような、夢魔のようなものによって結びつけられていて、「誰も離すことは出来ないのか?」として永遠の苦渋に生きなければならぬ。」
「時代は、先にも触れたようにパンフレット作者の時代であり、諷刺、時代と社会に対する批判、人間性批判は、ヨーロッパの各地において熾烈に行われていた。その批判からしてフランス革命そのものが生れたのではあったが、フランス革命そのものが、かかる批判、批評をいっそう促進したものである・・・。
そこにフランス革命の偉大も悲惨もあるのであって、その逆ではない。そうしてわれわれの画家の場合にあっても、フランス革命の以前にあっては、おそらくかくまでの大胆で自由な「気まぐれぐれ=自由」はありえなかったであろうと思われる。そう推定してみてはじめて最初期のゴヤの伝記作者の一人、フランス人シャルル・イリアルトが口走った「フランス革命に相呼応する思想運動は、スペインにおいては三人の人物によって代表される。文学者ホベリァーノス、経済学者オラビーデ、画家ゴヤ」という、やや興奮したことばもが理解出来るというものであろう。」
「耳の聞えなくなったゴヤがしきりと読書をしているらしい形跡もまた、この版画集からうかがわれる。・・・
バレンシアで翻訳の出たばかりのル・サージュ作『ジル・プラス』の挿話が使われる。五〇番の「チンチーリァスども」がそれである。ル・サージュの原作では、血筋の古い郷士であるドン・アニパル・デ・チンチーリァは、郷土愛のつよい立派な貴族であるけれども、ゴヤはこれをおそろしいほどに変形歪曲してしまう。
すなわちゴヤのチンチーリァスたちは、耳には大きな錠をかけ眼にも蓋をしてしまって、一人は立ったままで、もう一人ははっきりと横になって眠っている。しかもそういう二人に驢馬の耳をした人民が口にスプーンでスープを注いでやって養っているのである。詞書は痛烈である。「何も聞かず、知らず、何もしないこの連中は、多数のチンチーリァスどもの家族に属する、こいつらが何かの役にたつのを見たことがない」と。
ル・サージュという本歌を置いておいた上で、その本歌取りの過程で痛烈な歪曲をやってしまうという方法である。ここには明らかに検閲の問題が考慮に入っている。
この一枚ほどにも、スペインにゴマンといた、何の役にも立たぬ小貴族や郷士を激しく皮肉ったものは、他にドン・キホーテがあるくらいのものである。
またこの一枚は、当時の鎖国政策によるスペインの情況を諷刺していると取ることも出来るであろう。」
ゴヤ『気まぐれ』(58番)「犬に食わせろ!」1797-99
「もう一枚、やはり小説に題材を求めたものは、五八番の「犬に食わせろ!」というもので、これはボッカチオの作品から取られている。物語は、夫を修道院の地下牢に押し込め、お前はもう死んだのだ、だから煉獄の苦しみに遭わねばならぬということにしておいて、その間に男の妻を誘惑する、というものである。中央に僧形の男がもっている変形の槍のようなものは、当時の異端審問所が拷問用に使った、ポンプ大の灌腸器である。こんな怖ろしいもので灌腸をされたのでは、腸までが吸い出されてしまうであろう。
少数の人間の悪徳が、迷信深い民衆を如何に苦しめていることか、と告発がなされる。その全体を、まことに犬にでも食ってもらわなければ救いがない。暗い背景の、二匹の鬼 - と日本語では言うしかないであろう - は、一匹は鳥ともブタともイノシシともつかぬ代物であり、おそらくは悪徳を表象するこいつは歯をむき出して笑い、そのとなりの驢馬のように優しい眼をした鬼は、軽信迷蒙を表象するものであろう。何をされているものなのか、自ら理解しえないのである。
ボッカチオはここでも半分がたは言い訳用のもののようである。というのは、人々はこの拷問用の灌腸器を見たならば、瞬時に異端審問所のことを思い出すであろうから。
いよいよ異端審問所批判がちらつきはじめる。危険を、彼は犯している。・・・」
「ここで少し余計なことなのだが、この一枚についている詞書を訳してみたい。それはポッカチオや拷問用灌腸器などとは別の何かを思い出させる筈だから。
「人々のなか(世の中)に生きる人々は、遅かれ早かれ、灌腸をうける(うんざりさせられる、と同義)筈である。それ避けたかったら山奥ででも生きなければならない。しかも山奥へ行けば行ったで、その孤独な生活は、その生活自体のなかにやはり灌腸(うんざりさせられること)をもっていることを見出させられるであろう。」
この一文を、灌腸(うんざり)などということばを使わずに日本語にするとしたら、次のようなものがもっとも適当であろう。すなわち、
世にしたがへば、身くるし。したがはねば狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。
鴨長明『方丈記』中の一節であるが、乱世、あるいは時代の激変を迎える歴史的時間というものは、古今東西、人間にまったく同じことばを吐かせるもののようである。」
第33番
ゴヤ『気まぐれ』(37番)「弟子の方がもっと知っているんじゃないか」1797-99
第38番
第39番
ゴヤ『気まぐれ』(40番)「何の病気で死ぬのだろうか?』1797-99
ゴヤ『気まぐれ』(41番)「それ以上でも以下でもない」1797-99
第50番「チンチーリァスども」
ゴヤ『気まぐれ』(58番)「犬に食わせろ!」1797-99
ゴヤ『気まぐれ』(75番)「誰も離すことは出来ないのか?」1797-99
0 件のコメント:
コメントを投稿