京都 下鴨納涼古書まつり(過去画像2011-08-13)
*明治39年(1906)
10月
・鴨緑江・豆満江森林経営共同約款調印
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・統監府嘱託・黒竜会主幹内田良平、一進会(韓国内で併合推進唱える)顧問となる。
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・北洋常備軍、彰徳で軍事演習(彰徳会操)
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・悪税反対運動の開始。
商業会議所連合会(上層ブルジョワジーの利益代表、中野武営指導)、「税法改廃に関する建議」(3悪法廃止、塩専売・通行税・織物消費税)を政府に提出。
織物同業組合は日露戦争下で既に織物消費税反対運動展開。
更に、この年2月、西陣・八王子など主要産地の同業組合長名で同税改革陳情書を政府に提出。
9月、京都・東京・名古屋3組合が中心となり「織物消費税廃止同盟大会」を京都で開催。
11月、1道3府14県の塩、醤油・味噌醸造、塩魚の業者が塩専売廃止同盟結成。連合会は、業界の要請のみならず、労賃騰貴による企業の収益減、物価騰貴による労働争議を防ぐ意図もある。連合会は前年10月の大会決議で行政費節約・税制整理を要望。
中野武営:
明治14年政変で大隈派河野敏鎌に従い農商務省権少書記官を辞任、改進党結成に参画。初期議会で予算委員となり藩閥政府と闘う。明治38年8月初代商業会議所会頭渋沢栄一(東京商業会議所会頭)の後を継ぎ、副会頭から会頭となる。前年(明治38年)10月の大会決議、この月の建議など、政府との対決姿勢を示す。
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・山県有朋、「帝国国防方針私案」を明治天皇に上奏。
翌年2月、帝国国防方針・用兵綱領として具体化される。
内容は、ロシア、アメリカ、フランスの順で仮想敵国を定めて軍備を拡張する、というもの。そのための膨大な経費は、日露戦争時の非常特別税を戦後も継続し、さらに、間接税などの増税を実施することでまかなわれた。戦後不況のなかで、これらの政策が民衆を苦しめることになる。
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・この月より1年間で全国私鉄17社買収、4億5千万円。
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・下郷製紙所、組織を変更し中之島製紙株式会社と改称。資本金30万円。
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・神戸製糖株式会社創立。
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・大阪活版工技工組合結成。
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・大阪盲人会設立。
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・大日本労働至誠会結成。
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・南海晒粉株式会社創立(和歌山)。資本金20万円。
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・寶田石油会社、新津鉱業・長岡石油・帝国石油・小千谷石油・五菱組など33の会社組合を買収合併。資本金400万円。
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・二葉亭四迷「其面影(そのおもかげ)」(「東京朝日」~12月31日、78回)。
「浮雲」(明治20~22年)中断以来17年ぶりの小説。「「浮雲」の惰力的労作である…」(内田魯庵)。
■二葉亭の軌跡
明治36年7月、北京の警務学堂の提調を辞して日本に帰国。
その1年前、東京外国語学校と海軍大学の露語教授を辞して、国の運命を担うような事業を志し、ハルビンや北京に流寓し、結局何一つ成就することなく東京に帰って来た。
彼には前妻つねとの間に2人の子供があり、後妻りうと、母志津と一緒に、本郷の西片町10番地に住んでいた。
帰国後、ロシアや中国事情の論評家として新聞に職を得たいと思ったが、思わしい口がなかった。またロシアの極東政策を研究した「露勢東漸考」という著述をしようと、プランを作り、友人坪内逍遥に出版社の紹介を依頼したが、引き受けてくれる本屋はなかった。結局、以前のように文学作品の翻訳で収入を得る外なく、ツルゲーネフの「煙」を冨山房から出す約束をし、途中まで翻訳したが、これも中絶するに至った。彼は母志津の心を安んじることを常に念頭に置いていたが、母は大変我儘で、生活が苦しくなると事ごとに不平やあてこすりを言って息子を厭からせた。その上、彼は経済観念に乏しく、また常に理想的なことを考えていなから、それをやり通すような生活者としての忍耐心に乏しかったから、家計はいよいよ苦しくなった。
この困難な時期に彼のよい相談相手となったのは友人の坪内逍遥と内田魯庵であった。
明治37年2月、日露戦争が始まると、「大阪朝日新聞」記者内藤湖南が、優秀なロシア事情通で、かつ文士でもある二葉亭四迷を思い出し、彼を社員として迎えることを首脳部に建議して、容れられた。
「大阪朝日新聞」入社は二葉亭四迷にとって救いであった。月給100円で、東京在住のまま、ロシアの新聞雑誌から適当な材料を得て原稿を書き送るというのか条件であった。名目は「東亜経営問題の研究」であった。
彼は何度か原稿を書いたが、その原稿は研究論文めいた難かしいもので、派手な戦勝気分に満ちていた新聞の記事としてはふさわしくないものが多かった。そのため、彼の原稿はほとんど新聞に載せられることがなかった。彼は不愉快な日を送るようになり、新聞社もまた彼に不満であった。
この年10月、彼は脳貧血の気味で東京郊外、北豊島郡滝野川村大字田端に転居した。
その間、彼は「朝日」以外に内職として文学作品の翻訳を発表するようになった。それはトルストイの露土戦争を描いた小説「つつを枕」、ガルシンの「四日間」等であった。そういう社外の活動が「大阪朝日新聞」に分ると、彼の立場は一層不利になり、会長村山龍平は彼をやめさせようと考えるに至った。
明治38年3月、彼は、「東京朝日新聞」主筆、池辺三山から逢って話したいという手紙を受けとった。三山によると、村山とともに「朝日新聞」創設者である上野利一社長は二葉亭四迷を引きとめたい意向であるが、村山が中々承知しないので困っている、とのことであった。二葉亭四迷はいま「朝日」をやめると生活に困ることになるので、1、2カ月の猶予をもらい、その間に自分が役立つかどうかを試してもらいたいと言って、三山に取りなしを頼んだ。三山は努力を約し、今後「東京朝日」のために原稿を聾いてはどうかと提案した。
結局、三山の努力によって、二葉亭四迷は新聞社の席を失うことなく、以後「東京朝日」の仕事をすることになった。彼は深く三山を徳として、その人柄に服した。
■池辺三山
池辺三山(吉太郎)は西南戦争により刑死した熊本の人、池辺吉十郎の子。
吉太郎は少年時代に漢学を修め、10歳の頃から詩文の才によって知られていた。
17歳で上京、中村敬宇の同人社に学び、後、福沢諭吉の慶応義塾に転じた。
その後、熊本の旧藩主細川家の東京における藩塾、有斐栄舎の舎監となったが、明治21年、数え25歳のとき、大阪に移って東海散士柴四朗とともに雑誌「経世評論」を発行し文筆に生きることとなった。
明治25年、陸羯南に才を認められて新聞「日本」に客員として執筆しはじめ、外交問題、時事問題に精通することで知られた。
またこの年(明治25年)、旧藩主細川侯爵家の長子護成の留学に附き添ってフランスに赴き、数年滞在した。その間日清戦争の時期にあたって鉄崑崙の筆名で、日清戦争のヨーロッパにおける反響を新聞「日本」に書き好評を博した。
明治30年9月、「大阪朝日」主筆の高橋健三が、松方大隈連合内閣の書記官長となって、「朝日」を去った。高橋健三は、明治22年、二葉亭四迷が「浮雲」第三篇を最後として小説家たることを諦め、内閣官報局の雇員となったとき、そこの長官をしていた。彼は新聞「日本」の創立にも関係があり、「大阪朝日」の中心人物であった。村山龍平は高橋のあと池辺三山を招き主筆とした。彼が主筆となって以後、「朝日新聞」の紙面はとみに活気を加えた。"
明治31年、池辺は「東京朝日」に移り、西村天囚(晴彦)を継いで主筆となった。
明治34年、北清事変直後の中国・朝鮮の視察旅行をしたので、二葉亭四迷の ロシアや中国に関する知識には敬意を抱いていた。
池辺三山は、初めから二葉亭四迷を文士として考えていた。彼が長谷川辰之助として時局を論じても、新聞の役に立つものが出来る筈がない、というのが彼の意見であった。実際、明治38年1月から「大阪朝日」に連載して中絶した「満洲実業案内」という記事は、新聞記事というよりは「参謀本部か外務省」に調査書類として提出するにふさわしいような詳細極まる固苦しいものであった。三山は、二葉亭四迷がやめさせられそうになったとき、「大阪で断念してしまえば朝日が二葉亭四迷を失う事になり、又長谷川君に断念せらるると私が友誼甲斐ない事となる」と考えて村山龍平と二葉亭との間に立って努力し、どうにか成功した。
明治38年6月頃から二葉亭四迷の原稿が「東京朝日」に載るようになった。
戦争の結果起る事態に備えて彼は「樺太の森林」「樺太の炭鉱」「露国革命党」など啓蒙的な記事を続けて書いた。三山は彼の内職なる文学作品翻訳も「社の仕事が留守にならぬ範囲でするなら構った事なし」と言ったので、彼はゴーリキーやガルシンやゴーゴリの翻訳を公けにした。また翌年7月には「世界語」という題のエスペラントの解説書を、西本翠蔭の経営する彩雲閣から出版した。この本は思いがけず版を重ねて二葉亭を潤した。
この年(明治39年)、ロシア事情の解説も用がなくなり、二葉亭は文学ものの翻訳や小品文などを「朝日新聞」に暫くようになった。
5月、三山は、「東京朝日」に連載中の柳川春葉「もつれ糸」のあとの小説を二葉亭四迷に書かせようと考えはじめた。小説でも書くのでなければ、二葉亭四迷という高い給料を取る記者の地位は危くなることを池辺は気づかった。その使いに立って二葉亭を訪問したのは弓削田精一であった。
二葉亭四迷は、自分には小説を書く才能がなく、また小説を書くことの苦しみに直面したくないと思っていた。しかしこの明治39年春、二葉亭が以前発表した小説「浮雲」や翻訳「あひゞき」「片恋」などに近代的な写実文学の典型を見出していた島崎藤村が「破戒」を出版し、「あひゞき」の影響を受けた国木田独歩が短篇集「運命」によって、新文学の代表的な作家としての地位を獲得していた。
弓削田精一は二葉亭に小説を書くことを奨め、政治と文学というものが二葉亭にとって両立するかしないかという議論を4時間あまりも続けた。
結局、その日は話がまとまらず、弓削田はまた同じ話を繰り返すつもりで再度訪ねて行くと、意外にも二葉亭は小説を書くことを承諾した。
弓削田は、小説家として世に立ちたくない二葉亭の気特が分っていたので、一面では大変気の毒なことをしたように感じた。
20年近く以前に、二葉亭が自分の手にあまると思って中絶した「浮雲」の系統を引く口語文体が、明治36年に紅葉が没して以後、新しい小説文体として次第に広く行われるようになり、その文体によって島崎藤村、夏目漱石、国木田独歩が仕事をして注目を浴びていた。どうしても書かなければならないのなら、自分もやって見ようと、二葉亭は考えた。
彼には一つの腹案があった。
日露戦争後、表面には出ないが社会の大きな問題となっていた戦争未亡人のことを小説に描いて見たらと考えていた。彼は、体面のために個人の人権が無視される未亡人問題を、そのまま放置することはきなかった。未亡人は再婚すべしというのが彼の意見であった。彼は小説家としては認められたくなかったが、この問題は小説として書くべきものである、と考えていた。
依頼を受けて承諾した5月から8月まで、彼は小説の構想を練った。
自然主義が起って、天外、花袋、藤村、独歩の作品がその名で論議されていた。肉体の自然を尊重するこの文芸思潮を取り入れて未亡人問題を描いてもよさそうであった。二葉亭は戦争未亡人が肉体の慾に負けて妻のある男と通じる小説を書こうと考え、内田魯庵に何度か題名について相談した末、「茶筅髪(ちやせんがみ)」というのに決めた。そして真の Heart を持った女主人公が、弱気のために偽瞞的を行為をする男と関係した結果、気が狂って破滅する、という筋を作った。そして彼は8月頃その小説を書き出したが、結局彼はその構想を棄てた。
女主人公を戦争と関係ない未亡人に変え、小夜子というその女主人公が姉の夫なる小野哲也と関係するという筋を作った。
小説発表後、内田魯庵は、二葉亭がこの春から半年の間、この作品のことで苦しんで来たの知っていたので、祝いの手紙を送ると、翌日、二葉亭は魯庵に礼状を出した。
主人公小野哲也は、無理解な妻と姑に苦しめられ、義妹の小夜子と親しくなるが、その結果小夜子は家を出て千葉の教会へ走る。小野哲也の方は家を棄て、満洲へ逃亡してうらぶれた生活をする、というのがその結末であった。
内田魯庵は、二葉亭が20年ぶりの作品を書いている間じゅう、「恰も処女作を発表する場合と同じ疑懼心が手伝つて、眼が窪み肉が痩せるほど苦辛し、其間は全く訪客を謝絶し、家人が室に入るをすら禁じ、眼が血走り顔色が蒼くなるまで全力を傾注し、千鍛万練して」書き改めて来たのを知っていた。また、二葉亭は毎日の締切時間に遅れそうになるので、社からは度々社員を催促にやったが、その仕事ぶりを見たものは誰も気の毒がって催促の言葉をロにしかれた、ということであった。池辺三山はそれを評して「造物主が天地万物を産み出す時の苦しみ」だと言った。この作品に苦心している間じゅう、二葉亭四迷は二階の書斎で咳をしていた。それを母の志津は気にしていたが、すでに彼は胸を冒されはじめていた。
にもかかわらず、この作品を通読した内田魯庵は、「『浮雲』の若々しさに引換へて極めて老熟して来ただけ或る一種の臭みを常びてゐた。言換へると『浮雲』の描写は直線的に極めて鋭く、色彩や情趣に欠けてゐる代りには露西亜の作風の新しい匂ひがあった。之に反して『其面影』の描写は婉曲に生温く、花やかな情味に富んでゐる代りに新らしい生気を欠いてゐた。幸田露伴は曾て『浮雲』を評して地質の断面図を見るやうだと云ったが、『其面影』は断面図の代りに横浜出来の輸出向きの美人画を憶出させた。更に繰返すと『其面影』の面白味は近代人の命の遣取をする苦みの面白味でなくて、渋い意気な俗曲的の面白味」であると感じられた。
坪内逍遥は二葉亭から「其面影」についての批評を求められたとき、「『浮雲』とは遥かに洗練された点で先ず違う」と言った。二葉亭は、逍遥が満足していないらしいのをすぐ感じとって、うんざりしたような顔になった。
夏目漱石はこの作品が翌明治40年8月に本になったとき買って通読し「大いに感服」し、賞讃の言葉を述べた手紙を二葉亭に送った。
専門家の間では、一般的に、二葉亭の新作に対する期待が大き過ぎたためか、この作品はあまり好評ではなかった。しかし、一般読者には大変人気があった。そして、二葉亭四迷は小説家としての華やかな存在であると認められるようになった。
(『日本文壇史』第10巻による)
なお、
関川夏央『二葉亭四迷の明治四十一年』(文春文庫)が詳しい。
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