2022年7月12日火曜日

〈藤原定家の時代053〉治承4(1180)4月9日 「抑々此の源三位入道頼政は、摂津守頼光に五代、三河守頼綱が孫、兵庫頭仲政が子なりけり。保元の合戦の時も、御方にて先を駆けたりしかども、させる賞にも預らず。又平治の逆乱にも、既に親類を捨てて参じたりしかども、恩賞これ疎なりき。大内守護にて年久しうありしかども、昇殿をば許されず。」  「抑此の源三位入道頼政は、年来日来もあればこそありけめ、今年如何なる心にて、謀叛をば起されけるぞと云ふに、平家の次男宗盛卿の、不思議の事をのみし給ひけるによってなり。」     

 


治承4(1180)

4月9日

「平家物語」の記述に基く事件の経緯

○頼政(1104長治元~80治承4):

摂津渡辺(大阪市中央区)を本拠とする摂津源氏の武将。清和源氏の摂津源氏の始祖・頼光から5代目。参河守頼綱の孫。従五位下兵庫頭仲正(仲政)の息子。曾祖父の頼国は関白道長に仕えて讃岐・美濃・三河などの国司を歴任、娘を摂政師実や鳥羽上皇の寵臣藤原家房の室にしている。祖父の頼綱も娘を師実の嫡子摂政師通の妾とし、早くから宮廷社会に接近し「都の武者」として活躍。父仲政も白河・鳥羽の両院に仕え、検非違使・皇后宮大進・兵庫頭などを歴任し従五位に叙任されている。

永久・元永年間(1113~1120)、下総国守の父に同行。天治年間初め(1124)頃21~22歳で妻帯、そのころ白河法皇の恩顧を得て検非違使庁の判官代に任ぜられる。保延年間、父より所領を譲られる。保延2(1136)年4月、蔵人。同年6月、従五位下。仁平3(1153)年、美福門院の昇殿を許される。久寿2(1155)年10月(51歳)、兵庫頭(父と同じ官職)。保元元(1156)年7月、保元の乱に際し、譜代の郎等の渡辺党ら200余騎を率い後白河天皇方に従い、白河北殿の東門への攻撃に参戦するが、格別な恩賞にあずからず。保元3(1158)年12月、二条天皇即位の折に禁中に闖入した狂人を取り押さえた功績により、後白河院の昇殿を聴される(自身は更に内の昇殿も希望する)。同4年正月、兵庫寮勤務の功労により従五位上となるが身分は兵庫頭のまま。12月、平治の乱でも、初め義朝の陣営に加わるが、二条天の売の内裏脱出後は平家側に投じ、その勝利に貢献するが、何の恩賞もなし。7年後の仁安元(1166)年10月(63歳)、正五位下。12月、ようやく内昇殿を聴される。同2年、従四位下、同3年高倉天皇の大嘗会に際し従四位上に進む。嘉応2(1170)年正月、右京権大夫。承安元(1171)年12月、正四位下。

治承2(1178)年12月、平清盛の奏請により従三位に叙任。同3年11月28日(清盛のクーデタの2週間前)、出家。同4年4月、高倉宮以仁王の令旨を請い、翌月、平氏政権に対し挙兵。三井寺より南都へ向かうが、平知盛・重衡ら率いる六波羅の大軍に追撃され、5月26日、宇治川に敗れ平等院に切腹。

頼政が清盛の奏請により三位に進んだ際の「玉葉」(治承2年12月24日条)の記録。「・・・今夜頼政三位に叙す。第一の珍事なり。これ入道相国の奏請と云々。その状に云はく、源氏平氏はわが国の堅めなり。/・・・源氏の勇士、多く逆賊に与(クミ)し、・・・頼政独りその性正直、勇名世に被(カウ)ぶり、未だ三品に昇らず。・・・尤も哀憐あり。何(イカ)に況(イハ)んや近日身(ミ)重病に沈むと云々。黄泉に赴かざる前、特に紫授の恩を授くといへり。この一言に依り三品に叙せらると云々。入道の奉請の状賢しと雖も、時の人耳目を驚かざる者なきか。・・・」。平治の乱以来の頼政の平家に対する協力とその忠実な奉仕の姿勢に対する、清盛の深い信頼と憐憫の思い。

[挙兵の動機]

頼政は、清盛の推挙で三位に叙されたとはいえ、平氏の勢力に押され続け、嫡子仲綱は伊豆守、兼綱は検非違使にすぎず、その後の出世も期待できない。清盛が実力で法皇を排除して政治を切り盛りしている事態や、南都北嶺の衆徒が蜂起しようかという状況において、諸国の源氏を誘えば、きっと挙兵するであろう、と考えたと見られる。

□「平家物語」巻4「競(キオウ)」が描く頼政の平氏への鬱憤の燃え上がる様。

(概要)頼政の子の仲綱が持っていた名馬を平宗盛が強引に寄こせと云う。仲綱はこれを拒絶するが、宗盛は執拗にこれを要求。父頼政は、それほどに欲しがるのならば惜しむべきでないと諭し、仲綱はやむを得ず馬を宗盛に渡す。宗盛は名馬に感心するが、惜しんだ仲綱を憎み、馬に「仲綱」の焼印を押し、この「仲綱」を引き出し鞭で打ち、馬を仲綱に擬して侮辱する。これを聞いて頼政の平氏への積年の鬱憤が爆発した、と頼政挙兵を説明する。

「抑(ソモソモ)此の源三位入道頼政は、年来日来(トシゴロヒゴロ)もあればこそありけめ、今年如何なる心にて、謀叛をば起されけるぞと云ふに、平家の次男宗盛卿の、不思議の事をのみし給ひけるによってなり。されば人の世にあればとて、すゞろに云ふまじき事を云ひ、すまじき事をするは、よくよく思慮あるべき事なり。

たとへば、其の頃三位入道の嫡子伊豆守仲綱の許に、九重に聞えたる名馬あり。鹿毛(カゲ)なる馬の双(ナラビ)なき逸物、乗り・走り・心むけ、世にあるべしとも覚えず。名をば木の下とぞ云はれける。宗盛卿使者を立てて、

「聞こえ候ふ名馬を賜はつて、見候はばや」

と宣(ノタマ)ひ遺されたりければ、伊豆守の返事には、

「さる馬を持つて候ひしを、此の程余りに乗り疲らかして候ふ程に、暫く労らせんが為に、田舎へ遺して候」

と申されければ、

「さらんには力及ばず」

とて、其の後は沙汰なかりけるが、多く並み居たりける平家の侍ども、

「あつぱれ其の馬は一昨日も候ひし」

「昨日も見えて候」

「今朝も庭乗(ニハノリ)し候ひつる」

など、口々に申しければ、

「さては惜しむごさんなれ。憎し。乞へ」

とて、侍して馳せさせ、文などして、一時が中に五六度・七八度など乞はれければ、三位入道、これを聞き、伊豆守に向つて宣ひけるは、

「たとひ金を以て丸めたる馬なりとも、それ程人の乞はうずるに、惜むべき様やある。其の馬速かに六波羅へ遣せ」

とこそ宣ひけれ。伊豆守力及ばず、一首の歌を書き副へて、六波羅へ遣さる。

恋しくば来ても見よかし身に添ふるかげをば如何放ちやるべき」

(現代語)「これまで頼政は、波風立てず無難に過ごしてきたから、何事もなく暮らしてこられたのに、今年になって一体どんな心境の変化でこのような謀反を思い立ったのかというと、清盛の次男の右大将宗盛が、やってはならない非常識なことをした為に起こったことである。人は、世に時めき栄えているからといって、言ってはならないことを言ったり、やってはならないことをしたりすることは、よくよく思慮を巡らさねばならないことである。」

その頃、源頼政の嫡子伊豆守仲綱のもとに、都中に評判のみごとな駿馬(「九重」)が飼われていた。並みが鹿毛というので、「木の下蔭」をもじって「木の下」と名付けられていた。この噂を伝え聞いた宗盛が、「評判の高い名馬を借りて、見たい」と、使者を寄越す(平家一門の宗盛の「見せてほしい」という要求は、「その馬を寄越せ」というのも同然のこと)。そこで仲綱は、「そういう馬をもっておりましたが、余り乗りまわし過ぎて、疲労させてしまったので、暫く骨休めの為に、田舎の方にやってあります」と腕曲にこれを断る。

「そういうわけならばどうしょうもない」と、宗盛も諦めて、その後は音沙汰もなかったが、平家の侍たちが、口々に不審を申し立てる。「なんと、その馬は、一昨日まではおりましたのに」「いや、昨日もおりましたぞ」「今朝も庭で調教しておりましたぞ」と。これを宗盛は憤慨して、「さては、惜しんでいるのだな。憎らしい、是が非でも貰い受けよ」と、侍を遣り、また書面でも馬を寄越せと申し入れる。これを聞いた頼政は、息子に、「たとえ黄金を丸めて作った馬であっても、それほど人が欲しがるものを惜しむことはない。即刻、馬を六波羅へ呉れてやれ」と諭す。仲綱は仕方なく、一首の歌を添えて、馬を六波羅へ引き渡す。「それほど恋しいなら、こちらへきてご覧になるがよい。私の身に添って離れることのない影のような鹿毛を、どうしてたやすく手放すことができましょうか」という意味を込める。

馬は武士にとってかけがえのないほど重要なもので、それを権勢をかさに奪いと宗盛の行為は、言語道断な理不尽な暴挙というべきものである。

「宗盛卿、先づ歌の返事をばし給はで、/「あっぱれ馬や、馬はまことによい馬でありけり。されども、余りに惜しみつるが憎さに、主(ヌシ)が名のりを金焼(カナヤキ)にせよ」/とて、仲綱と云ふ金焼をして、厩(ウマヤ)にこそ立てられけれ。/客人(マラウド)来て、/「聞こえ候ふ名馬を見候はばや」/と申しければ、/「其の仲綱めに鞍置け」/「引出せ」/「乗れ」/「打て」/「はれ」/なんどぞ宣(ノタマ)ひける。/伊豆守、此の由を伝へ聞き給ひて、/「身に代へて思ふ馬なれども、権威について取らるゝさへあるに、剰(アマツサ)へ天下の笑はれぐさとならんずる事こそ安からね」/と大に憤られければ、三位入道宣ひけるは、/「何でふ事のあるべきと思ひ慢(アナド)って、平家の人どもが、か様のしれ事をするにこそあんなれ。其の儀ならば、命生きても何にかはせん、便宜(ビンギ)を窺ふにこそあらめ」/と宣ヘビも、私には思ひも立たれず、高倉宮を勧め申されけるとぞ、後には聞えし。」

(現代語訳)宗盛は、「なんとりっぱな馬よ。馬はほんとうによい馬であるわい」と名馬に感嘆するが、「それにしても、持ち主が余りにもの惜しみしたのが憎いしいから、その主人の名の焼き印をせよ」と命じる。やがて、客が来て「評判の名馬を見たい」と申し入れると、宗盛は、「その仲綱に鞍をつけろ」「曳き出せ」「乗れ」「鞭で打て」「なぐりつけろ」などと命じる。そのことを伝え聞いた仲綱は、「わが身に代えてもと大切に思う馬であったが、それを権威をかさに着て取り上げられただけでも口惜しいのに、更に世間のもの笑いの種にされるのは我慢がならぬ」と憤るが、頼政はそれを聞いて、「たいしたことはなかろうと慢心して、平家の者がこのような馬鹿げたことするのであろう。そうえあるならば、生きていても何の甲斐があろうか。(謀反の)機会を狙って平家に思い知らせてやろう」と思い立つが、これを私的な企てとせず、(天下の大事とする為に)以仁王に働きかけたと、後に世間でとり沙汰された。

「平家物語」は、こうした宗盛の愚かな行動を耳にするにつけ、世間の人々は、宗盛の異母兄小松の内大臣重盛の行動を思い出すとして、重盛のエピソードを語る。)

[挙兵方針]

①以仁王を擁し、資金は八条院に仰ぎ、頼政摂麾下の津源氏渡辺党を核にする。

②諸国の反平氏勢力(特に、五畿内、近江、美濃、東海・東山道の源氏)に決起を促す。

③武士の側面支援として、京都周辺の寺社の軍事的協力を求める。三井寺(園城寺)を拠点に、南都に呼びかける。東大寺は、平正盛・忠盛時代から伊賀国鞆田庄などを巡り平氏とは対抗している。藤氏の氏寺の興福寺も、藤氏を圧迫する平氏との間に対立がある。但し、延暦寺は、従来より園城寺とは抗争を続けており、また平氏与同勢力も強く、特に清盛の戒師として平氏勢力を代表する明雲が座主であり、山内にある程度平氏勢力を浸透させているという不利な状況。

④挙兵時期は、清盛の不在時を狙う。


頼政の年齢

叛乱時点で77歳と極めて高齢。

ちなみに、清盛63歳、後白河上皇54歳、俊成62歳、兼実32歳、慈円26歳、定家19歳。

「当代の一流」歌人としての頼政

鴨長明「無名抄」における俊恵(1113~?)・藤原俊成(1114~1204)の頼政評。(俊成の評)「俊恵は当世の上手なり。されど(父の)俊頼にはなほ及び難し。俊頼は思ひ至らぬくまなく、一方なく(偏りなく)よめるが、(俊惠が俊頼に)力及ばぬなり。今の世には、頼政こそいみじき上手なれ。かれだに座にあれば目のかけられて(注目が集まり)、事一つせられぬ(素晴らしいことを一つ、されてしまいそうだ)と覚ゆるなり。」(「俊成入道物語事」より) 。源俊頼(1055?~1129)は俊恵の父。頼政は俊恵、俊成らの10歳年長。鴨長明(1153?~1216)は俊恵の弟子。俊成は、俊頼の頃からの歌人たちを振り返ってみて頼政を「いみじき上手」と高く評価。(俊恵の評)「俊恵いはく、「頼政卿はいみじかりし歌仙なり。心の底まで歌になりかへりて(なりきって)、常にこれを忘れず心にかけつつ、鳥の一声鳴き、風のそゝと吹くにも、まして花の散り、葉の落ち、月の出で入り、雨・雪などの降るにつけても、立ち居起き臥しに、風情をめぐらさずといふ事なし。真に秀歌の出で来る(ことも)、理(コトハリ)とぞ覚え侍りし。かゝれば、しかるべき時(立派な歌会などの際)名を上げたる歌は、多くは擬作(予め準備をして作っておく歌)にてありけるとかや。大方、会の座に連なりて歌うち詠じ、よきあしき理(コトワリ、判定)などせられたる気色も、深く心に入りたることと見えていみじかりし。かの人のある座には、なに事もはえあるように侍りしなり。」(「頼政歌の道にすける事」より)。

「従三位頼政卿集」に、贈答歌の詞書(ことばがき)の大意に、「長年住んでいた自宅を大宮(多子、たし)の御所として召し上げられ、それまでの御所を自宅に替えるというのがある。また、大宮・多子の女官で有名な女流歌人小侍従(待宵の小侍従)と頼政との贈答歌も多く、「恋のやまひ」という語の入る和歌を詠みあっている。この時、頼政が60歳頃、小侍従40代。多子は徳大寺公能の娘、兄は藤原実定(左大臣(1189文治5~90文治6))。祖父実能(さねよし)は徳大寺左大臣と称され、『平家物語』巻2「徳大寺之沙汰」で左近衛大将を望んで厳島参詣をする話が有名。弟の実家は、私家集「実家集」を持つ人物で、久安元年(1145)生まれ。母愛子は藤原俊成の妹。俊成と親忠女・美福門院加賀との子が定家。美福門院加賀は俊成と再婚する前に隆信を生み、俊成は隆信を養子とする。隆信は定家の20歳上。

摂津源氏の祖の頼光も和歌をよくし、「拾遺和歌集」「金葉(キンヨウ)和歌集」「続詞花(ゾクシカ)」などにその歌が収められている。頼光の孫で頼綱の弟の頼実も優れた歌人として知られ、和歌の神の住吉社に秀歌を得るよう祈りを込めそのため命を縮めたという逸話があり、歌集「故侍中左金吾(コジチユウサキンゴ)集」を残す。頼綱もまた世に知られた歌詠みで、歌壇の中心人物の源俊頼・能因・経信らと親交を結び、「今鏡」が「歌の道にとりて人も許せりけり。わが身にも殊の外に思ひあがりたるけしきなりけり」と評し、「多田歌人」と呼ばれたという。父の仲政も歌人として名高く、藤原俊忠・藤原顕広(俊成)らの主催する歌会にしばしば参加して多くの歌を詠み、当時の宮廷歌壇に独自の地歩を占めている。仲政は鳥羽院のめのと子である歌人丹後守為忠ととくに親しく、歌合に子の頼政を伴って出席し歌を詠んでいる。頼政も早くから歌才に恵まれ、白河の俊恵法師の僧坊を中心に歌会を営んでいた歌林苑(カリンエン)の一員としてめざましい活躍を見せる。

源氏の武士(摂津源氏=頼光に始まる中央政界・宮廷に進出を計った「中央派」)としての頼政。

53歳の時、平治の乱1159では戦線離脱し清盛に貸しを作る(悪源太義平に裏切りをなじられる「平治物語」」)。74歳、安元3年(1177)4月13日山門僧をうまくあしらう(「平家物語」巻1「御輿振みこしぶり」)。

□「平家物語」巻4「鵼(ヌエ)」。頼政のプロフィール。

「抑々(ソモソモ)此の源三位入道頼政は、摂津守頼光に五代、三河守頼綱が孫、兵庫頭仲政が子なりけり。保元の合戦の時も、御方(ミカタ)にて先を駆けたりしかども、させる賞にも預らず。又平治の逆乱にも、既に親類を捨てて参じたりしかども、恩賞これ疎(オロソカ)なりき。大内守護にて年久しうありしかども、昇殿をば許されず。年(トシ)蘭(タ)け齢(ヨハヒ)傾(カタブ)いて後、述懐の和歌一首詠みてこそ、昇殿をばしたりけれ、/人知れぬ大内山の山守(ヤマモリ)は木隠(コガク)れてのみ月を見るかな/これによって昇殿許され、正下四位にて暫くありしが、猶三位を心にかけつゝ、/上るべき便り無き身は木のもとにしひを拾ひて世を渡るかな/さてこそ三位はしたりけれ。/やがて出家して、源三位入道頼政とて、今年は七十五にぞなられける。」


つづく




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