文治2(1186)年
1月2日
・「二品並びに御台所甘縄神明宮に御参り。御還向の便路を以て、籐九郎(安達)盛長が家に入御すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
1月3日
・「去年二品に叙し給うの後、未だ御直衣始めの沙汰に及ばず。豫州の事に依って、世上未だ静謐せずと雖も、且つは衆庶安堵の思いを成さしめんが為、今日その儀を刷わる。」(「吾妻鏡」同日条)。
1月5日
・文覚、許された六代を伴って都に入る(「平家物語」)。
1月6日
・義経家臣佐藤忠信(28)、義経を吉野から逃亡させるため、義経と別れて吉野で戦った後、京都六條堀川 の判官館に潜むところを頼朝軍勢に襲われ自刃。
吉野・中院谷に潜伏中の義経に、吉野山衆徒が攻撃。平泉時代からの義経郎党・佐藤忠信、殿を申し出て奮戦(兄・継信は屋島で戦死)。生き延びて、京都で義経を探すうちに、六波羅兵に遭遇、討死。
1月9日
・「高野山の衆徒訴え申す旨有るに依って、北條殿下知を加えしめ給うの上、寺領の狼藉を止めんが為、雑色を差し遣わさると。」(「吾妻鏡」同日条)。
1月10日
・「摂津の国貴志の輩の事、御家人に加えらるる所なり。但し関東の番役等を止め、一向左馬の頭能保の宿直を勤むべき由定めらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
1月21日
・「法皇今年六十の御宝算なり。仍って御賀を行わるべきの旨、これを申し行われんが為、上絹三百疋・国絹五百疋・ショウ牙等、この外班幔六十帖、京都に進上せしむ所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
1月23日
・頼朝、勅裁を請い平時実を上総へ配流。
1月23日
・「二品神馬を諏訪上下宮に進すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
1月24日
・「日吉の塔下彼岸衆訴訟の事、その沙汰有り。二品一方の御成敗に非ざるの間、今日京都に執り申さるる所なり。 日吉の塔下彼岸衆の申文一通、謹んで以てこれを進上し候。法性寺領として、小橋庄三箇村を押領せられ候と。而るに重家、近衛殿より小橋庄の預所職を賜い候いをはんぬ。仍って衆徒重家の結構を停止すべきの旨、触れ遣わし候と雖も、彼と云い是と云い、共に以て庄領に候。仍って私の成敗に能わず候。執り申せしめ候所なり。道理に任せ計り仰せ下さるべく候か。頼朝恐々謹言。」(「吾妻鏡」同日条)。
1月26日
・「摂録の事、早く宣下せらるべきの由、二品京都に申せしめ給う。当執柄は、伊豫の守義経謀逆の事に依って、雑説等有るが故なりと。」(「吾妻鏡」同日条)。
1月28日
・「左典厩(一条能保)及び室家、帰洛せらるべきに依って、足立右馬の允遠元が家に出門す。これより先、二品並びに御台所その所に渡御し、侍り奉らしめ給う。これ御餞別の儀なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
「左典厩能保並びに室家、男女御子息、鶴岡八幡宮に参られ、神楽を行わる。」(「吾妻鏡」2月1日条)。
1月29日
・北条時政は静(義経の妾)を鎌倉に送ることを命じられる。3月1日、静と母は鎌倉に着く。
「豫州の在所今に聞かず。而るに猶推問せらるべき事有り。静女を進すべきの由、北條殿に仰せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
つづく
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