2023年3月1日水曜日

〈藤原定家の時代286〉建久2(1191)年4月1日~4月30日 大江広元、明法博士・左衛門大尉、検非違使となる 〈頼朝と通親、通親と広元、広元と兼実〉の関係 延暦寺の宮法師、年貢未進を理由に近江佐々木庄で乱暴 佐々木定重、近江国佐々木庄で日吉社の宮仕法師らを刃傷 山の大衆蜂起す(「玉葉」)    

 


建久2(1191)年

4月1日

・この日の除目で、大江広元は明法博士・左衛門大尉に任じられるとともに、使宣旨を受けて検非違使となった。

兼実は、広元の出身である大江氏は文章道・明経道を家業としており、大江氏の人間である限り、大外記や明経博士といった文官あるいは学問に関わる官職に任じられるべきで、衛門府のような武官や明法道糸の官職を与えることは異例であるという。広元の養父広季は明経博士であり、広元のように明経道の極官である外記を経験した官人が明法博士となる先例は絶えて久しいものだったし、明法博士への任官は、定員2名のところを3名に増員してなされた前代未聞のものだった。

また、この異例の任官は兼実の政敵・源通親が後白河に助言して実現したものだった。

「因幡の前司中原廣元(大博士廣季男なり。頼朝卿腹心なり)、明法博士(・・・)並びに左衛門大尉(・・・)に任ず。即ち使の宣旨を蒙る。この事如何。家すでに文筆の士なり。期する所大外記・明経博士なり。而るに今の所任天下の耳目を驚かす。この事通親卿追従の為諷諫を加うと。人縦えば教訓を加え、身自ら用ゆべからざるか。或いは云く、遂て靭負の佐に転ずべし。これ允・亮等の例なりと。凡そ言語の及ぶ所に非ず。恐らくは頼朝卿の運命尽きんと欲すか。誠にこれ師子中の虫師子を喰うが如きか。」(「玉葉」同日条)。

〈頼朝と通親、通親と広元、広元と兼実〉

頼朝は、建久年間頃より、朝廷との交渉の窓口として親しい関係を続けてきた親幕派公卿兼実と距離を置くようになり、かわって兼実とライバル関係にあった後白河近臣源通親に接近しはじめる。頼朝は、娘大姫の後鳥羽天皇入内という重大案件を、通親のルートで実現しようと図っており、その具体的折衝に広元も一枚かんでいた可能性が高い。

通親と広元の交流はこれ以前にさかのぼる可能性はあるが、建久初年の朝幕交渉過程で通親と広元の関係が親密になり、通親の口添えで広元の破格の任官が実現したと思われる。『和歌真字序集』紙背文書の第11号文書に、「博士御所望事、尤穏便歟(か)」という記述があり、これは、広元が明法博士への任官を望んだことに関連するものである。

建久10年(正治元年、1199)正月、後藤基清・中原政致(まさむね)・小野義成による通親襲撃未遂事件(いわゆる三左衛門の変)の際、広元が通親を擁護する姿勢をとったことに対し、慈円の『愚管抄』は、広元は通親の「方人(かたうど)」(味方)であると記している。また、承久の乱に際して後鳥羽方についた親広(広元の長子)は通親の猶子となっており、広元と通親の関係の親密さは、極めて深いものであった。

広元にしてみれば、かつて外記として奉仕した兼実を敬遠する気持ちがあったのかもしれない。兼実にとっても、一外記官人にすぎなかった広元が破格の出世をしたことに、心穏やかならぬものがあったにちがいない。兼実の述べる「おそらく頼朝卿の運命尽きんと欲するか。誠にこれ獅子中の蟲獅子を喰らうごときか」という言葉には、自らの調関係をさしおいてまで通親に接近しょうとする頼朝の対朝廷政策転換に対する糾とともに、広元に対する不信感があからさまに示されているといえる。

4月2日

「今朝、能保卿使を送り申して云く、近江の国佐々木庄は、延暦寺千僧供庄なり。而るに未進有りと称し、寺家より宮仕法師数十人を遣わし、佐々木の太郎定綱の住宅を譴責す(件の定綱在京す。その子在国すと。定綱近江の国総追捕使として、頼朝卿殊に召し仕う所の武士と)。過酷法に過ぎ、遂に以て放火す。近辺の人屋多く以て焼失しをはんぬ。然る間、定綱郎従等、多く以て出来し、宮仕法師等を凌轢しをはんぬ。この意趣に依って、定綱の京の住所を焼失すべきの由風聞す。事大事に及ぶか。」(「玉葉」同日条)。

4月3日

「凡そ近日山上飢饉の間、近江の国中、無道の沙汰充満すと。仍って頻りに禁制を加うと雖も、敢えて承引せず、遂にこの大事に及びをはんぬ。但し且つは法皇の還御を相待つべし。また関東に触れ遣わさるるの間、暫く狼藉を停止すべきの由、御教書を賜う。」(「玉葉」同日条)。

4月5日

・佐々木定重(定綱の子)、近江国佐々木庄で日吉社の宮仕法師らを刃傷。

「佐々木定綱狼藉の事、山門の衆徒、三綱等を差し、或いは熊野道に進し、或いは関東に遣わすと。彼の成敗を待つの間、暫く落居すと。・・・或る人云く、頼朝卿の女子、来十月入内すべきと。此の如きの大事、ただ大神宮・八幡・春日の御計なり。人意の成敗に非ざるものか。」(「玉葉」同日条)。

「大理(能保卿)並びに廣元朝臣等の飛脚参着す。・・・去る月の比、佐々木小太郎兵衛の尉定重、近江の国彼の庄に於いて、日吉社の宮仕法師等に刃傷す。仍って山徒蜂起し、所司奏状を捧げ参洛す。定重の身を賜うべきの由これを申す。また延暦寺の所司等を関東に差し進すべきの由風聞す。朝家の大事忽然出来す。その濫觴は、近江の国佐々木庄は延暦寺千僧供領なり。去年水損の愁い有り、乃貢太だ闕乏するの間、定綱(定重父)と云い土民と云い、これを沙汰し送らんと欲するに所無し。仍って衆徒等、去る月下旬、日吉社の宮仕等を差し遣わす。日吉の神鏡を捧げ、定綱の宅に乱入し門戸を叩き、城壁を破り、家中の男女を譴責し、頗る恥辱に及ぶ。時に定重一旦の忿怒に堪えず、郎従等をして宮仕一両人に刃傷せしむ。この間誤って神鏡を破損すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月6日

「午の刻、延暦寺所司三綱、日吉社宮司等参り来たる。三綱申して云く、大衆云く、近江の国佐々木庄は、当時千僧供庄なり。而るに若干の未済に依って、宮仕法師等を遣わし頗る以て譴責す。然る間、自ら火を宅に放ち、宮仕等これを打ち滅す。猶これに付き、遂に以て焼失しをはんぬ。宮仕等退帰せんと欲するの処、三方の橋を引き、人通りを得ず。一方に路有りて、僅かに逃げ去る。時に数十騎の軍兵出来し、刃傷殺害す。疵を蒙るの者太だ多し。終命の者両三。事の奇異、先代未だ聞かず。・・・仍って定綱並びに子息等を衆徒の中に賜り、七社の宝前に於いて子細を問うべし。・・・即ち三綱一人を差し、南山に進すべきなり。兼ねてまた所司一人を差し、関東に達すべしと。」(「玉葉」同日条)。

4月8日

「今旦、能保卿使を送りて云く、山の大衆蜂起す。定綱を閣き、能保を以て質に取るべきの由議定すと。この事為すに堪え難きが如何。余云く、この事、一切信受せられず。人を損ず凶害たらば、申し出る所か。更に驚き存ぜらるべからず。」(「玉葉」同日条)。

4月9日

「佐竹別当常陸の国より参上す。今日営中に於いて盃酒を献る。幕下御入興の気有りと雖も、山門騒動の事思し食し悩むに依って、数巡の儀に及ばずと。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月11日

「定綱佐々木庄を逐電するの由その聞こえ有り。これに就いて群議を凝らさるる事有りと。定めて関東に参向するの由、幕下仰せらるると。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月16日

・梶原景時、上洛。延暦寺衆徒が佐々木定重らの身柄を要求して強訴に及んでいるが、定重の罪科が逃れようのないものならば、早く処罰をするよう奏聞するため。

「梶原平三景時使節として上洛す。これ延暦寺衆徒、定重党類を申請すべきの由強訴に及ぶの旨、罪科遁れる所無くば、早くその科に行わるべきの旨、奏聞せらるるに依ってなり。また所司参向すべきの由風聞するの間、遮って此の如しと。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月17日

・藤原定家(30)、良経より和歌一巻を贈られこれに和す。

4月26日

・延暦寺衆徒ら、近江国佐々木荘の年貢につき神輿を奉じ佐々木定綱らを強訴。

「・・・山門衆徒、只今下洛の由聞き及ぶ所なりてえり。すでにその実有り。京極寺に集会すと。・・・武士、前の将軍の侍三人(時定・高綱・成綱)の中、相並び五六十騎に及ばず。また遠江の守義定(去る比坂東に下りをはんぬ)の郎従十騎ばかり召し候せしむ。自体頗るオウ弱と。・・・大衆町を過ぎ、陣中半ばに及ぶと。仍って史以業を以て、陣外に候し、所存を申すべし、猥に陣中に乱入する理然るべからず。・・・この間、守護の武士頗る闘諍に及び、相互小刃傷有りと。然れども、深く制止を加え、殊に大事に及ばざるか。良久くして、以業帰り来て云く、全く院中に参入すべからず。ただ訴訟成敗を以て望みと為すべし。・・・亥の刻、宗頼帰り来たり、院宣を伝えて云く、重々衆徒に仰せらるる旨、一々叡慮に叶い、尤も神妙に思し食す。大衆の申状、また聞こし食しをはんぬ。先ず衆徒不当の條々、仰せ下さる。訴訟の條に至りては、定綱、その身もし候は、召し給うべきの処、すでに以て逃げ脱しをはんぬ。召し出され、御沙汰有るべきなり。関東に仰せられ、その身を召し出すの間、暫く帰山すべきの由、仰せ下さるべしてえり。禁獄の條に於いては、仰せらるべからず。彼進せ申さざるの上、また遠流に過ぐべからざるが故なり。

兼ねてまた衆徒承諾せず。猶神輿を棄てらば、座主慥に本社に送り奉るべきの由、召し仰せらるべしてえり。御定の趣を以て、座主に仰せをはんぬ。頃之、座主申して云く、衆徒猶愁うと雖も、勅許無し。所詮、件の定綱、京畿諸国に仰せ、その身を召し進すべきの由、宣旨を下されてえり。これを以て一分の裁許たるべしと。この趣を以て、また奏聞せんと欲するの処、蔵人基保来たり申して云く、衆徒神輿を棄て逐電しをはんぬ。・・・この後、行わるべきの事等、人々と相議す。今日の子細、具に関東に触れ遣わすべし。またこの後、座主に仰せ合わされ、禁獄もし請け申さば、徒年に満つべきの由、並びに流罪、また召し返さるべからざるの由、仰せらるべきかと。」(「玉葉」同日条)。

4月26日

「鶴岡若宮の上の地に、始めて八幡宮を勧請し奉らんが為、宝殿を営作せらる。今日上棟なり。奉行は行政と。幕下御参り。今日後藤兵衛の尉基清使節として上洛す。定綱・定重の事に依って、山門の訴え更に休み難し。殆ど定重を斬罪に行わるべきの由を申すと。飛脚連々到来するの間、重ねてこの儀に及ぶ。先度言上し給うの趣に於いては、すでに叡聞に達す。これに就いて内々宥め仰せらるると雖も、衆徒更に静謐せずと。然ればもし左右無く梟罪に及わば、景時私に衆徒に懇望せしめ、佐々木庄已下定綱知行所半分、未来の際を限り山門に附け奉るべきの趣、問答すべきの由仰せ遣わさると。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月29日

「今日早旦、座主また衆議一同の子細(定綱並びに子三人配流、下手人禁獄と)を申す。同じくその旨を奏す。殊に院聞こし食すの旨仰せ有りと。また明日(三十日)配流の事を行わるべし。凶会と雖も、此の如きの急事、先例強ち日を撰ばず。」(「玉葉」同日条)。

4月30日

「延暦寺の所司弁勝・義範等参着す。・・・衆徒の状を献上す。定綱父子の身を給うべきの由これを載す所なり。また彼の父子の外、下手人と称し交名を注進す。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

「延暦寺の所司等帰洛す。」(「吾妻鏡」5月1日条)。


つづく


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