2023年3月11日土曜日

〈藤原定家の時代296〉建久4(1193)年3月1日~4月28日 熊谷次郎直実、仏門に入る 鎌倉にて後白河崩御一周忌の千僧供養 法会後、頼朝は那須野・三原・入間野など各所で狩猟 備前を東大寺に、播磨を東寺に造寺料として付与       

 


〈藤原定家の時代295〉建久4(1193)年1月1日~2月23日 「高雄の文覺上人伝え申して云く、[東大寺の造営頗る功を終え難きの由、舜乗房これを愁訴し申す。、、、]」(「吾妻鏡」) 定家(32)母・美福門院加賀(70余)没 より続く

建久4(1193)年

3月

・この月、熊谷次郎直実、京都の法然上人(源空)を訪れ、仏門に入る。蓮生房と名乗る。

3月1日

・若君万寿(のちの頼家)が由比ガ浜で小笠懸を行う。結城朝光が介添え。

3月2日

「東大寺造営料米の事、殊に精誠の沙汰を致すべきの旨、周防の国の地頭に仰せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月9日

「那須の太郎光助下野の国北條の内一村を拝領す。これ来月那須野に於いて御野遊有るべきの間、その経営の為これを充て行わると。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月12日

・山門の訴訟により薩摩国に流されていた佐々木定綱・弟経高・盛綱ら、法皇崩御1周忌の恩赦にて帰国。

「将軍家太だ歓喜し給う。治承四年以来、専ら勲功を顕わすの間、殊に寵愛たるの処、山門の訴訟に依って、去々年薩摩の国に配流せらるる所なり。」(「吾妻鏡」4月29日条)。

3月12日

・北条義時(31)、病気のために伊豆に帰参していたが、本日鎌倉に戻る。

3月13日

・鎌倉にて法皇崩御一周忌の千僧供養(「吾妻鏡」同日条)。宿老の僧10名が、それぞれ100人の僧を引き連れて適当な道場を定めた。

後白河の一周忌の法会が終わると、頼朝は、下野国那須野や信濃国(上野国カ)三原、武蔵国入間野など各所で狩猟を行っている。鎌倉も平時になっていたことを示している。

3月14日

・東大寺修造の事について、文覚が播磨国を知行して奉行するよう、頼朝がとり計らう(『吾妻鏡』)。

3月15日

・近日那須野で御狩を行うので、藍沢に構えられていた屋形などを宿次の人夫を動員して、解体して下野国運ぶ(『吾妻鏡』)。

3月16日

・幕府、平氏の余党越中盛継討伐を「兵衛の尉基清」に下知(「吾妻鏡」同日条)。

3月16日

・藤原実家(49)没。右大臣・徳大寺公能の次男。正二位・大納言。母は藤原俊成の妹。

3月21日

・頼朝、「下野の国那須野・信濃の国三原等の狩倉」に進発。弓馬に優れた義時(31)・里見義成等22人供する。

「旧院一廻の程は、諸国に狩猟を禁ぜられ、日数すでに馳せ過ぎをはんぬ。」(「吾妻鏡」同日条)。

「武蔵の国入間野に於いて追鳥狩り有り。」(「吾妻鏡」同25日条)。

「那須野を覧玉い、去る夜の半更以後に勢子を入る。」(「吾妻鏡」4月2日条)。

3月23日

・足利義兼及び室北条時子、鶴岡八幡宮に社参して一切経の書写を始める。

4月7日

「申の刻、宗頼朝臣頼朝卿の返札を持ち来たる。播磨・備前の両国、猶東大・興福両寺に付けらるべきの由なり。上人等を召し寄せ仰せ含むべしと。仍って東大寺上人、早く召すべきの由宗頼に仰せをはんぬ。文覺上人すでに普通の人に非ず。大凶人たり。仍って直に召し取ること能わず。前の中納言に仰すべきか。」(「玉葉」同日条)。

「今日東札到来す。播磨・備前の国等、上人に付すべきの由先日申せしむ。而るに今日の状にハ、国司を改任(播州泰経、備州能保)すべし。但し両寺を造了すにハ、各々国務を災わすべからず。上人沙汰すべしと。大旨同じと雖も聊か相違す。是非に迷惑しをはんぬ。然れども今度の申状に就いて沙汰を致すべきか。国司に任ぜられ、猶国司吏務を行うハ、所出は造寺の用途に注ぐべきか。然る間、左右ただ自専に能わざるのみ。」(「玉葉」同9日条)。

4月10日

・幕府の申請により造寺料として備前を東大寺に、播磨を東寺に付与。

「この日、東大寺の大佛上人(春乗房重源、今は南無阿弥陀佛と号すなり)並びに彼の寺の長官左大弁定長等を召し、備前の国を東大寺に付けらるべきの由これを仰す。但し件の国は能保卿に給うべし。遂に知行すべき人なり。仍って国司を申し任ずべしと。然れども大仏殿造営の間、能保卿一切口入すべからず。上人一向に沙汰すべしと。・・・余使者を以てこの次第を能保の許に仰せ遣わすの処、答えて云く、上人申して云く、事毎に万石ヲ能保沙汰し給うべし。その外の事知るべからずと。而るに今の仰せ相違すること如何。即ち上人の退出せんと欲するヲ召し留めテ、尋ね問い候の処、殿下に於いテハ済物を成すべきの由、召し有るに依って国務を辞し申すの由申し候所なりと。次第勿論。上人の虚言か。能保卿の妄言か。ただ頼朝申状に依って沙汰を致すばかりなり。その上の事知るべからずの由答えをはんぬ。」(「玉葉」同10日条)。

「未の刻、文覺上人来たり。宗頼朝臣これより先に参入す。播州の事を仰せ、領掌を申す。その躰太だ入□と。弾指すべし。永く宣旨公物の事、猶済すべからずと。また余を庄園に宛つべしと。仰せて云く、邂逅便宜なり。勤め煩い無くハ盍ぞ勤仕すべきか。定めの如く叶うべからず。・・・また泰経卿来たり。播州の間の事を仰す。」(「玉葉」同12日条)。

「この日東大寺上人参入す。備前の国の事を申す。国司前使を遣わすハ、国務すべからこの日東大寺上人参入す。備前の国の事を申す。国司前使を遣わすハ、国務すべからからず候なりと。これらの旨を以て能保卿に仰せ合わす。一切沙汰すべからずの由これを申す。仍ってこの旨を前使に仰す事か。強ち申すべからずの由仰すなり。仍って上人承伏し、證文を給うべきの由を申す。能保卿に仰せ合わすこと宗頼に仰す。御教書を長官定長卿の許に遣わしをはんぬ。その旨上人に仰せをはんぬ。」(「玉葉」同16日条)。

4月20日

・兼実の摂関就任以来、初めての賀茂詣(もうで)が盛大に執り行われる。摂関賀茂詣は摂関家恒例の年中行事であるが、平安時代末期以降、おこなわれないことも多く、兼実もここまで「連々相障(れんれんあいさわ)り」ありと称して、おこなってこなかった。賀茂詣の復活は、摂関政治の再興を意味するものだった。

4月28日

・頼朝、那須の狩りの帰りに上野の新田義重の館を訪れ遊覧し、鎌倉に戻る(「吾妻鏡」同日条)。


つづく


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