2023年3月5日日曜日

〈藤原定家の時代290〉建久3(1192)年1月3日~2月22日 後白河の病状が深刻 建設中の永福寺視察中の頼朝を狙った暗殺者(平忠光)、捕縛・梟首 後白河、丹後局との娘である宣陽門院に莫大な所領(長講堂領)を譲る

 


建久3(1192)年

1月3日

「申の刻に院に参る。召しに依って御前に参る。法皇御浴の間と。女房二品これに謁す。御悩の安否を問うに、答えて云く、窮冬両三日、天気快然なり。昨今頗る不快なり。就中、元日より御陰大いに腫れ、別に苦痛無きと雖も、起居礼拝等の間また苦痛無きに非ずと。」(「玉葉」同日条)。

1月21日

・建設中の永福寺視察中の頼朝を狙った暗殺者(平忠光)、捕縛。

2月24日、「武蔵の国六連の海辺に於いて、囚人上総の五郎兵衛の尉忠光を梟首す。」。

「新造の御堂の地に渡御す。犯土の間、土石を運ぶ疋夫等の中に左眼盲の男有り。・・・面縛するの処、懐中に一尺余りの打刀を帯す。・・・またその盲を覧れば、魚鱗を以て眼の上を覆う。・・・名謁り申して云く、上総の五郎兵衛の尉なり。幕下を度り奉らんが為に数日鎌倉中を経廻すと。即ち義盛に下し賜り、同意の輩を召し尋ねらるべきの旨これを仰せ含めらる。」(「吾妻鏡」同日条)。


2月3日

「宗頼朝臣来たり申して云く、八幡別当法印成清、所帯の別当職を以て、弟子道清法眼に譲補す。成清は検校に転ずるべきの由言上す。早く請いに依って宣下すべきの由、院宣有りと(右大臣奉書)。早く宣下すべきの由これを仰す。」(「玉葉」同日条)。

2月4日

・大江広元、後白河の病気見舞いの使者として鎌倉を発ち、13日に京に入る。

「大夫の尉廣元使節として上洛す。これ去年窮冬の比より太上法皇御不豫にして、玉躰腫れしめ御うと。この御事に依ってなり。」(「吾妻鏡」同日条)。

「余書札を以て法皇の動静を二品に問う。返報に云く、この五六日夜々辛苦す。事の外御増有りと。」(「玉葉」同日条)。

2月5日

・義朝の乳母であった摩々局(ままのつぼね、92歳)が相模国早河庄より鎌倉に参上。頼朝は、早河庄内の知行地の課役免除を望まれたので、それを叶えてやる。

2月18日

・後白河(66)、長講堂領等を処分。

後白河は、「遺詔(いしよう)」を発して、丹後局との娘である宣陽門院に莫大な所領である長講堂領を譲る。そのため、丹後局は娘の莫大な財産を背景に、院近臣たちに大きな影響力を保持し、後白河没後も、彼女の勢力はすぐに衰えることはなかった。しかも、宣陽門院の後見人である源通親は、後鳥羽の乳母である藤原範子(南家・藤原範兼の娘)を妻に迎え後宮を統括する禁中雑事奉行になっており、丹後局一派の影響力は後宮にまで及んでいた。こうした中で、丹後局たちは、かえって兼実の措置に対して反発し、兼実の追い落としを図っていくことになる。

「法皇の宮に行幸あり。蓋し御悩みの訪(トブライ)なり。・・・今度申し置く人々 宣陽門院、親能、教成等の事なり。敢て他人の事無しと云々。」(「玉葉」同日条)。

「申の刻に還御するの後、丹二品法皇の御使いとして参上す。申さるる事等有り。・・・白川の御堂等、蓮花王院、法華堂、鳥羽法住寺等、皆公家の御沙汰たるべし。自余散在の所領等は、宮に達し分け給う事等有り。聞こし食し及ぶに随って、面々に御沙汰有るべしと。(その外、今日吉、今熊野、最勝光院、及び院領、神崎、豊原、會賀、福地等は皆公家の御沙汰たるべし。但し金剛勝院一所は殷富門院領たるべしと)。この御処分の體、誠に穏便なり。」(「玉葉」同日条)。

2月21日

・大江広元、左衛門大尉・検非違使の職を辞する文書(辞状)をしたためる。

「正五位下行(ぎよう)左衛門大尉中原朝臣広元誠惶(せいこう)誠恐謹言 ことに天恩を蒙り、帯するところの左衛門尉・検非違使職を罷(や)まれられんことを請う状」で始まる広元の辞状は、これが鎌倉に届いた3月2日の『吾妻鏡』の記事に収められている。三つの官職を兼ねることは負担が重いので、前年11月5日に明法博士は辞し、残る二つの武官職も、自分の家業と能力から考えて任が重いので辞したい、という。

『吾妻鏡』3月2日条には、辞状の写しを見た頼朝が「この事はなはだ御意に叶う」(満足した)という記事が見える。広元の辞職は頼朝の意向であったが、そのことを辞状に書くわけにはいかなかった。

2月22日

・後白河の病状が深刻であることが、大江広元の使者によって鎌倉に伝えられる。


つづく

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